第12話 暗い安らぎ
翌朝。
真昼は、アラームが鳴る前に目を覚ました。
静かだった。
いや。
完全な静寂ではない。
冷蔵庫。
外を走る車。
古い建物の軋み。
そして。
上に、人がいる気配。
真昼は布団の中で目を閉じたまま、小さく息を吐く。
もう。
それを確認することが癖になり始めていた。
いる。
今日も。
その事実に、少しだけ安心しかける。
真昼はすぐ眉を寄せた。
違う。
安心じゃない。
ただ。
“いつもの状態”を確認しているだけだ。
真昼は起き上がる。
部屋は薄暗い。
雨は止んでいた。
点検口を見る。
閉まっている。
何も変わらない朝。
その時。
キッチン側で、小さく音。
カタ。
真昼は止まる。
最近では珍しくない音。
なのに。
今日は妙に近く感じる。
真昼はゆっくりキッチンへ向かった。
誰もいない。
だが。
シンクの横に、小さな鍋。
湯気。
それから。
置きっぱなしだったコンビニ袋が、綺麗に畳まれていた。
真昼はその袋を見つめる。
自分が昨日、床へ放ったままのものだ。
生活が整えられていく。
勝手に。
静かに。
真昼はゆっくり冷蔵庫を開けた。
中。
昨日の残りのうどん。
麦茶。
卵。
その全部が、妙に“暮らし”として成立し始めている。
真昼は冷蔵庫を閉じた。
その時。
上から、小さく咳。
ゴホ。
昨日より少し軽い。
真昼は無意識に耳を澄ませる。
咳が続かない。
そこで、少しだけ肩の力が抜けた。
真昼はすぐ顔をしかめる。
何を確認してるんだ。
本当に。
その時。
スマホが震えた。
会社から。
『異動面談、来週実施予定』
真昼は止まる。
画面を見つめる。
異動。
その単語だけで、胸の奥がざわつく。
東京。
別の土地。
別の部屋。
“静かな部屋”。
真昼はゆっくりスマホを伏せた。
上は静かだった。
だが。
気配だけはある。
いつも通りに。
真昼は椅子へ座った。
味噌汁の湯気が揺れる。
その匂いを吸い込んだ瞬間。
ふと。
この部屋を離れたら。
もうこの匂いもなくなるんだ、と思ってしまう。
真昼は箸を持つ手を止めた。
そして。
自分の思考に、静かに寒気を覚えた。
異動面談。
その文字が、朝からずっと頭に残っていた。
真昼は会社のデスクで資料を開いたまま、何度もスマホ画面を見てしまう。
異動。
東京へ戻る可能性。
普通なら。
少し嬉しくなる話のはずだった。
山形へ来てから、生活は崩れていた。
仕事も。
睡眠も。
人間関係も。
だから。
環境が変わるなら、救いになるはずだ。
なのに。
真昼はその通知を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
帰る場所が変わる。
その感覚が、思った以上に落ち着かなかった。
「佐伯さん?」
上司の声。
真昼は顔を上げる。
「来週、面談あるから」
「あ、はい」
「希望あれば考えといて」
軽い口調。
普通の業務会話。
真昼は曖昧に頷いた。
東京へ戻りたいです。
そう言えばいいだけなのに。
その言葉が、妙に現実感を持たない。
帰宅。
夕方。
雨上がりの空気は湿っていた。
真昼は階段を上がりながら、無意識に耳を澄ませる。
静かだ。
だが。
“静かだから不安”
になり始めている自分へ気づき、真昼は顔をしかめた。
二〇三号室。
鍵を回す。
ドアを開ける。
部屋は暗かった。
だが。
少しだけ、暖かい。
人のいる部屋の温度だった。
真昼は靴を脱ぐ。
「ただいま」
その瞬間。
上で、小さく床板が鳴った。
ミシ。
真昼は反射的に天井を見る。
数秒。
沈黙。
それから。
「……おかえりなさい」
低い声。
静かな言い方。
真昼は固まった。
今までとは違う。
“ただいま”へ返事をされた。
その事実が、急に重くなる。
真昼は視線を逸らした。
「……帰ってます」
自分でも意味の分からない返しだった。
上は静かだった。
だが。
少しして。
ミシ。
小さく床板が鳴る。
真昼は鞄を置き、ソファへ座った。
部屋は静かだった。
でも。
独りじゃない。
その感覚が、もう当たり前みたいに部屋へ馴染み始めている。
真昼は顔を覆った。
異動。
東京。
静かな部屋。
その全部を想像する。
なのに。
頭へ浮かぶのは、
“味噌汁の匂いがしない部屋”
だった。
真昼はゆっくり目を閉じる。
それを寂しいと思いかけた瞬間。
背筋へ、冷たいものが走った。
真昼はソファへ沈み込んだまま、しばらく動けなかった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫。
外を走る車。
上にいる人間の気配。
その全部が、もう“いつもの夜”として並び始めている。
真昼は顔を覆う。
異動。
東京。
普通の部屋。
普通の生活。
少し前まで、それを望んでいたはずなのに。
今。
その想像をすると、胸の奥が妙に空っぽになる。
その感覚が怖かった。
その時。
上で、小さく咳が鳴る。
ゴホ。
真昼は反射的に天井を見る。
最近ではもう、身体が先に反応する。
「……まだ治らないんですか」
少し間。
「……長いので」
低い声。
真昼は小さく息を吐く。
またそれだ。
曖昧な返事。
説明しない会話。
でも。
最近、自分はその曖昧さに慣れ始めている。
真昼は視線を落とした。
「……異動、あるかもしれないです」
言ってから、自分で止まる。
なんで言った。
本当に。
上は静かだった。
数秒。
長い沈黙。
それから。
「……東京ですか」
真昼はゆっくり天井を見る。
「……まだ分からないです」
嘘だった。
多分、東京だ。
本人も分かっている。
上はまた静かになる。
気配だけがある。
真昼は落ち着かなくなった。
何か言われる気がした。
行かないでください。
とか。
嫌です。
とか。
そういう。
もっと重い言葉を。
だが。
三浦は何も言わなかった。
ただ。
少しして。
ミシ。
小さく床板が鳴る。
それだけ。
その沈黙が、逆に真昼を不安にさせた。
「……なんか言わないんですか」
気づけば口に出ていた。
言った瞬間、真昼は後悔する。
何を求めているんだ。
上は静かだった。
雨上がりの湿った空気。
古い木造の軋み。
その中で。
三浦は低い声で言う。
「……佐伯さんが決めるので」
真昼は動きを止めた。
静かな声。
押しつけもない。
怒りもない。
ただ。
本当に、その通りだと思っているみたいに。
真昼はゆっくり視線を落とす。
その返答に、少し安心してしまった自分へ気づく。
引き止められなかったことに。
束縛されなかったことに。
なのに同時に。
少しだけ、物足りなさも感じてしまった。
真昼は強く目を閉じる。
駄目だ。
本当に。
感覚がおかしくなっている。
その時。
上で、小さく咳が鳴った。
ゴホ。
真昼は反射的に天井を見る。
沈黙。
そして。
自分がまた、その咳を気にしていることに気づき。
真昼は静かに寒気を覚えた。
週末が近づくにつれて、真昼は部屋へいる時間が増えていた。
理由は、自分でもよく分からなかった。
外へ出るのが面倒。
仕事で疲れている。
そういう理由もある。
でも。
本当は少し違う気もしていた。
部屋へ帰れば。
味噌汁の匂いがする。
天井が軋む。
誰かの気配がある。
その“いつもの状態”へ、身体が慣れ始めている。
真昼はソファへ座りながら、小さく息を吐いた。
その時。
上で、小さく咳。
ゴホ。
真昼は無意識に天井を見る。
「……まだ咳してますね」
少し間。
「……今日は少し楽です」
低い声。
真昼は視線を落とした。
最近。
三浦の声を聞くだけで、
“今日は調子が悪そう”
とか、
“少し元気そう”
とか。
分かるようになってきている。
それが嫌だった。
その時。
スマホが震えた。
母親からだった。
『来月、東京戻る可能性あるの?』
真昼は止まる。
どこから聞いたんだろう。
多分、上司経由で母親に伝わったのだ。
真昼はしばらく画面を見つめた。
東京。
実家。
静かな部屋。
普通の生活。
その言葉全部が、
少し遠い。
「……普通は戻るんでしょうね」
ぼんやり呟く。
上は静かだった。
だが。
少しして。
「……佐伯さん、東京の方がちゃんとしてそうなので」
真昼は顔を上げた。
「……何ですかそれ」
「ちゃんと寝そうなので」
静かな返答。
真昼はしばらく黙っていた。
ちゃんと寝そう。
その言い方が妙に引っかかる。
「……今、寝てますよ」
反射的に返す。
上は静かだった。
数秒。
それから。
「……はい」
短い返事。
真昼はその“はい”の意味を考えた。
今は寝ている。
前より。
生活も整っている。
食事もしている。
それは事実だった。
でも。
その原因が三浦なのが、どうしようもなく気持ち悪い。
真昼はソファへ深く沈み込む。
部屋は暖かかった。
静かだった。
独りじゃない温度だった。
その時。
ふいに、真昼は気づく。
最近。
“怖い”より先に、
“落ち着く”
が来る瞬間が増えている。
真昼は強く目を閉じた。
違う。
これは。
慣れてるだけだ。
そう思おうとする。
だが。
天井の小さな軋みを聞いた瞬間。
胸の奥が少しだけ安心してしまう。
その感覚だけは、もう否定できない気がしていた。




