第14話 戻る場所
翌日。
真昼は、会社でほとんど人の顔を見られなかった。
資料室。
泣いていたこと。
三浦は知っていた。
あの瞬間から、
“外”
が安全な場所じゃなくなり始めている。
真昼は給湯室で紙コップへコーヒーを注ぎながら、小さく息を吐いた。
「佐伯さん、最近残業減ったよね」
同僚の声。
真昼は反射的に顔を上げる。
「あ、そうですか?」
「前ずっと死にそうだったじゃん」
軽い笑い。
真昼も曖昧に笑い返す。
その瞬間。
ふと。
三浦も同じことを言っていた、と思う。
『最近ちゃんと寝てるので』
真昼は紙コップを強く握った。
嫌だ。
本当に。
思考へ入り込んでくる。
帰宅。
夕方。
アパートの階段を上がる。
今日は風が強かった。
古い廊下の窓が、カタカタ鳴っている。
二〇三号室。
鍵を回す。
ドアを開ける。
その瞬間。
真昼は少し止まった。
味噌汁の匂いがしない。
静かだ。
嫌な静けさではない。
でも。
何か足りない。
真昼はゆっくり部屋へ入る。
「……ただいま」
気づけば口から出ていた。
数秒。
沈黙。
それから。
ミシ。
小さく床板が鳴る。
真昼は、ほんの少し肩の力が抜けるのを感じた。
その瞬間。
自分で寒気がした。
今。
安心した。
音ひとつで。
真昼は靴を脱ぎ、ソファへ座る。
部屋は少し暗かった。
窓の外では風が鳴っている。
その時。
上から、小さく声。
「……今日」
真昼は反射的に天井を見る。
「会社の人、話しかけてましたね」
真昼の背筋が冷える。
「……見てたんですか」
数秒。
沈黙。
「……駅で」
真昼は何も言えなかった。
まただ。
生活圏。
帰り道。
視界の外。
三浦は、そこにいる。
真昼は無意識に腕を抱いた。
「……どこにいるんですか」
掠れた声。
「帰り道とか」
上は静かだった。
長い沈黙。
それから。
「……います」
真昼は顔をしかめる。
答えになっていない。
でも。
それ以上聞きたくない気持ちもあった。
具体的な場所を知った瞬間、
本当に逃げ場がなくなりそうで。
部屋は静かだった。
風。
冷蔵庫。
古い建物の軋み。
そして。
天井裏。
真昼はゆっくり天井を見る。
怖い。
ちゃんと。
でも。
その恐怖の中へ、
もう“生活の感覚”が混ざってしまっている。
それが、どうしようもなく気持ち悪かった。
真昼は、その夜ほとんどテレビを見なかった。
つけても、音が頭に入ってこない。
三浦が“外”にいる。
その感覚だけが、ずっと胸の奥へ残っている。
帰り道。
駅。
人混み。
どこかに。
視界の外へ。
真昼はソファへ座ったまま、ぼんやり窓を見る。
風が強い。
古いサッシが小さく鳴っている。
その時。
上で、小さく咳。
ゴホ。
真昼は反射的に天井を見る。
最近ではもう、それが自然だった。
「……まだ外出てるんですか」
少し間。
「……時々」
低い声。
真昼は膝を抱える。
「……見つかったらどうするんですか」
沈黙。
長い沈黙。
それから。
「……戻れなくなるので」
真昼は眉を寄せた。
「戻る?」
「ここに」
静かな返答。
真昼は言葉を失う。
ここ。
三浦は今、この部屋を、
“戻る場所”
として認識している。
その事実が、じわじわ胃を重くした。
真昼はゆっくり視線を落とす。
「……普通じゃないです」
掠れた声。
「分かってます」
上は静かだった。
少しして。
「……でも、静かなので」
またそれだ。
静か。
生活。
音。
三浦の基準は、全部そこへ戻る。
真昼は小さく息を吐いた。
その時。
窓の外で、強い風が吹く。
ガタッ。
古い窓が大きく鳴った。
真昼の肩が跳ねる。
その直後。
上で、ミシ、と床板が鳴った。
まるで、
“大丈夫”
と言われたみたいに。
真昼は数秒止まったあと、ゆっくり顔を覆う。
もう駄目だ。
音へ意味を感じ始めている。
ミシ。
コツ。
咳。
沈黙。
その全部を。
“会話”
として認識し始めている。
真昼はソファへ深く沈み込んだ。
部屋は静かだった。
独りじゃない静けさ。
その感覚が、少しずつ身体へ染み込み始めている。
その時。
ふいに、上から低い声。
「……佐伯さん」
真昼は反射的に天井を見る。
「……何ですか」
少し間。
「……最近、前より笑ってるので」
真昼は止まった。
静寂。
風。
冷蔵庫。
その全部が遠くなる。
「……は?」
掠れた声。
上は静かだった。
「会社の人と話してる時」
真昼は何も言えなかった。
また見ていた。
外で。
帰り道で。
人と話している時まで。
怖い。
本当に。
なのに。
その言葉を聞いた瞬間。
真昼の胸の奥へ、妙な熱が落ちる。
自分の変化に気づいていた人間がいた。
その感覚が。
恐怖と一緒に、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまった。
真昼は強く目を閉じる。
駄目だ。
本当に。
感覚がおかしくなっている。
翌日から。
三浦は、前より少しだけ話すようになった。
いや。
正確には。
真昼の方が、返事を返してしまう回数が増えた。
朝。
味噌汁。
夜。
小さな生活音。
咳。
ミシ。
その全部へ、無意識に反応してしまう。
真昼は自分でも、それを止められなくなり始めていた。




