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第29話 「普通」がぼやける 6月22日

 月曜日。


 真昼は、会社へ向かう途中でスマホを開いた。


 上司からの通知。


『今日、少し話せる?』


 短い文章。


 異動の返事だ。


 真昼は画面を見つめたまま、ゆっくりスマホを閉じた。


 朝の駅。


 人の流れ。


 階段。


 電車の音。


 全部、普通だった。


 なのに。


 真昼はどこか、

自分だけが少し遅れている感覚を覚える。


 みんな前へ進んでいる。


 異動。


 転勤。


 将来。


 そういう話をしている。


 でも。


 自分だけ、

二〇三号室へ引っ張られている。


 会社。


 午前。


 真昼は仕事をしながらも、ずっと落ち着かなかった。


 返事をしなければいけない。


 分かっている。


 なのに。


 考えようとすると、

頭へ浮かぶのはあの部屋だった。


 味噌汁。


 ミシ。


 加湿器。


 小さい生活音。


 真昼はそこで強く目を閉じた。


 駄目だ。


 本当に。


 昼過ぎ。


 上司に声をかけられる。


「佐伯さん、ちょっといい?」


 会議室。


 閉まるドア。


 静かな空間。


 上司は椅子へ座りながら、柔らかく言った。


「異動の件だけど」


 真昼は黙って頷く。


「急かしたくはないんだけど、そろそろ方向決めないとでさ」


「……はい」


「東京、戻りたい?」


 真昼は返事ができなかった。


 戻りたい。


 普通なら。


 そう答えるだけなのに。


 頭の中へ、

静かな部屋が浮かぶ。


 暖かい空気。


 味噌汁。


 “おかえり”みたいなミシ。


 真昼はゆっくり視線を落とした。


「……少し」


 声が掠れる。


「……考えさせてください」


 上司は少しだけ困った顔をした。


 でも。


「分かった」


 それ以上は言わなかった。


 帰宅。


 夜。


 アパートの階段を上がる。


 真昼の足は、

もう迷わず二〇三号室へ向かう。


 鍵。


 ドア。


 暖かい空気。


 味噌汁の匂い。


 真昼はそこで小さく目を閉じた。


 安心している。


 完全に。


「……ただいま」


 数秒。


 ミシ。


 小さい音。


 真昼は靴を脱ぎながら、小さく息を吐く。


 その時。


 ふいに気づく。


 今日。


 上司と話している時より。


 今の方が、

呼吸が楽だ。


 真昼はそこで止まった。


 静かな部屋。


 加湿器。


 冷蔵庫。


 天井裏。


 全部。


 もう“普通の生活”として身体へ馴染み始めている。


 その時。


 上から、低い声。


「……今日は、遅かったので」


 真昼はゆっくり天井を見る。


「……話してたんです」


「……会社の人と」


「……はい」


 少し間。


 それから。


「……疲れてる音、してたので」


 真昼は何も言えなかった。


 また。


 音。


 歩き方。


 呼吸。


 三浦はそこから真昼を読んでいる。


 真昼はソファへ座り込み、ぼんやり天井を見た。


 東京へ戻れば、

多分、正常へ戻れる。


 そう思っている。


 でも。


 その“正常”の輪郭が、

いつの間にか、少しずつ曖昧になっていた。

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