第11話 邂逅
顔は見ていない。
そこに最後の境界があった。
真昼は息を止めたまま、点検口を少し押し上げる。
ガタ。
冷たい空気。
埃の匂い。
暗闇。
そして。
近い。
思ったよりずっと近い場所で、人の荒い呼吸が聞こえた。
真昼の背筋が凍る。
「……三浦さん」
小さい声。
数秒。
暗闇の奥で、何かが動く。
真昼は目を凝らした。
薄暗い。
だが。
そこに、人がいた。
痩せた男。
狭い梁の間へ身体を丸めている。
髪は伸びていて。
頬がこけていて。
咳のたび、肩が大きく揺れる。
真昼は息を呑んだ。
初めて見た。
三浦を。
人間として。
現実として。
三浦は顔を上げる。
暗闇の中。
目だけがこちらを見る。
その瞬間。
真昼は強い後悔を覚えた。
見なければよかった。
顔を見た瞬間。
“天井裏の何か”ではいられなくなる。
「……すみません」
掠れた声。
咳の合間。
三浦は少し苦しそうに息を吸う。
真昼は言葉が出なかった。
怖い。
近い。
人間の匂いがする。
汗。
湿気。
薬。
古い木材。
全部が混ざっている。
真昼は無意識に一歩下がりかけて、止まった。
三浦が、咳と一緒に小さく身体を丸める。
苦しそうだった。
その姿を見た瞬間。
恐怖と一緒に。
妙な現実感が胸へ落ちてくる。
本当にここで生活していたんだ。
ずっと。
真昼は喉を鳴らした。
「……病院」
声が掠れる。
「行った方が」
三浦は小さく首を振る。
「……平気です」
全然平気じゃなかった。
真昼は点検口の縁を握る。
冷たい。
雨音が、遠くで響いている。
狭い天井裏。
痩せた男。
荒い呼吸。
真昼は気づく。
今。
境界が壊れた。
声だけだった相手へ、顔ができてしまった。
そのことが、ひどく怖かった。
真昼は点検口の前で固まったまま、動けなかった。
雨音。
荒い呼吸。
湿った空気。
全部が、現実だった。
三浦は梁へ身体を預けたまま、小さく咳をする。
ゴホ。
近い。
本当に近い。
真昼は今さら気づく。
今まで、自分は。
“上に誰かいる”
という曖昧さに守られていた。
でも今は違う。
顔がある。
目がある。
息遣いがある。
人間がいる。
真昼はゆっくり視線を逸らした。
怖い。
なのに。
脚立を降りる気にもなれない。
「……熱、あるんじゃないですか」
小さい声。
三浦は少し黙った。
「……あるかもしれません」
掠れた声。
真昼は眉を寄せる。
「なんでそんな普通に……」
言いかけて止まる。
普通じゃないのは、全部だ。
天井裏も。
会話も。
自分も。
三浦は小さく咳をしたあと、少し息を整える。
その姿は、思っていたより年老いて見えた。
五十代。
もっと若いと思っていた。
でも。
近くで見ると、疲れ方が違う。
長い時間、まともに眠っていない人間の顔だった。
真昼は無意識に言う。
「……降りてきますか」
言った瞬間。
自分で血の気が引いた。
三浦も止まる。
静寂。
雨音だけが響く。
真昼は慌てて口を開く。
「いや、違っ……」
違わなかった。
自分でも分かる。
今。
真昼は。
“部屋へ入れる”ことを考えた。
真昼は強く点検口の縁を握る。
冷たい。
三浦はしばらく黙っていた。
やがて。
「……汚れるので」
小さく言った。
真昼は息を止める。
その返答が。
妙に生活の延長みたいで。
ぞっとした。
「……そういう問題じゃないです」
掠れた声。
三浦はまた小さく咳をする。
狭い空間の中。
身体を縮めるみたいに。
真昼は目を閉じた。
多分。
今ここで管理会社へ電話すれば終わる。
全部。
でも。
三浦の顔を見てしまった。
苦しそうな呼吸を聞いてしまった。
それが。
真昼の判断を鈍らせている。
真昼はゆっくり脚立を降りた。
膝が少し震えている。
点検口は開いたままだ。
暗闇が見える。
その向こうに、人がいる。
真昼はキッチンへ向かった。
コップを出す。
冷たい水を入れる。
その動作をしながら、自分で気づく。
完全におかしい。
なのに。
止まれない。
真昼はコップを持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
雨音だけが、静かに部屋へ広がっていく。
冷たい水滴が、指を濡らしている。
何をしているんだろう。
本当に。
天井裏に住み着いている男へ、水を持っていこうとしている。
普通じゃない。
なのに。
放っておけない。
その感覚が、一番気持ち悪かった。
上では、時々咳が聞こえる。
ゴホ。
短い咳。
さっきより少し弱い。
真昼はゆっくり点検口を見上げた。
開いたままの暗闇。
その向こうに、人がいる。
顔を見てしまったせいで。
もう。
ただの“気配”ではいられなくなっている。
真昼は小さく息を吐いた。
脚立へ近づく。
ギシ。
足をかける。
コップの水が少し揺れる。
「……水」
声が小さい。
「置いときます」
返事はない。
だが。
暗闇の奥で、微かに気配が動く。
真昼は目を逸らしそうになる。
怖い。
近い。
でも。
もう見てしまった。
三浦はゆっくり身体を動かし、梁へ手をついた。
咳。
荒い呼吸。
狭い空間。
その全部が、生々しい。
真昼はコップを点検口の縁へ置いた。
数秒。
沈黙。
それから。
三浦の手が伸びる。
昨日までとは違う。
今は、その手の先に顔があることを知っている。
真昼は無意識に息を止めた。
三浦は静かにコップを受け取る。
そして。
少しだけ躊躇ったあと。
「……すみません」
また、それだった。
真昼は顔をしかめる。
「謝ってばっかですね」
言った瞬間、自分で驚く。
少しだけ。
普通の会話みたいだった。
三浦は咳を挟みながら、小さく笑った気がした。
本当に小さく。
空気が動く程度に。
真昼の背筋がぞわりとする。
今。
この人、笑った。
その事実だけで、急に距離が近づいた気がした。
真昼は慌てて点検口を閉じる。
ガタン。
暗闇が消える。
静寂。
真昼は脚立を降りた。
心臓が速い。
怖い。
なのに。
ほんの少しだけ、“安心”に似た感覚も混ざっている。
それがたまらなく嫌だった。
真昼はソファへ座り込む。
開いたままのコンビニ袋。
濡れた床。
雨音。
古いエアコン。
そして。
天井裏の人間。
部屋はもう、完全に二人分の生活音で出来上がり始めていた。
その夜。
真昼は、なかなか眠れなかった。
顔を見てしまった。
三浦の。
暗闇の中。
咳をしながら、小さく身体を丸めていた男。
思い出すたび、胸の奥がざわつく。
怖い。
ちゃんと怖い。
でも。
“化け物”ではなくなってしまった。
真昼は布団の中で目を開ける。
部屋は暗い。
エアコンのランプだけが小さく光っている。
上は静かだった。
たまに、小さく床が鳴るくらい。
真昼はぼんやり天井を見る。
今までは。
天井の向こうに何がいるか分からなかった。
でも今は。
狭い梁の間。
古い毛布。
痩せた肩。
そういうものまで想像できてしまう。
真昼は顔をしかめた。
理解し始めている。
それが嫌だった。
その時。
上で、小さく咳が鳴る。
ゴホ。
真昼は反射的に天井を見る。
少し待つ。
だが。
今日は長引かない。
水を飲んだからだろうか。
そんなことを考えた瞬間、真昼は布団を握りしめた。
「……ほんと最悪」
小さく呟く。
数秒。
沈黙。
それから。
上で、小さく床板が鳴った。
ミシ。
返事みたいだった。
真昼は布団を頭まで被る。
だが。
前みたいに、耳を塞ぐことはしなくなっていた。
むしろ。
完全に音が消える方が落ち着かない。
その感覚に気づき、真昼はゆっくり目を閉じる。
雨音。
冷蔵庫。
天井裏。
全部が混ざる。
そして。
真昼はふと、思ってしまう。
もし今。
三浦がいなくなったら。
この部屋は、どれくらい静かなんだろう。
その想像をした瞬間。
真昼は強く目を開けた。
違う。
駄目だ。
その考え方は。
真昼は寝返りを打つ。
だが。
頭のどこかではもう、
“静かな部屋”
を思い出せなくなり始めていた。




