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第15話 見られている

 木曜日。


 帰宅。


 部屋を開ける。


 味噌汁の匂い。


 少し薄い醤油の香り。


 真昼は靴を脱ぎながら、小さく息を吐く。


 その瞬間。


 自分が少し安心したことに気づき、顔をしかめる。


「……いますね」


 数秒。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 最近では、それだけで返事が成立してしまう。


 真昼は鞄を置き、キッチンへ向かう。


 流し。


 洗われたマグカップ。


 整えられた台所。


 誰かが生活している痕跡。


 真昼は冷蔵庫を開けた。


 その時。


 上から、低い声。


「……今日、階段で躓いてましたね」


 真昼の動きが止まる。


「……見てたんですか」


「危なかったので」


 真昼は冷蔵庫の扉を閉めた。


 静かな音。


 最近、こういう会話へ慣れ始めている。


 それがまずい。


 でも。


 今日は少し違った。


「……どこにいたんですか」


 真昼は天井を見上げる。


 上は静かだった。


 数秒。


「……近くに」


 曖昧な返答。


 だが。


 真昼はもう、それ以上聞かなかった。


 聞けば、多分。


 もっと具体的な恐怖になる。


 それが分かっている。


 真昼はソファへ座る。


 部屋は暖かかった。


 少し前まで。


 帰宅すると、冷たい空気しかなかった。


 でも今は。


 誰かの生活音がある。


 その時。


 ふいに、上から低い声。


「……佐伯さん」


 真昼は反射的に天井を見る。


「……何ですか」


 少し間。


「……最近、コンビニ減りましたね」


 真昼は止まった。


 言われて気づく。


 確かに。


 最近、自炊が増えている。


 味噌汁があるから。


 食材があるから。


 生活が整っているから。


 真昼はゆっくり視線を落とした。


「……だから何ですか」


 少しだけ刺々しく返す。


 上は静かだった。


 だが。


 数秒後。


「……前、毎日コンビニ袋落ちてたので」


 真昼は何も言えなかった。


 見られていた。


 ずっと。


 生活の荒れ方を。


 帰宅後の様子を。


 床に放った袋まで。


 その観察の細かさが、今さらじわじわ怖くなる。


 だが同時に。


 三浦は、その“荒れていた時期”も知っている。


 今より酷かった頃を。


 その事実が、真昼の感覚をさらに鈍らせていく。


 真昼はソファへ深く沈み込む。


 怖い。


 なのに。


 少しだけ。


 “昔の自分を知っている存在”

として認識し始めている。


 それが、どうしようもなく危険だった。


 金曜の夜。


 真昼は、珍しくコンビニで立ち止まっていた。


 棚。


 弁当。


 カップ麺。


 ペットボトル。


 少し前までは、ここで適当に夕飯を選ぶのが普通だった。


 でも最近。


 部屋へ帰れば味噌汁がある。


 食材もある。


 それを前提にし始めている自分へ気づき、真昼は顔をしかめた。


「……駄目だな」


 小さく呟く。


 真昼は弁当を棚へ戻した。


 代わりに、アイスだけ買う。


 理由は自分でも分からなかった。


 帰宅。


 アパートの階段を上がる。


 今日は妙に静かだった。


 風も弱い。


 廊下も暗い。


 二〇三号室。


 鍵を回す。


 ドアを開ける。


 少し暖かい空気。


 味噌汁の匂い。


 その瞬間。


 真昼は、ほんの少し肩の力が抜ける。


 もう完全に身体が覚えている。


 この部屋の空気を。


「……ただいま」


 自然に出る。


 数秒。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 返事。


 もう、それ以外に聞こえなかった。


 真昼は靴を脱ぎ、コンビニ袋をテーブルへ置く。


 その時。


 上から低い声。


「……アイス、溶けます」


 真昼は止まった。


「……見てるんですか」


「袋、小さいので」


 真昼は思わず顔を覆う。


 もう駄目だ。


 全部見られている。


 帰宅。


 袋。


 歩き方。


 肩。


 顔色。


 その生活全部を。


 真昼は冷凍庫へアイスを入れた。


 静かな音。


 その時。


 ふと、真昼は気づく。


 最近。


 自分の生活が、“見られる前提”で動き始めている。


 コンビニ袋。


 帰宅時間。


 食事。


 全部。


 どこかで、

“上から認識される”

感覚が混ざる。


 それが気持ち悪い。


 でも。


 完全には拒否できない。


 真昼はソファへ座り込む。


 その時。


 上から、小さく咳。


 ゴホ。


 真昼は反射的に天井を見る。


「……また咳してますね」


 少し間。


「……今日は乾燥してるので」


 真昼は目を閉じた。


 また普通みたいな会話をしている。


 季節の話みたいに。


 その時。


 スマホが震えた。


 母親。


『異動どうするの?』


 真昼は画面を見つめる。


 返事を打てない。


 東京へ戻る。


 普通の部屋。


 静かな生活。


 それを想像する。


 なのに。


 その想像の中には、

もう“ミシ”がない。


 咳もない。


 味噌汁もない。


 その静けさを想像した瞬間。


 真昼の胸の奥へ、妙な空虚感が広がった。


 真昼はスマホを伏せる。


 その時。


 上で、小さく床板が鳴った。


 ミシ。


 真昼はゆっくり天井を見る。


 そして。


 その音を聞いただけで、

少し安心してしまった自分に気づき。


 静かに、目を閉じた。

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