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第9話 ちゃんとした

 金曜日まで、あと二日。


 真昼は、その予定を何度も考えてしまっていた。


 行くべきか。


 断るべきか。


 たかが同僚の鍋。


 前なら、適当に理由をつけて断っていた。


 疲れるから。


 気を遣うから。


 でも今は。


 “帰る時間が遅くなる”


ことを考えると、妙に落ち着かなかった。


 真昼はデスクで資料を見つめながら、小さく息を吐く。


「佐伯さん、金曜どうする?」


 同僚の女性が椅子を回して聞いてくる。


「来れそう?」


「あー……」


 真昼は少し迷った。


 行く。


 普通の選択だ。


 人付き合い。


 会社。


 生活。


 ちゃんとした側。


「……多分」


「やった。鍋の具材足りないから買い出し付き合って」


 軽い笑い。


 普通の会話。


 真昼も曖昧に笑い返す。


 その瞬間。


 ふと安心する。


 天井も。


 味噌汁も。


 咳もない場所。


 普通の空気。


 真昼はその感覚に、少しだけほっとした。


 帰宅。


 外は薄暗かった。


 真昼は階段を上がりながら、妙に足が重いことに気づく。


 部屋へ近づくほど、胃が重い。


 二〇三号室。


 鍵を開ける。


 静かだった。


 暗い。


 物音もない。


 真昼は少しだけ息を吐く。


 だが。


 靴を脱いだ瞬間。


 上で、小さく床板が鳴った。


 ミシ。


 真昼は無意識に天井を見上げる。


「……いますよね」


 数秒。


 沈黙。


 それから。


「……います」


 低い声。


 小さい。


 真昼は鞄を置いた。


 最近、この確認をしてしまう。


 いるかどうか。


 気配があるかどうか。


 そのことに気づき、真昼は顔をしかめた。


 キッチンへ向かう。


 今日は味噌汁の匂いがしない。


 代わりに。


 テーブルの上へ、小さなメモが置かれていた。


『金曜日、雨みたいです』


 真昼は止まる。


 その横。


 折り畳み傘。


 自分のものだった。


 乾かして、畳み直されている。


 真昼はメモを見つめたまま、小さく息を吐く。


「……見たんですか」


 上は静かだった。


 少しして。


「テレビで」


 真昼は眉を寄せた。


 テレビ。


 そういえば。


 三浦がテレビを見ている気配を感じたことはなかった。


「……テレビあるんですか」


 数秒。


 沈黙。


「……音だけ」


 真昼はしばらく動かなかった。


 天井裏。


 暗い空間。


 音だけ聞いている。


 ニュース。


 天気予報。


 生活音。


 その光景を想像してしまう。


 真昼はすぐ視線を逸らした。


 理解したくない。


 でも。


 少しずつ想像できてしまう。


 それが嫌だった。


 その時。


 上で、小さく咳が鳴る。


 ゴホ。


 真昼は傘を持ったまま止まる。


 数秒。


 沈黙。


「……まだ治ってないんですね」


 上は静かだった。


 やがて。


「……長いので」


 真昼は顔をしかめた。


 その返答が、妙に年寄りくさい。


 だが。


 次の瞬間。


 真昼はふと気づく。


 三浦の年齢を、ちゃんと聞いたことがない。


 でも。


 声。


 咳。


 話し方。


 そういうものから、勝手に“年上”として認識し始めている。


 真昼は急に落ち着かなくなった。


 相手を具体的に想像し始めている。


 それは、多分。


 かなり危ない。


 その夜。


 真昼は、なかなか眠れなかった。


 部屋は静かだった。


 エアコンの風。


 冷蔵庫。


 遠くの車の音。


 それから。


 上に、人がいる気配。


 真昼は布団の中で目を閉じる。


 三浦は五十代くらいなんだろうか。


 痩せていて。


 咳をしていて。


 暗い場所に長くいる人間。


 そこまで考えて、真昼は目を開けた。


 駄目だ。


 想像し始めている。


 相手を。


 人として。


 真昼は寝返りを打った。


 少し前まで。


 三浦は“何か”だった。


 怖い存在。


 異常。


 侵入者。


 でも最近。


 少しずつ輪郭ができ始めている。


 苦い薬が嫌いで。


 暑がって。


 咳をして。


 天気予報を聞いている。


 そういう細部が増えている。


 そのことが、真昼にはひどく危険に思えた。


 その時。


 上で、小さく音がした。


 ミシ。


 真昼は反射的に天井を見る。


 暗い。


 静か。


「……起きてるんですか」


 小さく聞く。


 少し間。


「……はい」


 低い声。


 真昼は目を閉じた。


 最近、このやり取りが自然になりすぎている。


「……眠れないんですか」


 沈黙。


 少しして。


「雨の前なので」


 真昼は眉を寄せた。


 意味が分からない。


「……何ですか、それ」


「古い建物、音変わるので」


 真昼は静かに天井を見る。


 古い木造。


 湿気。


 軋み。


 確かに、雨の前は床や壁の音が違う気がする。


 でも。


 そんなことを気にしながら生活している人間が、天井裏にいる。


 その現実が妙に生々しい。


 少し間。


 真昼はぽつりと聞く。


「……ずっと、そこなんですか」


 聞いた瞬間、後悔した。


 踏み込みすぎた。


 上はしばらく静かだった。


 やがて。


「……落ち着くので」


 短い返事。


 真昼はそれ以上聞かなかった。


 聞けば、多分。


 また少し理解できてしまう。


 それが嫌だった。


 沈黙。


 エアコンの風音。


 その時。


 ふいに、上で大きめの咳が鳴った。


 ゴホ、ゴホッ。


 長い咳。


 真昼は眉を寄せる。


「……病院行った方がいいですよ、本当に」


 少し強めに言う。


 上は静かだった。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


「……佐伯さん」


 真昼は反射的に天井を見る。


「……何ですか」


「金曜日」


 低い声。


 静か。


「……遅くなりますか」


 真昼は止まる。


 また、その話だ。


 部屋の空気が少しだけ重くなる。


「……多分」


 上は静かだった。


 真昼は布団を握る。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


 ミシ。


 小さく床板が鳴る。


 返事なのか。


 違うのか。


 真昼には分からなかった。


 ただ。


 その夜は、いつもより天井の音が多かった。

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