第50話 決断
月曜日。
朝。
真昼は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
薄暗い部屋。
加湿器の音。
白い天井。
数秒後。
ミシ。
小さい音。
真昼はそこで、
ゆっくり息を吐く。
最近。
この音を聞くと、
身体の奥が静かになる。
今日。
返事をしなければいけない。
分かっている。
でも。
真昼の頭の中は、
妙に静かだった。
会社。
午前。
真昼は、ほとんど何も考えられなかった。
メール。
資料。
会話。
全部、遠い。
ただ。
時間だけが進んでいく。
十一時過ぎ。
上司からチャット。
『今いい?』
真昼は数秒画面を見つめ、
ゆっくり立ち上がった。
会議室。
閉まるドア。
静かな空間。
上司は椅子へ座ったまま、
真昼を見る。
「で」
短い声。
「どうする?」
真昼は返事ができなかった。
東京へ戻れば。
普通へ戻れる。
ちゃんとした人生へ。
分かっている。
でも。
その“普通”が、
最近は妙に遠い。
頭の中へ浮かぶのは、
二〇三号室ばかりだった。
暖かい空気。
味噌汁。
加湿器。
ミシ。
小さい生活音。
長い沈黙。
上司は待っている。
真昼は視線を落とした。
そして。
「……もう少し」
掠れた声。
「……山形に残ります」
言った瞬間。
会議室が静かになる。
真昼はそこで、
自分でも少し驚いた。
口にした。
ちゃんと。
上司はしばらく真昼を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そっか」
それだけだった。
責めない。
止めない。
ただ。
少しだけ、
不思議そうな顔をしていた。
「山形、そんな良かった?」
真昼は返事ができなかった。
二〇三号室。
暖かい空気。
味噌汁。
ミシ。
その全部を、
うまく説明できる言葉がなかった。
「……まあ、分かった」
上司は立ち上がりながら言う。
「じゃあ、手続き進めとく」
「……はい」
会議室を出る。
会社の廊下。
人の声。
コピー機。
キーボード。
全部、
少し遠く聞こえる。
真昼は自分の席へ戻りながら、
ぼんやり思う。
決めた。
ちゃんと。
なのに。
不思議なくらい、
実感がなかった。
帰宅。
夜。
真昼は、静かな住宅街を歩いていた。
アパート。
階段。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
その瞬間。
真昼の胸の奥から、
ゆっくり力が抜ける。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
返事。
真昼はそこで、
深く息を吐いた。
帰ってきた。
本当に。
真昼は靴を脱ぎ、
ゆっくりソファへ座る。
静かな部屋。
加湿器。
冷蔵庫。
上の気配。
その全部が、
もう身体へ馴染み切っている。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、静かなので」
真昼はぼんやり天井を見る。
「……決まったので」
少し間。
長い沈黙。
それから。
ミシ。
小さい音。
真昼はゆっくり目を閉じた。
外では、
ずっと何かを選び続けなければいけない。
でも。
二〇三号室では、
ただ生活だけが続いていく。
味噌汁。
加湿器。
ミシ。
小さい生活音。
その全部の中で。
真昼は静かに息を吐く。
もう。
二〇三号室の空気だけが、
マヒルの生活になっていた。




