第6話 おくすり
翌朝。
真昼は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
雨は止んでいた。
薄い朝の光が、カーテンの隙間から部屋へ入っている。
静かだった。
真昼は布団の中で天井を見上げる。
点検口。
白い木目。
何も変わっていない。
なのに。
昨日までとは、もう違う部屋に思えた。
真昼はゆっくり起き上がる。
頭が重い。
でも。
少しだけ、眠れてしまった。
そのことに気づいて、真昼は顔をしかめる。
天井裏に人がいる部屋で。
管理会社を追い返した夜に。
自分は眠れた。
それが嫌だった。
キッチンへ向かう。
その途中。
ローテーブルの上に、小さな紙袋が置かれているのが見えた。
真昼は止まる。
昨夜まではなかった。
白い紙袋。
ドラッグストアのロゴ。
真昼は近づく。
中には。
風邪薬。
のど飴。
スポーツドリンク。
それから、小さなメモ。
『熱あるかもしれないので』
真昼はしばらく動けなかった。
昨日。
管理会社の人間へ、
「熱がある」
と嘘をついた。
それを。
三浦は本当だと思ったらしい。
真昼はメモを見つめたまま、小さく息を吐く。
「……違うんだけど」
誰に言うでもなく呟く。
上は静かだった。
少し間。
それから。
ミシ。
小さく床板が鳴る。
真昼は紙袋を持ち上げた。
軽い。
生活感のある重さ。
ドラッグストアのレシートまで入っている。
昨日の夜。
自分が寝た後、買いに行ったんだろうか。
真昼は無意識に天井を見上げる。
天井裏にいるはずなのに。
ちゃんと外へ出て。
普通に買い物をして。
戻ってきている。
その事実が、妙に現実的だった。
怖い。
でも。
“人間”だとも思ってしまう。
真昼は紙袋をローテーブルへ戻した。
その時。
スマホが震える。
会社からだった。
画面を見る。
『本日、午前中オンライン会議追加』
真昼は目を閉じる。
仕事。
いつもの日常。
なのに。
この部屋だけ、何かが少しずつズレていく。
真昼は洗面所へ向かった。
鏡を見る。
少しだけ顔色が戻っている。
寝不足のはずなのに。
食事も。
風呂も。
最低限整い始めている。
そのことに気づくたび、胸の奥がざわつく。
上で、小さく咳が聞こえた。
ゴホ。
湿った咳。
真昼は歯ブラシを持ったまま止まる。
「……そっちの方が病人じゃないですか」
小さく呟く。
数秒後。
上で、コツ、と小さく音が鳴った。
返事みたいに。
真昼は洗面台へ視線を落とす。
もう。
音の意味を考えてしまっている。
それが、何より嫌だった。
午前中のオンライン会議は、ほとんど頭に入らなかった。
ノートPCの画面。
資料共有。
誰かの声。
真昼は相槌だけ返しながら、何度も天井を見てしまう。
当然、会社の天井だ。
白いパネル。
蛍光灯。
誰もいない。
なのに。
小さな物音へ無意識に反応してしまう。
「佐伯さん、聞こえてます?」
イヤホン越しの声。
真昼は慌てて画面へ視線を戻した。
「あ、すみません」
「この件、今日中でお願いします」
「はい」
会議が終わる。
画面が消える。
真昼は深く息を吐いた。
疲れていた。
ここ数日ずっと、頭の一部が天井裏へ持っていかれている。
昼休み。
真昼はコンビニでサンドイッチを買った。
ついでに、咳止めも手に取る。
レジへ持っていってから、自分で少し気味悪くなる。
誰のために買ってるんだ。
天井裏の男に。
真昼は小さく舌打ちした。
だが棚へ戻す気にもなれず、そのまま会計を済ませる。
午後。
仕事中も、袋の中の咳止めが気になった。
鞄の中で存在感を持っている。
まるで、
“渡す前提”
みたいに。
真昼はPC画面へ視線を戻した。
仕事に集中しろ。
普通に。
普通の生活へ戻れ。
そう思う。
なのに。
頭のどこかで、
「今日は咳してるかな」
と考えている自分がいる。
真昼はキーボードを打つ手を止めた。
「……最悪」
小さく呟く。
その日の帰宅は、少し遅くなった。
外はもう暗い。
アパートの階段を上がる。
真昼はポケットの中の薬袋を握ったまま、部屋の前で止まった。
渡す必要なんてない。
放っておけばいい。
なのに。
ここまで持って帰ってきている。
真昼はゆっくり鍵を開けた。
部屋は静かだった。
明かりもついていない。
真昼は少しだけ肩の力を抜く。
今日は何もないのかもしれない。
そう思いながら靴を脱ぐ。
その時。
上から、小さく咳。
ゴホ。
真昼は動きを止めた。
静かな部屋。
冷蔵庫の音。
それから。
また咳。
湿った、長引く咳。
真昼はしばらく立ち尽くしていた。
鞄の中の薬袋が重い。
数秒後。
真昼は小さく息を吐き、鞄から咳止めを取り出した。
「……これ」
声が掠れる。
上は静かだった。
真昼は天井を見上げる。
「買ってきたので」
言ってから、後悔する。
何をしているんだ。
本当に。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼は脚立を見た。
点検口。
暗闇。
あそこに、人がいる。
怖い。
なのに。
真昼はゆっくり脚立へ手を伸ばした。
脚立を広げる音が、静かな部屋へ響く。
ガチャ。
真昼は咳止めの箱を握ったまま、しばらく動けなかった。
点検口。
暗い隙間。
昨日、手が伸びてきた場所。
あそこに、また近づこうとしている。
真昼は自分で自分が信じられなかった。
怖いはずなのに。
逃げたいはずなのに。
なのに。
咳が気になる。
真昼はゆっくり脚立へ足をかけた。
ギシ。
古い脚立が軋む。
上は静かだった。
真昼は視線を上げる。
「……置くだけですから」
誰に言い訳しているのか分からない。
点検口へ手を伸ばす。
指先が木の縁へ触れる。
その瞬間。
上で、小さく気配が動いた。
真昼の肩が跳ねる。
暗闇。
何も見えない。
でも。
そこにいる。
近い。
人間の気配が。
真昼は息を止めたまま、点検口を少しだけ開けた。
冷たい空気が降りてくる。
埃っぽい匂い。
暗い。
本当に暗い。
「……薬です」
声が小さくなる。
「咳、ずっとしてるので」
数秒。
返事はない。
真昼は咳止めの箱を隙間へ置こうとする。
その時。
暗闇の奥で、何かが微かに動いた。
真昼は反射的に体を止める。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
男の手が伸びてくる。
昨日より近い。
白い指。
痩せた手首。
骨ばった腕。
真昼は目を逸らせなかった。
三浦の手は、静かに薬箱を受け取る。
乱暴さはない。
ただ、普通に。
日用品を受け取るみたいに。
「……すみません」
低い声。
近い。
点検口の向こう。
ほんの数十センチ先。
真昼は喉を鳴らした。
「……別に」
声が掠れる。
その時。
暗闇の奥で、小さく咳が鳴った。
ゴホ。
近い。
思った以上に。
天井裏はすぐ上にある。
真昼は急に現実感を失いそうになった。
この薄い板一枚の向こうで。
ずっと誰かが生活していた。
眠って。
咳をして。
自分の生活を見ていた。
真昼はゆっくり点検口を閉じた。
ガタン。
静寂。
脚立を降りる。
膝が少し震えている。
怖い。
ちゃんと怖い。
なのに。
薬を渡したことで、少しだけ安心している自分もいた。
真昼はソファへ座り込み、顔を覆う。
「……何やってんだ、ほんと」
小さく呟く。
上は静かだった。
だが。
しばらくして。
カサ。
薬箱を開ける、小さな音が聞こえた。
その生活音が。
妙に部屋へ馴染み始めていた。
その夜。
真昼は、珍しくコンビニへ行かなかった。
風呂へ入って。
髪を乾かして。
部屋着に着替える。
ただ、それだけのことが妙に静かに進んでいく。
生活が整っている。
最近まで、自分の部屋はもっと荒れていた気がする。
洗濯物が溜まって。
コンビニ袋が床に転がって。
気づいたら寝落ちして。
そういう部屋だった。
真昼はドライヤーを止めた。
急に、嫌な考えが浮かぶ。
自分が変わったんじゃない。
三浦が整えているだけなんじゃないか。
真昼は洗面台の鏡を見た。
少しだけ顔色が戻っている。
そのことが、妙に気持ち悪い。
部屋へ戻る。
ローテーブルの上。
朝の薬袋が少し端へ寄せられていた。
真昼は動きを止める。
自分は触っていない。
つまり。
三浦が動かした。
部屋に降りてきて。
普通に。
真昼はゆっくり天井を見上げた。
「……勝手に触らないでください」
少し強めに言う。
上は静かだった。
返事もない。
真昼は小さく息を吐く。
今のは、ちゃんと嫌だった。
その感覚に少し安心する。
まだ、自分はおかしいと思えている。
真昼はベッドへ腰掛けた。
スマホを見る。
母親から未読。
『ちゃんと寝れてる?』
真昼は数秒画面を見つめた。
返信を打つ。
『まあまあ』
送信。
少しして、既読がつく。
『無理しないでね』
短い文。
真昼はスマホを伏せた。
無理。
してるんだろうか。
自分でも、もう分からない。
その時。
上で、小さく音。
コツ。
真昼は反射的に天井を見る。
最近、これだけで反応してしまう。
「……何ですか」
数秒の沈黙。
それから。
「……薬、効きました」
低い声。
静かな報告。
真昼はしばらく黙っていた。
普通みたいだ。
本当に。
風邪の話をしているみたいに。
「……そうですか」
気づけば返していた。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
会話が終わる。
その終わり方まで、妙に生活感がある。
真昼は布団へ横になった。
電気はまだ消さない。
暗くすると、天井を意識してしまう。
部屋は静かだった。
静かなまま。
少しずつ。
本当に少しずつ。
この異常が、“いつもの夜”へ近づいていく。
真昼は目を閉じる。
その瞬間。
ふと、思ってしまう。
今日は、上が静かだ。
咳も少ない。
薬、効いたんだ。
真昼はすぐに目を開けた。
「……最悪」
呟く。
天井は静かだった。
でも。
その静けさを確認して安心している自分が、確かにいた。




