第45話
水曜日。
雨だった。
真昼は、会社を出た瞬間に小さく息を吐いた。
疲れていた。
会議。
電話。
メール。
今日はずっと、
誰かと話していた気がする。
でも。
話した内容は、
ほとんど覚えていない。
頭の奥で、
ずっと別のことを考えていた。
帰りたい。
その感覚だけが、
静かに残っている。
駅。
改札。
コンビニの灯り。
濡れたアスファルト。
真昼は傘を差したまま、
住宅街を歩く。
最近。
この時間だけが、
妙に現実感を持っている。
アパート。
階段。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
ミシ。
小さい音。
真昼はそこで、
深く息を吐いた。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
返事。
真昼は傘を閉じ、
そのままソファへ座り込む。
静かな部屋。
加湿器。
冷蔵庫。
上の気配。
最近ではもう、
この空気へ身体が先に安心してしまう。
その時。
ふいに、
真昼は気づく。
今日。
会社で何があったか、
ほとんど思い出せない。
でも。
二〇三号室へ帰ってきた瞬間の、
暖かい空気だけは、
妙にはっきり残っている。
真昼はぼんやり天井を見る。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、人かなり多かったので」
真昼は少し笑った。
「……分かります?」
「……ドア閉める音、強かったので」
真昼は何も言えなかった。
また。
生活音。
呼吸。
足音。
三浦はそこから、
真昼を読んでいる。
でも。
最近。
そのことへ、
恐怖より先に安心が来る。
真昼はゆっくり目を閉じた。
その時。
ふいに、
スマホが震える。
上司。
『そろそろ本当に決めよう』
短い文章。
真昼は画面を見つめたまま止まる。
決める。
東京へ戻るか。
ここへ残るか。
でも。
真昼はその文章を見ているうちに、
妙に遠い気持ちになる。
決めるって、
何を。
最近。
自分の生活は、
もうかなり決まってしまっている気がした。
真昼はゆっくりスマホを伏せる。
返事は打たない。
その瞬間。
上で、小さく床板が鳴った。
ミシ。
真昼はそこで、
ほとんど反射みたいに肩の力を抜いた。
外では、
ずっと何かを選ばなければいけない。
でも。
二〇三号室では、
もう毎日同じ生活が続いている。
静かで。
暖かくて。
少しおかしい。
でも。
最近の真昼には、
それだけで十分なのだ。




