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第2話 返事【追加】

 管理会社へ電話しよう。


 そう決めたはずだった。


 だが翌朝、会社へ向かう車の中で、真昼はまだ発信ボタンを押せずにいた。


 フロントガラスの向こうを、薄曇りの空が流れていく。


 山形の朝は白っぽい。


 東京みたいに、朝から人と車の熱で空気が濁ることがない。


 その静けさが、今日はやけに落ち着かなかった。


 赤信号で車を止める。


 真昼はスマホを手に取った。


 管理会社。


 連絡先はすぐ出る。


 指を乗せる。


 そこで止まる。


 何て説明するんだろう。


 天井裏に人がいる気がします。


 洗剤が補充されました。


 夜に人の咳が聞こえました。


 そんな話を、本気で聞いてもらえる気がしなかった。


 しかも。


 思い出してしまう。


 洗剤。


 閉まっていたカーテン。


 揃えられた靴下。


 あれは全部、自分を困らせるものじゃなかった。


 むしろ逆だった。


 真昼は小さく舌打ちした。


「だから怖いんだって……」


 独り言が狭い車内に落ちる。


 青信号。


 後ろの車が少し車間を詰める。


 真昼はスマホを助手席へ投げるように置いて、アクセルを踏んだ。


 会社へ着く頃には、頭痛がしていた。


 午前中の会議はほとんど頭に入らなかった。


 課長が何か説明している。


 プロジェクター。


 売上表。


 誰かの咳払い。


 その全部の奥で、昨夜の音が残っている。


 ミシ。


 コツ。





「佐伯さん?」


 名前を呼ばれ、真昼は顔を上げた。


「え」


「次のページ」


「あ、すみません」


 慌ててノートPCを操作する。


 隣の席の女性社員が、小さく笑った。


「大丈夫? 顔色悪いよ」


「ちょっと寝不足で……」


 自分でも驚くほど自然に笑えた。


 まるで昨夜のことが夢だったみたいに。


 昼休み。


 真昼は社員食堂へ行かず、駐車場の車へ戻った。


 一人になりたかった。


 コンビニのおにぎりを開ける。


 鮭。


 冷たい。


 食欲はあまりない。


 スマホを開く。


 検索画面。


『天井裏 人』


 入力しかけて、止まる。


 そんなもの調べたら、余計怖くなるだけだ。


 真昼は画面を閉じた。


 代わりに、母親からの未読メッセージを開く。


『ちゃんとご飯食べてる?』

『山形慣れた?』


 返信欄を開く。


 指が止まる。


 何を書けばいいのか分からなかった。


 天井裏に人がいるかもしれない。


 でも、その人は洗剤を補充してくれる。


 そんなこと、誰にも説明できない。


 真昼はスマホを伏せた。


 車内は静かだった。


 遠くで、工事の音がしている。


 ぼんやり窓の外を眺めていると、不意に昨夜のことを思い出す。


 咳。


 低い、人間の咳。


 あの音を聞いた瞬間。


 自分は少し安心してしまった。


 その事実が、じわじわ胃の奥を冷やしていく。


 真昼はおにぎりを一口かじった。


 冷えた米が、妙に硬かった。


 


 午後の業務は、気づけば終わっていた。


 何をしていたのか、あまり覚えていない。


 資料を作って、修正して、メールを返して。


 気づけば外が暗くなっていた。


 退勤打刻を押す。


 真昼は席を立ちながら、小さく息を吐いた。


 帰りたくなかった。


 けれど、帰らない理由もない。


 ロッカーで上着を取る。


 その時、隣の女性社員が声をかけてきた。


「佐伯さん、今日もコンビニ?」


「え」


「最近ずっとじゃない? ちゃんと食べなよ」


 軽い口調。


 世間話。


 真昼は曖昧に笑った。


「まあ、一人なんで」


「私も一人暮らしだけど、さすがに毎日は飽きるよ」


 そう言って笑う。


 普通の会話だった。


 その普通さに、真昼は少しだけ安心する。


 会社では、自分はまだ普通の人間でいられる。


 そう思った。


 駐車場へ向かう。


 五月の夜風は冷たい。


 街灯の下に、自分の影が細く伸びる。


 車へ乗り込み、エンジンをかける。


 その瞬間。


 真昼はふと、あることに気づいた。


 今日、管理会社へ電話していない。


 昼休みにしようと思っていた。


 なのに。


 結局、一度も発信画面を開かなかった。


「……最悪」


 小さく呟く。


 でも、本気で後悔している感じでもなかった。


 むしろ。


 どこかで避けていた気がする。


 もし本当に人がいたら。


 もし全部現実だったら。


 それを確定させるのが怖かった。


 真昼はハンドルへ額を押しつけた。


 疲れていた。


 仕事じゃなく。


 考え続けることに。


 数秒そのままでいて、やがて顔を上げる。


 帰ろう。


 そう思った時。


 スマホが震えた。


 母親からだった。


 珍しく電話。


 真昼は一瞬迷ってから、通話を取る。


「もしもし」


『あ、真昼? 今大丈夫?』


「うん」


母親の声を聞いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。


『ちゃんと食べてる?』


 昨日のメッセージと同じことを言う。


 真昼は苦笑した。


「食べてるよ」


『ほんとに?』


「ほんとほんと」


 コンビニばっかだけど。


 そこまでは言わない。


 母親は少し安心したように息を吐いた。


『山形どう? 慣れた?』


「……まあ、それなり」


 曖昧に返す。


 慣れたのかどうか、自分でも分からなかった。


 仕事。


 静かな街。


 古いアパート。


 その全部が、まだ少し遠い。


『部屋ちゃんとしてる?』


 真昼は口を閉じた。


 洗剤。


 閉まっていたカーテン。


 揃えられた靴下。


 昨夜の咳。


 思い出した瞬間、胃の奥が冷える。


「……まあ、普通」


 そう答えるしかなかった。


 本当は、もう何が普通なのか分からなくなりかけていた。


『無理してない?』


 母親の声だけ、少し真面目になる。


 真昼はフロントガラスの向こうを見つめた。


 暗い駐車場。


 街灯。


 地方都市の静かな夜。


「してないよ」


 自然に嘘が出た。


 数分ほど他愛ない会話をして、通話を切る。


 車内が静かになる。


 真昼はスマホを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。


 帰りたくなかった。


 でも。


 部屋へ戻れば、何か分かるかもしれない。


 そんな考えも、どこかにあった。


 昨夜の音の正体。


 本当に人がいるのか。


 全部、自分の勘違いなのか。


 確認したい。


 確認したくない。


 その両方が頭の中で混ざっている。


 真昼は深く息を吐き、エンジンをかけた。


 帰宅ラッシュを過ぎた道路は空いていた。


 街灯だけが、等間隔にフロントガラスを流れていく。


 ラジオをつけようとして、やめる。


 音が欲しい気もした。


 でも、何も聞きたくなかった。


 アパートへ着く。


 二階建ての古い木造。


 薄暗い外廊下。


 いつもの景色。


 真昼は車を降り、階段を上がった。


 足音がやけに響く。


 二〇三号室の前で止まる。


 ポケットから鍵を取り出す。


 ドアを開ける。


 そこで気づく。


 玄関脇の靴棚の上に、小さなビニール袋が置かれていた。


 真昼は眉を寄せる。


 スーパーの袋。


 中には、食パンとインスタント味噌汁、それから小さな紙パックの牛乳。


 レシートも入っていた。


 今日の日付。


 数時間前の時刻。


 真昼はしばらく動けなかった。


 誰が置いたのか。


 考えるまでもなかった。


 頭の上で。


 小さく、ミシ、と音がした。


 真昼はその場にしゃがみ込んだ。


 ビニール袋を見つめる。


 白い食パン。

 安いインスタント味噌汁。

 小さな牛乳。


 どれも、一人暮らしの朝食みたいだった。


 レシートを見る。


 今日の日付。


 夕方の時刻。


 真昼がまだ会社にいた時間。


 頭上で、小さく音がする。


 ミシ。


 真昼は反射的に廊下を見回した。


 誰もいない。


 隣の部屋も静かだった。


 遠くで車が走る音だけが聞こえる。


「……なんで」


 小さく呟く。


 当然、返事はない。


 けれど。


 頭の上に気配がある。


 そんな感覚だけは消えなかった。


 真昼はゆっくり袋を持ち上げた。


 軽い。


 中で食パンの袋が小さく揺れる。


 ついさっき買ってきたみたいな生活感が、逆に気味悪かった。


 どうして。


 何のために。


 考えれば考えるほど、頭が痛くなる。


 真昼は鍵を開けた。


 部屋へ入る。


 暗い。


 昨夜と違って、今日は電気がついていない。


 そのことに、少しだけ安心する自分がいた。


 真昼は靴を脱ぎ、袋をキッチンへ置いた。


 しばらく立ったまま部屋を見回す。


 何も変わっていない。


 ローテーブル。


 ベッド。


 脱ぎっぱなしの部屋着。


 普通のワンルーム。


 なのに。


 上に誰かいる。


 真昼はゆっくり天井を見上げた。


 点検口は閉まっている。


 静かだった。


 まるで、誰もいないみたいに。


 その沈黙が逆に怖い。


「……これ、置いたの」


 問いかける。


 数秒。


 返事はない。


 その代わり。


 上で、小さく音がした。


 コツ。


 真昼は息を止める。


 ……返事、なんだろうか。


 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


 真昼は口を閉じた。


 袋の中からレシートを取り出す。


 スーパーの名前。


 金額。


 時刻。


 全部、現実だった。


 夢じゃない。


 疲れているだけでもない。


 このアパートには、本当に誰かいる。


 真昼はレシートを握ったまま、その場へ座り込んだ。


 頭が痛い。


 怖い。


 でも。


 昨日みたいな、得体の知れない恐怖ではなくなっていた。


 その代わりに。

 

 もっと輪郭のある、不快さがあった。


 自分の生活を、誰かに見られている。


 手を入れられている。


 勝手に、整えられている。


 その全部が、じわじわと気持ち悪い。


なのに。


 食パンを見た瞬間。


 明日の朝ごはんを買わなくて済む。


 そんな考えが、一瞬だけ浮かんでしまった。


 真昼は顔をしかめた。


「……最悪」


 呟きながら、レシートを握り潰す。


 その時。


 上から、小さく咳が聞こえた。


 ゴホ。


 昨夜と同じ咳。


 真昼は動きを止めた。


 少し迷ってから、冷蔵庫を開ける。


 ペットボトルのお茶を一本取り出した。


 キッチンへ戻る。


 天井を見上げる。


「……飲みますか」


 言ってから、自分で何をしているんだろうと思った。


 数秒後。


 点検口の上で、ミシ、と床板が軋む。


 真昼はペットボトルを握ったまま、ゆっくり息を吐いた。


 部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。


真昼はしばらく、そのまま立っていた。


 ペットボトルのお茶を持ったまま。


 天井を見上げながら。


 点検口は閉じたままだった。


 そこに人がいる。


 分かっているのに、現実感が薄い。


 真昼はゆっくり脚立を引き寄せた。


 キッチンの隅に置いてある、小さな折りたたみ式のもの。


 普段はほとんど使わない。


 電球を替える時くらい。


 それを広げる音が、やけに部屋へ響いた。


 ガチャ。


 上は静かだった。


 真昼は脚立へ片足を乗せる。


 そこで止まる。


 本当に開けるのか。


 もし、そこに人がいたら。


 いや、いる。


 もう分かっている。


 なのに。


 顔を見た瞬間、全部が現実になる気がした。


 真昼は唇を噛んだ。


「……お茶、置いとくだけです」


 誰に言うでもなく呟く。


 返事はない。


 真昼はもう一段、脚立を上がった。


 点検口が近づく。


 古い木材の匂い。


 埃っぽい空気。


 真昼は片手で点検口の縁を押した。


 ガタ。


 小さく浮く。


 その瞬間。


 上から気配が動いた。


 真昼の呼吸が止まる。


 暗闇。


 何も見えない。


 でも。


 誰かいる。


 その感覚だけが、生々しく伝わってくる。


「……そこに、置きます」


 声が掠れる。


 真昼は震える手で、点検口の隙間へペットボトルを差し出した。


 数秒。


 何も起きない。


 やっぱり気のせいなんじゃないか。


 そう思いかけた瞬間。


 暗闇の奥から、ゆっくり手が伸びてきた。


 骨ばった男の手。


 薄暗い隙間の中で、その白さだけが妙に目立つ。


 真昼は反射的に息を呑んだ。


 逃げたい。


 脚立から飛び降りて、部屋を飛び出したい。


 なのに体が動かない。


 男の手は、お茶を受け取る。


 その動きは静かだった。


 乱暴さはない。


 まるで、普通に物を受け取るみたいに。


「……ありがとうございます」


 低い声。


 暗闇の向こうから聞こえる。


 真昼は固まった。


 近い。


 思ったよりずっと。


 人間の声だった。


 点検口の向こうにいるものが、“何か”じゃなく、“誰か”になってしまう。


 それが怖かった。


 真昼はゆっくり脚立を降りた。


 膝が少し震えている。


 床へ足をつけた瞬間、どっと疲労感が押し寄せた。


 上では、ペットボトルのキャップを開ける音がする。


 カリ。


 小さな生活音。


 それが、この部屋に存在している。


 真昼はベッドへ座り込んだ。


 部屋は静かだった。


 静かなまま、壊れていく気がした。


 その夜、真昼はベッドへ入ってからも眠れなかった。


 目を閉じるたび、点検口の隙間から伸びてきた手を思い出す。


 骨ばった指。


 低い声。


 暗闇の奥に、人がいた。


 現実だった。


 真昼は布団の中で目を開けた。


 部屋は暗い。


 カーテンの隙間から、街灯の光だけが細く入っている。


 天井を見る。


 静かだった。


 さっきまで聞こえていた物音も、今はない。


 それが逆に怖い。


 いる。


 確かにいる。


 なのに、静かすぎる。


 真昼は寝返りを打った。


 スマホを見る。


 午前一時四十二分。


 管理会社へ電話しなければ。


 そう思う。


 明日こそ。


 ちゃんと。


 でも。


 点検口の向こうの男を思い出すと、妙に現実感が薄れる。


 乱暴な感じではなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 むしろ。


 普通だった。


 普通に、お茶を受け取った。


 普通に、お礼を言った。


 そこが気持ち悪い。


 真昼は目を閉じる。


 耳だけが上へ向いてしまう。


 少しして。


 ミシ。


 小さく天井が鳴った。


 真昼の肩が跳ねる。


 続けて、布の擦れる音。


 誰かが寝返りを打つみたいな。


 生活音。


 真昼は息を止めた。


 天井裏に、人が寝ている。


 その現実が、ゆっくり頭へ沈んでいく。


 怖い。


 なのに。


 さっき声を聞いてしまったせいで、“何か”ではなくなってしまった。


 真昼は布団を少し握りしめた。


「……名前」


 無意識に呟いていた。


 上の音が止まる。


 真昼は自分でも、何を言ったのか分からなかった。


 数秒の沈黙。


 それから。


 上で、小さく軋む音。


「……三浦です」


 低い声。


 暗闇の向こうから。


 真昼は固まった。


 名前がある。


 当たり前のことなのに、その瞬間、一気に現実感が増した。


 三浦。


 人間。


 この部屋の上にいる男。


 真昼は喉を鳴らした。


「……なんで、ここにいるんですか」


 聞いた瞬間、後悔した。


 答えを聞きたくない気がした。


 上はしばらく静かだった。


 やがて。


「……住んでるので」


 真昼は思わず顔をしかめた。


「住んでるって……」


 意味が分からない。


 意味が分からないのに。


 上の声は妙に落ち着いていた。


 嘘をついている感じでもない。


 本当に“住んでいる”つもりなんだ、と思ってしまう。


 真昼は額を押さえた。


 頭が痛い。


 会話している。


 天井裏の男と。


 深夜に。


 自分の部屋で。


 なのに。


 叫ぶことも、逃げることもできない。


 ただ、疲れていた。


「……明日、管理会社に言います」


 沈黙。


 真昼は自分の心臓の音を聞いていた。


 上から返事はない。


 その代わり。


 少しして。


 ミシ、と小さく天井が鳴った。


 まるで、ため息みたいに。


 真昼は天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。


 三浦。


 名前がついた瞬間。


 急に、この部屋の空気が現実味を帯びた気がした。


 得体の知れない何かじゃない。


 知らない男。


 それが一番まずい。


 真昼は布団を頭まで引き上げた。


「……住んでるって、意味分かんないです」


 声が小さくなる。


 上は静かだった。


 もう会話は終わったみたいに。


 その沈黙が逆に落ち着かなかった。


 真昼は目を閉じる。


 でも眠れない。


 耳だけが、ずっと上を気にしている。


 少しして。


 上から、低い声。


「……すみません」


 真昼は目を開けた。


 謝られると思っていなかった。


「……何がですか」


 間。


「驚かせたので」


 真昼は言葉に詰まった。


 驚かせた、で済む話じゃない。


 天井裏に人が住んでいる。


 それだけで普通は警察だ。


 なのに。


 三浦の声には、妙な生活感があった。


 悪意というより。


 本当に、迷惑をかけた隣人みたいな。


 それが気持ち悪い。


 真昼は布団の中で眉を寄せた。


「……いつからいるんですか」


 聞いてしまってから、また後悔した。


 知りたくない。


 でも知りたい。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


「……前から」


「前って」


「佐伯さんが来る前からです」


 真昼は固まった。


 自分が入居する前から。


 このアパートに。


 この天井裏に。


 人がいた。


 急に、部屋そのものが薄気味悪く感じる。


 今まで普通に暮らしていた場所の構造が、全部変わってしまう。


 天井裏。


 換気口。


 点検口。


 全部、誰かの生活圏だった。


 真昼は喉を鳴らした。


「……なんで」


 掠れた声。


「なんで、そんなとこに」


 しばらく返事はなかった。


 その沈黙だけで、真昼は少し後悔する。


 踏み込みすぎた気がした。


 だが。


 やがて。


「……住めるので」


 低い声。


 静かな答え。


 真昼は思わず顔をしかめた。


 噛み合わない。


 この男、少しおかしい。


 いや。


 天井裏に住んでいる時点で、当たり前なのかもしれない。


 でも。


 会話自体は成立してしまう。


 そこが余計に怖い。


 真昼は布団を握りしめた。


「……出ていってください」


 言葉にすると、少しだけ現実感が戻る。


 普通なら、こう言うはずだった。


 もっと早く。


 上は静かだった。


 真昼は返事を待つ。


 数秒。


 十秒。


 やがて。


「……努力します」


 真昼は思わず天井を見上げた。


「努力って」


 意味が分からない。


 出ていくか、出ていかないかだろう。


 なのに三浦の声は、どこか困ったみたいだった。


 本当に難しい相談をされているみたいに。


 真昼は口を閉じた。


 怒鳴る気力が湧かない。


 怖い。


 疲れた。


 眠い。


 感情が全部、重たい泥みたいに沈んでいる。


 上ではもう音がしなかった。


 まるで、本当に寝る準備でもしているみたいに。


 真昼は天井を見つめたまま、ゆっくり目を閉じる。


 部屋は静かだった。


 静かなまま。


 何かがおかしくなっていく。

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