第10話 ふつう
金曜日。
朝から、空気が重かった。
天気予報は雨。
山形駅前も、通勤の人間がみんな傘を持っている。
真昼は会社のデスクで、ぼんやりスマホを見つめていた。
『19時くらい開始予定!』
同僚のメッセージ。
鍋の写真付き。
真昼は画面を閉じる。
行きたくない。
でも。
行かない理由もない。
最近ずっと断っていた。
今回まで断れば、多分また距離ができる。
それは嫌だった。
普通の人間関係を失いたくない。
真昼は小さく息を吐く。
その瞬間。
ふと考える。
今、自分は。
“普通”を維持するために鍋へ行こうとしている。
なのに。
帰る場所として浮かぶのは、あの部屋だ。
真昼は顔をしかめた。
違う。
あそこは普通じゃない。
天井裏に人がいる部屋だ。
そう思うのに。
最近、自分の感覚が少しずつ鈍っている。
夕方。
外は予報通り雨だった。
会社を出る。
傘を開く。
その瞬間。
ふと、昨日のメモを思い出す。
『金曜日、雨みたいです』
真昼は小さく舌打ちした。
頭に残っている。
些細な会話が。
生活音みたいに。
鍋会は、同僚のアパートだった。
六人ほど集まっている。
テレビ。
笑い声。
スーパーの惣菜。
鍋の湯気。
普通の空気。
真昼は久しぶりに、人の生活音の中にいる気がした。
「佐伯さん、最近死んだみたいな顔してたから心配してたんですよ」
同僚が笑いながら言う。
「してました?」
「してたしてた」
軽い笑い。
真昼も曖昧に笑い返す。
少しだけ安心する。
ここには天井裏がない。
味噌汁もない。
咳もない。
誰かに見られている感じもしない。
普通だ。
本来、自分がいるべき場所。
そのはずだった。
だが。
時間が経つにつれて、妙に落ち着かなくなっていく。
時計を見る。
二十一時十二分。
まだ早い。
普通なら。
でも。
真昼は、部屋の静けさを想像してしまう。
今頃。
三浦は何をしているんだろう。
咳は。
薬飲んだんだろうか。
真昼は箸を止めた。
何を考えている。
本当に。
「佐伯さん?」
同僚の声。
真昼は慌てて顔を上げる。
「あ、ごめん」
「疲れてる?」
「ちょっと」
曖昧に笑う。
その時。
スマホが震えた。
真昼は反射的に画面を見る。
通知。
天気アプリ。
雷雨注意報。
それだけ。
なのに。
一瞬、三浦かと思った。
真昼はスマホを伏せる。
心臓が少し早い。
部屋へ帰りたい。
そう思った瞬間。
真昼は自分でぞっとした。
帰りたい。
あの部屋へ。
天井裏に男がいる部屋へ。
外では、雨音が強くなり始めていた。
鍋会は、二十二時を過ぎても続いていた。
テレビではバラエティ番組が流れている。
鍋の湯気。
笑い声。
缶ビールの音。
全部、普通だった。
真昼も笑っている。
話もしている。
なのに。
頭のどこかだけ、ずっと落ち着かない。
スマホを見る。
二十二時二十七分。
まだ帰るには早い。
普通なら。
真昼はテーブルのコップへ視線を落とした。
帰ったら。
部屋は静かなんだろうか。
三浦は起きているんだろうか。
咳。
天井の音。
味噌汁の匂い。
そんなものを無意識に想像している自分に気づき、真昼は顔をしかめた。
「佐伯さん?」
同僚が覗き込む。
「大丈夫?」
「あ、うん」
「酔った?」
「そうかも」
適当に笑う。
その時。
外で雷が鳴った。
ゴロ、と低い音。
部屋の窓が少し震える。
真昼は反射的に外を見る。
強い雨。
街灯。
濡れた道路。
そして。
ふと。
古いアパートの天井裏を想像してしまう。
暗くて。
暑くて。
湿気がこもって。
雨音が響く空間。
真昼は無意識にスマホを握った。
何してるんだ。
本当に。
その時。
同僚が笑いながら鍋をつつく。
「佐伯さん、最近なんか変だよね」
真昼は肩を震わせた。
「え」
「ぼーっとしてるっていうか」
「疲れてるだけ」
「ちゃんと寝てる?」
真昼は答えに詰まる。
寝ている。
最近は。
前より。
それが嫌だった。
少しして。
同僚の一人が立ち上がる。
「コンビニ行く人ー?」
数人が手を挙げる。
真昼も反射的に立ちかけて、止まった。
帰りたい。
もう。
鍋会は楽しい。
空気も普通だ。
なのに。
身体の感覚だけが、部屋へ戻ろうとしている。
真昼はその違和感を振り払うように席へ座り直した。
だが。
その瞬間。
スマホが震えた。
真昼の心臓が跳ねる。
画面を見る。
また天気通知だった。
『大雨警報』
それだけ。
なのに。
真昼は急に立ち上がった。
「……ごめん、先帰る」
同僚たちが顔を上げる。
「え、もう?」
「明日ちょっと早くて」
「大丈夫? 送ろうか?」
「ううん、平気」
真昼は鞄を掴む。
早く帰りたい。
その感覚だけが強くなっている。
理由は分からない。
いや。
分かりたくなかった。
アパートへ着く頃には、雨はさらに強くなっていた。
真昼は階段を駆け上がる。
二〇三号室。
鍵を差し込む。
その瞬間。
部屋の向こうで、大きめの物音がした。
ガタン。
真昼は止まる。
今までで一番大きい音だった。
静寂。
雨音。
真昼はゆっくり鍵を回す。
ドアを開ける。
部屋は暗かった。
だが。
上から、荒い咳が聞こえる。
ゴホ、ゴホッ。
長い咳。
真昼は靴も脱がず、反射的に天井を見上げた。
「……三浦さん?」
返事はない。
代わりに。
上で、小さく何かが倒れる音がした。
ガタン。
鈍い音。
その直後。
上から、激しい咳。
ゴホ、ゴホッ――。
真昼は動けなかった。
今まで聞いたことがないくらい苦しそうな咳だった。
湿っていて。
息が詰まるみたいな音。
「……三浦さん?」
返事はない。
代わりに。
天井裏で、何かを押さえるような物音。
ガサ。
ミシ。
真昼は靴も脱がないまま部屋へ入った。
雨で濡れた床。
暗い部屋。
上から続く咳。
真昼は反射的に脚立へ手を伸ばしていた。
ガチャ。
広げる。
頭では止めろと思っている。
でも。
身体が先に動く。
「……大丈夫ですか」
返事はない。
咳だけ。
長い。
苦しそうな呼吸音。
真昼は点検口を見上げた。
暗い。
でも。
今、確実に異常が起きている。
真昼は脚立へ足をかける。
ギシ。
点検口へ手を伸ばす。
指先が震える。
開けるのか。
本当に。
今まで。
三浦は“上”だった。
暗闇。
手。
声。
でも。
顔は見ていない。
そこに最後の境界があった。
真昼は息を止めたまま、点検口を少し押し上げる。
ガタ。
冷たい空気。
埃の匂い。
暗闇。
そして。
近い。
思ったよりずっと近い場所で、人の荒い呼吸が聞こえた。
真昼の背筋が凍る。
「……三浦さん」
小さい声。
数秒。
暗闇の奥で、何かが動く。
真昼は目を凝らした。
薄暗い。
だが。
そこに、人がいた。
痩せた男。
狭い梁の間へ身体を丸めている。
髪は伸びていて。
頬がこけていて。
咳のたび、肩が大きく揺れる。
真昼は息を呑んだ。
初めて見た。
三浦を。
人間として。
現実として。
三浦は顔を上げる。
暗闇の中。
目だけがこちらを見る。
その瞬間。
真昼は強い後悔を覚えた。
見なければよかった。
顔を見た瞬間。
“天井裏の何か”ではいられなくなる。




