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第13話 三浦さん

 月曜日。


 朝の駅は混んでいた。


 雨上がりの湿った空気。


 人の流れ。


 階段を上がる足音。


 真昼はぼんやり改札を抜ける。


 少し寝不足だった。


 最近、眠れているはずなのに。


 眠りが浅い。


 天井の音へ耳を澄ませる癖が抜けない。


 会社へ着く。


 デスク。


 PC。


 いつもの仕事。


 だが昼前。


 資料を運ぼうとした瞬間、真昼は小さく顔をしかめた。


「っ……」


 左肩。


 鈍い痛み。


 昨日、駅の階段で少し踏み外しかけた。


 転びはしなかった。


 でも。


 咄嗟に手すりを掴んで肩を捻った。


 大したことない。


 そう思っていた。


「佐伯さん、大丈夫?」


 同僚が振り返る。


「ちょっと肩痛めただけ」


「湿布いる?」


「平気」


 真昼は曖昧に笑う。


 本当に、大したことない。


 そのはずだった。


 帰宅。


 夜。


 部屋は少し暖かかった。


 味噌汁の匂い。


 薄い出汁の香り。


 真昼は靴を脱ぐ。


 その瞬間。


 上で、小さく床板が鳴った。


 ミシ。


 真昼は無意識に天井を見る。


「……いますね」


 数秒。


「……います」


 低い声。


 最近では、それだけで少し落ち着いてしまう。


 真昼は顔をしかめながら鞄を置いた。


 その時。


 上から、静かな声。


「……左肩」


 真昼の動きが止まる。


「湿布、貼った方がいいです」


 真昼はゆっくり天井を見る。


 部屋の空気が、少し冷えた気がした。


「……なんで知ってるんですか」


 沈黙。


 数秒。


 それから。


「駅の階段で、庇ってたので」


 真昼は固まった。


 駅。


 階段。


 昨日。


 頭の奥が、じわりと冷える。


「……見てたんですか」


「たまたま」


 静かな返事。


 だが。


 真昼の背筋には寒気が走っていた。


 部屋だけじゃない。


 外も。


 見られている。


 観察されている。


 生活全部を。


 真昼はゆっくり後ろへ下がった。


「……どこまで」


 声が掠れる。


「どこまで見てるんですか」


 上は静かだった。


 長い沈黙。


 それから。


「……佐伯さん、最近ちゃんと寝てるので」


 真昼は息を止めた。


 答えになっていない。


 でも。


 その返答の意味が、分かってしまう。


 前より眠れている。


 食べている。


 生活が崩れていない。


 三浦はそれを、

“観察結果”

として見ている。


 愛情じゃない。


 安心でもない。


 監視の延長。


 その感覚が、急に現実味を持って真昼へ迫ってくる。


 真昼は無意識に自分の肩を押さえた。


 怖い。


 今さら。


 本当に今さらなのに。


 急に。


 ちゃんと怖くなった。


 その時。


 上で、小さく咳が鳴る。


 ゴホ。


 静かな部屋。


 味噌汁の匂い。


 天井裏。


 その全部が、ほんの少しだけ異様に見え始めていた。


真昼は、その場からしばらく動けなかった。


 駅。


 階段。


 昨日。


 三浦は、外にいた。


 自分の生活圏に。


 真昼はゆっくりソファへ座る。


 味噌汁の匂いがする。


 湯気。


 暖かい部屋。


 なのに。


 急に、全部が気味悪く感じた。


「……ずっと見てるんですか」


 掠れた声。


 上は静かだった。


 数秒。


「……見える時は」


 真昼は目を閉じる。


 曖昧な返答。


 でも。


 否定ではない。


 真昼は肩を押さえる。


 駅。


 会社。


 帰り道。


 自分が気づいていない場所で。


 三浦は、どこまで見ているんだろう。


 その時。


 上から、静かな声。


「……昨日」


 真昼は反射的に天井を見る。


「会社で、泣いてました?」


 真昼の呼吸が止まった。


 部屋が静かになる。


 冷蔵庫。


 換気扇。


 その全部が急に遠くなる。


「……は?」


 声が掠れる。


 昨日。


 夕方。


 会議室の後。


 真昼は一人で資料室にいた。


 少しだけ。


 本当に少しだけ泣いた。


 仕事のことで。


 誰にも見られていないと思っていた。


「……なんで」


 真昼は立ち上がった。


「なんで知ってるんですか」


 上は静かだった。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


「……目、赤かったので」


 真昼は何も言えなかった。


 見られていた。


 泣いたことを。


 自分でも隠したかった部分を。


 静かに。


 ずっと。


 観察されている。


 真昼は背筋へ冷たいものが走るのを感じた。


 今まで。


 三浦は“生活”だった。


 味噌汁。


 咳。


 生活音。


 でも今。


 急に思い出す。


 この人は。


 ずっと自分を見ていた。


 怖い。


 本当に。


 真昼は無意識に後ろへ下がる。


 その時。


 上で、小さく床板が鳴った。


 ミシ。


 そして。


 低い声。


「……すみません」


 真昼は顔をしかめた。


 また謝る。


 でも。


 それで済む問題じゃない。


「……普通じゃないです」


 掠れた声。


「ほんとに」


 上は静かだった。


 返事はない。


 ただ。


 気配だけがある。


 天井の向こうに。


 真昼はゆっくり視線を落とした。


 怖い。


 なのに。


 その恐怖の中に、少しだけ別の感情も混ざっている。


 見られていた。


 自分が崩れている時を。


 泣いていた時を。


 誰にも気づかれなかった部分を。


 三浦だけは知っていた。


 その事実が、真昼の感覚をさらに狂わせていく。


 真昼は強く目を閉じた。


 駄目だ。


 本当に。


 この生活に慣れ始めている。


 その時。


 上で、小さく咳が鳴った。


 ゴホ。


 真昼は反射的に天井を見る。


 そして。


 また、その咳へ安心しかけた自分に気づき。


 静かに寒気を覚えた。


 その夜。


 真昼は、珍しくテレビをつけた。


 バラエティ番組。


 芸人の笑い声。


 派手な字幕。


 うるさいくらいの音。


 静寂を埋めたかった。


 天井を意識したくなかった。


 だが。


 しばらく見ていても、内容はほとんど頭に入ってこない。


 真昼はぼんやり画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 泣いていたこと。


 見られていた。


 しかも。


 三浦は、それを悪いことだと思っていない。


 ただ観察結果として口にした。


 それが怖かった。


 その時。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 真昼は反射的に音量を上げた。


 リモコン。


 テレビの笑い声が大きくなる。


 だが。


 数秒後。


 上から、静かな声。


「……肩、冷やした方がいいです」


 真昼はリモコンを握ったまま止まる。


「……見てるんですか」


「歩き方、変なので」


 真昼はゆっくり顔を覆った。


 まただ。


 観察。


 生活。


 小さい違和感。


 三浦は、それをずっと拾っている。


 真昼はソファへ沈み込む。


「……普通に怖いです」


 掠れた声。


 上は静かだった。


 少しして。


「……すみません」


 真昼はテレビを消した。


 急に部屋が静かになる。


 冷蔵庫。


 換気扇。


 雨上がりの外の音。


 そして。


 上にいる人間の気配。


 真昼は天井を見上げる。


「……なんで、そこまで分かるんですか」


 沈黙。


 長い沈黙。


 それから。


「……見てるので」


 真昼は背筋に冷たいものを感じた。


 あまりにも、そのままの答え。


 隠しもしない。


 悪意もない。


 だから怖い。


「……ずっと?」


 数秒。


「……生活なので」


 真昼は言葉を失った。


 生活。


 三浦の中では。


 見ることも。


 把握することも。


 全部、その延長にある。


 真昼はゆっくり膝を抱えた。


 怖い。


 ちゃんと。


 本当に。


 でも。


 その恐怖の中に、もう“いつもの感じ”が混ざり始めている。


 それが一番まずかった。


 その時。


 スマホが震えた。


 同僚からだった。


『そういえば今度、佐伯さんの部屋近いし遊び行っていい?』


 真昼は止まる。


 数秒。


 画面を見つめる。


 その瞬間。


 上が、完全に静かになった。


 さっきまであった気配が、急に止まる。


 真昼はゆっくり天井を見る。


 静かだ。


 妙に。


 その沈黙だけで、空気が変わる。


 真昼の喉が乾く。


 そして。


 数秒後。


 上から、低い声。


「……人、呼ぶんだ」


 静かな声だった。


 怒鳴っていない。


 責めてもいない。


 でも。


 今までで一番、部屋の温度が下がった気がした。


 真昼はスマホを握りしめる。


 上は静かだった。


 ただ。


 その沈黙だけが、ひどく重かった。


 真昼はスマホを握ったまま、動けなかった。


 部屋が静かだった。


 冷蔵庫。


 外の車。


 古い建物の軋み。


 その全部の上に、

“人、呼ぶんだ”

という声だけが残っている。


 真昼はゆっくり天井を見る。


 返事ができない。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 その沈黙の中で。


 真昼は、自分が少し怯えていることに気づく。


 今までの三浦は。


 静かで。


 謝って。


 引いて。


 どこか“こちらに遠慮している側”だった。


 でも今。


 初めて。


 この部屋へ対する執着みたいなものが見えた。


 真昼は喉を鳴らす。


「……まだ決まってないです」


 気づけば言い訳みたいな返事をしていた。


 上は静かだった。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


 ミシ。


 小さく床板が鳴る。


 返事なのか。


 違うのか。


 真昼には分からなかった。


 だが。


 空気だけは、まだ少し重い。


 真昼はスマホ画面を見る。


『近いし終電逃しても安心じゃん笑』


 軽い文章。


 普通の冗談。


 なのに。


 その“部屋へ人が来る”という想像だけで、胃が重くなる。


 真昼は気づく。


 まずい。


 自分の方も。


 この部屋を“他人に触られたくない場所”として感じ始めている。


 その感覚に、背筋が冷える。


 真昼はすぐ返信を打った。


『ごめん、部屋あんまり片付いてない』


 送信。


 数秒後。


『また今度ね〜』


 軽い返事。


 それだけ。


 真昼はスマホを伏せる。


 その瞬間。


 上で、小さく床板が鳴った。


 ミシ。


 真昼は反射的に天井を見る。


 今のは。


 なんなんだ。


 安心した音みたいに聞こえた。


 真昼はソファへ深く座り込む。


 疲れていた。


 仕事。


 生活。


 天井裏。


 全部。


 その時。


 上から、静かな声。


「……すみません」


 真昼は目を閉じる。


 また、それだ。


「……何がですか」


 少し間。


「……嫌な言い方したので」


 真昼は何も返せなかった。


 三浦自身も、今の空気の変化を分かっている。


 でも。


 止められていない。


 それが、妙に怖かった。


 部屋は静かだった。


 だが。


 その静けさは、前みたいな“空っぽ”ではない。


 誰かの感情が、天井の上へ滲んでいる静けさだった。


 真昼はゆっくり膝を抱える。


 そして。


 気づいてしまう。


 もし今。


 三浦が「嫌だ」と言ったら。


 自分は、本当に人を呼べるんだろうか。


 その考えが浮かんだ瞬間。


 真昼は静かに寒気を覚えた。

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