第40話 帰ったら、それだけ
金曜日。
朝から、真昼は落ち着かなかった。
今日。
返事をしなければいけない。
東京へ戻るか。
山形へ残るか。
その話を、
上司とする。
会社へ向かう電車の中で、
真昼はぼんやり窓を見ていた。
曇った景色。
流れていく住宅街。
頭の中へ浮かぶのは、
二〇三号室ばかりだった。
味噌汁。
暖かい空気。
ミシ。
加湿器。
静かな生活音。
真昼はそこで小さく目を閉じた。
駄目だ。
本当に。
午前。
仕事はほとんど手につかなかった。
資料を開く。
閉じる。
メールを読む。
頭へ入らない。
気づけば、
“帰ったら”
のことばかり考えている。
昼過ぎ。
上司に呼ばれる。
「佐伯さん、今いい?」
会議室。
閉まるドア。
静かな空間。
上司は椅子へ座りながら、
柔らかい声で言った。
「異動の件なんだけど」
真昼は黙って頷く。
「東京側としては、いつでも戻せる状態になってる」
「……はい」
「無理にとは言わない。でも、そろそろ決めないと」
真昼は視線を落とした。
決める。
その言葉だけが、
妙に現実感を持って迫ってくる。
東京へ戻れば。
多分、
ちゃんとした生活へ戻れる。
普通の部屋。
普通の社会人。
普通の人生。
なのに。
真昼の頭へ浮かぶのは、
二〇三号室の静かな空気だった。
上司が待っている。
真昼は口を開く。
「……少し」
声が掠れる。
「……もう少しだけ、考えたいです」
言った瞬間。
自分で少し驚いた。
まだ引き延ばす。
まだ決めない。
上司はしばらく真昼を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
それ以上は言わなかった。
帰宅。
夜。
真昼は、ほとんど逃げるみたいに駅から歩いていた。
早く帰りたい。
その感覚だけが、
頭の中を埋めている。
アパート。
階段。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
真昼はそこで、
深く息を吐いた。
帰ってきた。
本当に。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
返事。
その瞬間。
真昼は、
会議室で感じていた重さが、
少しだけ身体から抜けるのを感じた。
真昼はソファへ座り込み、
ぼんやり天井を見る。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、かなり疲れてるので」
真昼は少し笑った。
「……分かります?」
「……呼吸、浅いので」
真昼は何も言えなかった。
また。
呼吸。
音。
生活。
三浦はそこから、
真昼を見ている。
真昼はゆっくり目を閉じた。
会社では、
何も決められなかった。
でも。
二〇三号室へ戻ってくると、
そのことを考える力自体が、
少しずつ薄れていく。
味噌汁の湯気が、
静かに揺れていた。




