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第4話 澱み

会社にいる間、真昼はずっと落ち着かなかった。


 午前中の業務。


 昼の書類整理。


 電話対応。


 全部やっているはずなのに、意識だけがどこか浮いている。


 ふとした瞬間に思い出す。


 味噌汁。


 低い声。


 “ちゃんと生きてなさそうだったので”。


 あの言葉。


 真昼は書類へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。


「佐伯さん?」


 課長の声。


 真昼は顔を上げる。


「はい」


「これ、数字違ってる」


「あ……すみません」


 慌てて資料を引き寄せる。


 単純な入力ミスだった。


 最近こういうのが増えている。


 集中できていない。


 課長は少し心配そうな顔をした。


「ちゃんと寝てる?」


「……まあ」


 曖昧に笑う。


 本当はほとんど眠れていない。


 でも。


 昨夜は少しだけ違った。


 怖かったはずなのに。


 誰かが上にいる気配を感じながら目を閉じると、不思議と“完全な一人”ではない感覚があった。


 そのことを思い出して、真昼は自分で気持ち悪くなる。


 昼休み。


 真昼は一人でコンビニへ向かった。


 弁当コーナーを見ながら止まる。


 味噌汁。


 カップ味噌汁の棚。


 視界に入った瞬間、今朝の湯気を思い出す。


 真昼は小さく舌打ちした。


「なんで思い出すんだよ……」


 適当におにぎりを二つ取る。


 レジへ向かう。


 その途中。


 ふと気づく。


 今日は、ちゃんと昼を買っている。


 昨日までは、ゼリー飲料だけの日もあった。


 何なら食べない日も。


 でも今朝。


 三浦に、


「ちゃんと食べてないので」


と言われた。


 その瞬間から。


 妙に食事を意識してしまっている。


 真昼は会計を済ませ、コンビニを出た。


 外は少し雨が降り始めていた。


 細かい雨。


 アスファルトの匂い。


 車へ戻りながら、真昼はぼんやり考える。


 管理会社へ電話するなら、今日だ。


 今夜帰って。


 全部話す。


 天井裏に人がいる。


 長く住み着いている。


 勝手に部屋へ入っている。


 普通なら、そうするべきだ。


 でも。


 もし三浦がいなくなったら。


 その後、自分はまた前みたいに戻るんだろうか。


 コンビニ弁当を開けて。


 風呂にも入らず。


 床で寝落ちして。


 誰にも気づかれないまま生活する。


 真昼は歩きながら、眉を寄せた。


「……何考えてんだ」


 自分で、自分の思考が気持ち悪い。


 怖い相手のはずだ。


 なのに。


 少しだけ。


 “生活”として馴染み始めている。


 そのことが、何より怖かった。


その日の夜。


 真昼はコンビニの駐車場にいた。


 アパートへ帰る前だった。


 エンジンを切った車内は静かで、冷房だけが低く鳴っている。


 フロントガラスの向こうでは、大学生くらいの男女が笑いながら店を出てきていた。


 普通だった。


 その普通さが、今日はやけに遠い。


 真昼はスマホを開いた。


 管理会社。


 連絡先はすぐ出る。


 しばらく画面を見つめる。


 昼間にも、一度かけようとした。


 結局、何も言えなかった。


 でも、今日は違った。


 もう会話してしまった。


 三浦。


 名前まで知っている。


 味噌汁まで飲んだ。


 ここまで来たら、もう気のせいでは済まない。


 真昼は通話ボタンを押した。


 呼び出し音。


 一回。


 二回。


 三回。


『はい、〇〇管理です』


 男の声だった。

 

少し眠そうな声。


 真昼は口を開く。


「あの……」


 喉が張りつく。


『はい』


「部屋に……」


 そこで止まる。


 何て言えばいい。


 天井裏に人が住んでいます。


 でも暴力はありません。


 朝ごはんを作ります。


 会話もできます。


 自分の生活を知っています。


 真昼は額を押さえた。


 自分で口に出して、自分で意味が分からなくなる。


『お客様?』


 返事を促される。


 コンビニの自動ドアが開く音。


 外から笑い声。


 夜の車道を走る車。


 その全部が、急に現実感を持ち始める。


 真昼は目を閉じた。


 もし今、本当に管理会社の人が来たら。


 点検口を開けるのだろうか。


 三浦を見つけるのだろうか。


 あの静かな生活音が、全部終わるのだろうか。


 その瞬間。


 胸の奥で、小さく何かが引っかかった。


 真昼はゆっくり息を吐く。


「……すみません」


 声が小さくなる。


「間違えました」


 通話を切る。


 車内が静かになる。


 真昼はスマホを膝へ落とした。


 冷房の風だけが流れている。


「……何やってんだろ」


 呟く。


 通報しなかった。


 できなかった。


 その事実だけが、じわじわ胃の奥へ沈んでいく。


 真昼はしばらく動かなかった。


 やがて、スマホを助手席へ放る。


 エンジンをかける。


 帰る場所は、一つしかなかった。

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