第33話 この安心
金曜日。
帰宅は、夜九時を過ぎていた。
駅を出た瞬間。
真昼は小さく息を吐く。
疲れていた。
頭も重い。
肩も痛い。
でも。
足だけは自然に二〇三号室へ向かっている。
住宅街。
暗い道。
古いアパート。
階段。
二階。
真昼は鍵を取り出しながら、ふと止まる。
最近。
ここへ帰ってくる時だけ、
少し安心している。
まるで。
外側の世界から戻ってくるみたいに。
真昼はゆっくりドアを開けた。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
加湿器の蒸気。
そして。
上で、小さく鳴る床板。
ミシ。
真昼はそこで、ほとんど反射みたいに肩の力を抜いた。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
返事。
真昼は靴を脱ぎ、ソファへ鞄を落とすように置いた。
疲れていた。
本当に。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、かなり遅かったので」
「……月末なので」
真昼はソファへ座り込み、ぼんやり天井を見る。
最近。
こうして天井へ話すのが、
完全に自然になっている。
その異常さを、
もう毎回確認しなくなっている。
真昼は髪を軽くかき上げる。
「……今日、ずっと会議で」
言ってから止まる。
また報告している。
でも。
上は静かに聞いている。
「……人、多かったので」
低い声。
真昼は少し笑う。
「……音で分かるんですか」
「……はい」
短い返事。
真昼は目を閉じた。
会社では。
誰と話していても、
どこか気が張っている。
でも。
この部屋では、
無言でも空気が続く。
説明しなくても、
生活音だけで成立してしまう。
その感覚が、
最近はもう怖いより先に落ち着く。
真昼はぼんやり天井を見る。
「……今日、上司にまた言われました」
数秒。
静かな沈黙。
「……東京のこと」
部屋が少し静かになる。
冷蔵庫。
加湿器。
遠くの車。
その全部の中で。
三浦はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……そうですか」
低い声。
それだけ。
引き止めない。
怒らない。
責めない。
でも。
その静かな返事だけで、
真昼の胸の奥が妙に苦しくなる。
真昼はソファへ深く沈み込む。
東京へ戻れば、
多分、普通へ戻れる。
でも。
普通ってなんだろう。
最近。
それを考える時間が増えていた。
味噌汁の湯気が、
静かに部屋へ広がっている。
上では、小さく床板が鳴った。




