第51話 心地良い場所
火曜日。
朝。
真昼は、目覚ましが鳴る前に自然と目を覚ました。
薄暗い部屋。
加湿器の音。
白い天井。
数秒後。
ミシ。
小さい音。
真昼はそこで、
ゆっくり息を吐く。
最近。
この音を聞くと、
身体がちゃんと起きる。
今日も、
同じ生活が始まる。
そう思う。
真昼は布団の中で、
ぼんやり天井を見る。
昨日。
山形へ残ると決めた。
ちゃんと口にした。
でも。
不思議なくらい、
後悔は薄かった。
会社。
午前。
上司が、事務的な説明をしている。
「じゃあ、異動取り消しで進めるから」
「……はい」
「住居関係もそのままで大丈夫?」
「……大丈夫です」
真昼は静かに答える。
まるで。
もう決まっていたことを確認しているみたいだった。
昼休み。
同期に言われる。
「え、残るんだ?」
「……まあ」
「山形そんな良かった?」
真昼は曖昧に笑った。
答えられない。
二〇三号室の空気を、
どう説明すればいいのか分からない。
味噌汁。
加湿器。
ミシ。
暖かい空気。
その全部が、
もう生活になっている。
帰宅。
夜。
アパートの階段を上がる。
古い手すり。
湿った空気。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
その瞬間。
真昼は、
今日一番深く息を吐いた。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
返事。
真昼はそこで、
小さく目を閉じる。
帰ってきた。
本当に。
真昼は靴を脱ぎ、
ソファへ座り込む。
静かな部屋。
加湿器。
冷蔵庫。
上の気配。
その全部が、
もう身体へ馴染み切っている。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、落ち着いてるので」
真昼はぼんやり天井を見る。
「……決まったので」
少し間。
「……はい」
短い返事。
それだけ。
でも。
その静かな会話だけで、
胸の奥が少しずつ静かになる。
真昼はソファへ深く身体を預けた。
外では、
車が通り過ぎる音がする。
誰かの笑い声。
遠くのテレビ。
生活音。
でも。
その全部が、
もう壁の向こう側の世界みたいだった。
二〇三号室だけが、
静かで。
暖かくて。
閉じている。
真昼はぼんやり天井を見る。
点検口。
見えない気配。
小さい生活音。
そして。
ふと気づく。
最近。
未来のことを、
ほとんど考えなくなっている。
来年。
五年後。
東京。
結婚。
仕事。
そういうものが、
少しずつ輪郭を失っている。
代わりに。
味噌汁の匂い。
加湿器。
ミシ。
今日の生活だけが、
妙にはっきり存在していた。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼はその音を聞きながら、
ゆっくり目を閉じた。
静かな部屋だった。
そして。
その静けさだけが、
今の真昼には、
何より心地よかった。




