第38話 この部屋の空気
水曜日。
雨だった。
仕事が終わる頃には、
スーツの袖が少し湿っていた。
真昼は駅からアパートまでの道を、
傘を差したまま静かに歩く。
街灯。
濡れたアスファルト。
住宅街の窓の灯り。
最近。
この帰り道だけが、
一日の中で妙に長く感じる。
早く帰りたい。
その感覚が、
もう自然になっている。
二〇三号室。
階段。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
ミシ。
小さい音。
真昼はそこで、
ゆっくり息を吐いた。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
返事。
真昼は傘を畳みながら、
ぼんやり天井を見る。
最近。
この音を聞くと、
身体の奥の緊張がほどける。
会社ではずっと、
何かを考えている。
異動。
返事。
将来。
でも。
二〇三号室へ戻ると、
全部少し遠くなる。
真昼はキッチンへ向かった。
その時。
ふいに、上から低い声。
「……今日は、雨強かったので」
「……そうですね」
「……靴、濡れてる音してたので」
真昼は少し笑う。
「……本当に音だけで生活してますね」
上は静かだった。
少しして。
ミシ。
小さい音。
真昼は味噌汁を器へよそいながら、
ぼんやり思う。
最近。
こういう時間が、
一日の中心になっている。
会社じゃない。
休日でもない。
帰宅後。
この部屋の空気。
その時。
スマホが震えた。
上司。
『金曜までには決めようか』
真昼は画面を見つめたまま止まる。
金曜。
あと二日。
東京へ戻るか。
ここへ残るか。
真昼はゆっくりスマホを伏せた。
返事は打たない。
その瞬間。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼は目を閉じた。
最近。
決断を先延ばしにするたび、
この部屋の空気へ沈み込んでいく。
それを、
自分でも分かっている。
でも。
味噌汁は暖かかった。
加湿器の音は静かだった。
上には人がいる。
その生活だけが、
今の真昼には妙に現実だった。




