第37話 何も、決めない
火曜日。
帰宅した時。
部屋は、少しだけ暗かった。
真昼はドアを開けた瞬間、そこで止まる。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
でも。
電気だけがついていない。
薄暗い二〇三号室。
窓の外の街灯が、ぼんやり床へ落ちている。
真昼は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
返事。
真昼はそこで、少しだけ安心する。
最近。
部屋の明るさより先に、
その音を探している。
真昼は電気をつけず、そのままソファへ座った。
薄暗い部屋。
加湿器の小さい音。
冷蔵庫。
味噌汁の匂い。
上の気配。
その全部が混ざって、
静かに空間を埋めている。
真昼はぼんやり天井を見る。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、かなり疲れてるので」
真昼は少し笑った。
「……最近そればっかですね」
「……音、違うので」
短い返事。
真昼はゆっくりソファへ身体を沈める。
最近。
自分の感情より先に、
三浦の言葉で疲れを理解する時がある。
それが少し怖い。
その時。
スマホが震えた。
上司。
『異動の件、無理にとは言わないけど、今週中には方向決めよう』
真昼は画面を見つめたまま動かなかった。
まただ。
返事。
決断。
外側の話。
真昼はゆっくりスマホを伏せる。
その瞬間。
上で、小さく床板が鳴った。
ミシ。
真昼は目を閉じた。
その音だけで、
思考が止まる。
考えなくてよくなる。
最近。
それが一番危なかった。
その時。
ふいに、上から低い声。
「……佐伯さん」
「……何ですか」
少し間。
「……最近、帰ってくると静かになるので」
真昼はゆっくり天井を見る。
「……え」
「……前より、呼吸の音、落ち着くので」
真昼は何も言えなかった。
呼吸。
そんなところまで見られている。
でも。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥へ、
妙に柔らかい感覚が落ちる。
安心している。
この部屋で。
この音の中で。
真昼はゆっくり顔を覆った。
外の世界では、
ずっと何かを決めなければいけない。
でも。
二〇三号室だけは、
ただ静かに生活が続いている。
その感覚へ、
確実に沈み込む自分がいた。




