第31話 マヒルの生活
水曜日。
帰宅は、少し遅くなった。
残業だった。
でも。
真昼は仕事中、
ずっと時計ばかり見ていた。
早く終わらないかな。
帰りたい。
その感覚へ気づいた瞬間、
真昼は小さく目を閉じた。
どこへ。
何に。
帰りたいと思っているのか。
もう。
少し曖昧になっている。
夜。
アパートの階段を上がる。
古い鉄の手すり。
湿った空気。
二〇三号室。
鍵。
ドア。
暖かい空気。
味噌汁の匂い。
真昼はそこで、小さく息を吐いた。
胸の奥の緊張が、
静かにほどけていく。
「……ただいま」
数秒。
ミシ。
小さい音。
返事。
真昼は靴を脱ぎながら、ぼんやり思う。
最近。
この瞬間だけで、
一日の輪郭が閉じる。
会社。
人間関係。
異動。
全部。
ドアの外へ置いてきているみたいに。
真昼はソファへ鞄を置いた。
その時。
上から、低い声。
「……今日は、かなり遅かったので」
「……残業です」
「……最近、多いですね」
真昼は少し止まる。
「……そうですね」
実際は、
そこまで増えていない。
でも。
最近の真昼は、
“帰宅時間”
ばかり気にしている。
だから少し遅いだけで、
妙に長く感じる。
真昼はキッチンへ向かう。
小鍋。
湯気。
整えられた流し。
生活の匂い。
その時。
ふいに、スマホが震えた。
同期。
『今度飲み行かない?』
真昼は画面を見つめたまま止まる。
少し前までなら、
断らなかったと思う。
でも今。
仕事終わりに誰かと会うより。
真っ直ぐ二〇三号室へ帰ってきて、
この空気へ沈む方が楽だった。
真昼は短く返信する。
『ごめん、最近ちょっと疲れてる』
送信。
その瞬間。
真昼はゆっくり目を閉じた。
断っている。
少しずつ。
外側を。
その時。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼はぼんやり天井を見る。
静かな部屋。
加湿器。
味噌汁。
冷蔵庫。
そして。
返ってくる小さい音。
真昼はゆっくりソファへ座り込む。
最近。
この部屋の外側が、
少しずつ遠くなっている。
でも。
その代わりみたいに。
自分の居場所に馴染んでいる。
二〇三号室の空気だけが、
マヒルの生活なのだ。




