第20話 6月13日 土曜日
土曜日。
朝。
真昼は、目を覚ましてすぐテーブルを見た。
メモ。
まだそこにある。
小さい紙。
歪んだ字。
『加湿器、水減るの早いので気をつけてください』
真昼は布団の中でしばらくそれを見つめた。
捨てればいい。
ただの紙だ。
なのに。
そのまま置いてある。
真昼はゆっくり起き上がる。
部屋は静かだった。
だが。
静かすぎない。
上に、人の気配がある。
それだけで。
部屋の空気が少し埋まっている。
真昼は小さく息を吐き、キッチンへ向かった。
その時。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
「……起きてるんですね」
少し間。
「……はい」
低い声。
真昼は冷蔵庫を開ける。
麦茶。
卵。
豆腐。
それを見ているうちに、ふと止まる。
最近。
冷蔵庫の中を、
“誰かと共有している”
感覚が少しある。
それが嫌だった。
その時。
上から、低い声。
「……今日、休みなので」
真昼は天井を見る。
「……はい」
「……駅前、人多いです」
真昼は少し止まる。
「……行ってたんですか」
「……朝」
静かな返事。
真昼は何も言えなかった。
朝の駅前。
コンビニ。
人混み。
三浦はそこにいる。
でも。
最近、その事実へ慣れ始めている自分がいる。
真昼はゆっくり冷蔵庫を閉めた。
「……見つからないでくださいよ」
気づけば言っていた。
部屋が少し静かになる。
冷蔵庫。
換気扇。
外の子供の声。
その全部の中で。
三浦はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……はい」
低い声。
短い返事。
真昼はその返事を聞いた瞬間、
胸の奥が少しだけ軽くなる。
安心している。
今。
見つからなくて良かった、と。
真昼はゆっくり顔を覆った。
駄目だ。
本当に。
感覚がおかしくなっている。
その時。
上で、小さく咳。
ゴホ。
真昼は反射的に天井を見る。
「……まだ治ってないんですね」
「……少し、楽です」
加湿器のおかげだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、
真昼は静かに目を閉じた。
部屋の中へ、
少しずつ、
二人分の生活が染み込み始めている。
テーブルの端で、
小さいメモが揺れていた。
昼過ぎ。
真昼は、珍しく洗濯をしていた。
シーツ。
タオル。
黒い仕事用の服。
洗濯機が回る音が、静かな部屋へ響いている。
少し前まで。
洗濯物は溜めていた。
乾燥機へ突っ込むだけ。
畳まず放置。
そんな生活だった。
でも今。
真昼は洗濯が終わる時間を気にしている。
取り込む時間を考えている。
生活が回っている。
そのことが、少し怖い。
真昼はソファへ座り、ぼんやりスマホを見る。
東京の友人から通知。
『夏あたり帰ってくる?』
真昼は返信画面を開いたまま止まる。
帰る。
東京へ。
静かな部屋へ。
その想像をした瞬間。
ふいに。
天井の気配が頭へ浮かぶ。
ミシ。
咳。
味噌汁の匂い。
真昼はスマホを伏せた。
その時。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
「……洗濯、終わりそうです」
真昼は思わず天井を見る。
「……分かるんですか」
「……音、変わったので」
真昼は少し黙ったあと、小さく笑った。
本当に。
この人は音で生活している。
洗濯機。
歩き方。
鍋。
咳。
全部。
真昼は立ち上がり、洗濯機へ向かう。
蓋を開ける。
暖かい空気。
柔軟剤の匂い。
その時。
ふいに、上から低い声。
「……佐伯さん」
「……何ですか」
少し間。
「……最近、部屋明るいので」
真昼の手が止まる。
「……え」
「電気、前よりついてる時間長いので」
真昼は何も言えなかった。
前は。
帰宅しても暗いまま寝る日があった。
何もする気力がなくて。
でも最近。
料理をする。
風呂へ入る。
洗濯をする。
起きている時間が増えている。
生活している。
三浦は、それを全部見ている。
真昼は洗濯物を取り出しながら、小さく息を吐いた。
「……監視ですね、もう」
少し間。
「……生活です」
静かな返事。
真昼はそこで止まる。
監視。
生活。
その境界が、
この部屋ではもう曖昧になり始めている。
ベランダへ洗濯物を干す。
外は少し風が強かった。
揺れるシャツ。
住宅街の音。
夕方の空気。
真昼は洗濯物を留めながら、ふと上を見る。
天井裏。
見えない。
でも。
そこに人がいる。
そして。
その存在を、
もう完全に生活へ組み込んでしまっている自分がいる。
部屋へ戻る。
テーブルの端。
小さいメモ。
味噌汁の匂い。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼は、その音を聞きながらカーテンを閉めた。
夜。
風が強かった。
ベランダへ干した洗濯物が、時々大きく揺れる音がする。
真昼はソファへ座ったまま、ぼんやりその音を聞いていた。
部屋は暖かい。
味噌汁の匂い。
加湿器の小さい駆動音。
冷蔵庫。
そして。
天井裏の気配。
真昼はふと気づく。
最近。
この部屋の音を、
かなり細かく聞き分けられるようになっている。
加湿器の水が減る音。
床の軋み。
上で身体を動かす時の重さ。
咳の強さ。
全部。
真昼は目を閉じ、小さく息を吐いた。
その時。
上で、小さく咳。
ゴホ。
少し長い。
真昼は反射的に天井を見る。
「……また悪化してません?」
少し間。
「……乾燥してるので」
「加湿器意味ないじゃないですか」
言った瞬間。
上で、小さく空気が揺れた。
笑った。
本当に少しだけ。
真昼はその気配を感じ取り、静かに固まる。
最近。
三浦の感情が少し分かる。
声の間。
床の軋み。
沈黙。
そういうもので。
それが怖かった。
その時。
ベランダ側で、大きく音が鳴った。
ガタン!
真昼の肩が跳ねる。
風。
洗濯物のハンガーが倒れたらしい。
真昼は立ち上がり、カーテンを開ける。
夜風。
揺れる洗濯物。
暗い住宅街。
その瞬間。
ふいに。
ベランダのガラスへ、自分の姿が映る。
後ろ。
暗い部屋。
味噌汁の匂い。
加湿器。
そして。
天井裏に、人がいる。
真昼はそこで止まった。
外から見たら。
この部屋は普通だ。
でも。
中には、
静かに共同生活が存在している。
その異常さが、
急に現実感を持って迫ってくる。
真昼はゆっくりカーテンを閉めた。
部屋が暗くなる。
その時。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
真昼は反射的に天井を見る。
そして。
その音だけで、
少し安心してしまった自分に気づく。
もう。
怖いだけでは、
なくなっている。
加湿器の蒸気が、
静かに白く揺れていた。




