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第26話 6月19日 戻る、戻らない

 金曜日。


 朝。


 真昼は、久しぶりに寝坊しかけた。


 目を覚ました瞬間。


 最初に聞こえたのは、上の小さな物音だった。


 ミシ。


 真昼は布団の中で、しばらく天井を見つめる。


 戻っている。


 その事実だけで、

胸の奥が妙に落ち着いてしまう。


 真昼はゆっくり起き上がる。


 キッチン。


 小鍋。


 味噌汁の匂い。


 加湿器の蒸気。


 全部。


 また部屋へ戻っている。


 真昼はそこで止まった。


 数日前まで、

これを気味悪いと思っていたはずなのに。


 今は。


 “戻った”

と感じている。


 その感覚が、

静かに怖かった。


「……ただいま、じゃないか」


 掠れた独り言。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 返事みたいだった。


 会社。


 午前。


 真昼は、久しぶりに少しだけ気分が軽かった。


 同僚と話す。


 笑う。


 資料を直す。


 普通の仕事。


 でも。


 その普通の奥で、

ずっと部屋の気配を思い出している。


 帰ったら。


 あの部屋がある。


 真昼はそこで、ふと気づく。


 最近。


 “家へ帰る”

じゃなく、


“二〇三号室へ帰る”


感覚になっている。


 場所じゃない。


 空気そのもの。


 帰宅。


 夜。


 アパートの階段を上がる。


 真昼の足取りは、

数日前より少しだけ軽かった。


 二〇三号室。


 鍵。


 ドア。


 暖かい空気。


 味噌汁の匂い。


 真昼はそこで小さく目を閉じる。


「……ただいま」


 数秒。


 ミシ。


 小さい音。


 真昼は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。


 帰ってきた。


 本当に。


 自然にそう思った。


 その時。


 上から、低い声。


「……昨日、遅くまで起きてたので」


 真昼は天井を見る。


「……見てたんですか」


「電気、ついてたので」


 真昼は少し笑う。


 もう、

この会話の異常さへ驚けなくなっている。


 その時。


 ふいに、上から低い声。


「……佐伯さん」


「……何ですか」


 少し間。


「……戻らなくてよかったです」


 真昼の動きが止まる。


 静かな声。


 押しつけじゃない。


 怒りもない。


 でも。


 その言葉だけが、

妙に真っ直ぐ落ちてくる。


 真昼は何も言えなかった。


 部屋が静かになる。


 味噌汁。


 加湿器。


 冷蔵庫。


 上の気配。


 その全部の中で。


 真昼は初めて、

“東京へ戻らない未来”

を、

少しだけ現実として想像してしまった。


 そして。


 その想像へ、

完全には嫌悪できなかった。

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