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第8話 これが日常

 翌朝。


 真昼は、妙な音で目を覚ました。


 カタ。


 小さい金属音。


 半分眠ったまま、真昼は天井を見る。


 白い木目。


 薄暗い朝。


 静か。


 もう一度。


 カタ。


 今度はキッチン側だった。


 真昼はゆっくり起き上がる。


 時計。


 六時十二分。


 早い。


 まだ眠い。


 だが。


 音の正体を考えた瞬間、目が覚める。


 三浦だ。


 真昼は布団を押しのけ、キッチンを見る。


 誰もいない。


 その代わり。


 コンロの上で、小鍋が小さく揺れていた。


 真昼は止まる。


 味噌汁。


 湯気。


 朝の匂い。


 その光景に、もう驚ききれない自分がいる。


 それが嫌だった。


 真昼はキッチンへ近づく。


 鍋の横。


 小皿。


 焼いた鮭。


 卵焼き。


 昨夜までなかったはずの食材。


 真昼は冷蔵庫を開ける。


 昨日買った覚えのない卵パック。


 小松菜。


 豆腐。


 少し整えられた庫内。


 真昼は冷蔵庫を閉めた。


 静かな音。


 生活。


 普通の朝食。


 なのに。


 全部がおかしい。


「……勝手に買わないでください」


 掠れた声。


 上は静かだった。


 数秒。


 それから。


「冷蔵庫、空だったので」


 低い声。


 真昼は目を閉じる。


 またそれだ。


 全部。


 生活の理屈で返ってくる。


 食べてない。


 暑い。


 風邪。


 冷蔵庫。


 全部。


 三浦の中では繋がっている。


 真昼は椅子へ座った。


 湯気がゆっくり立ち上る。


 窓の外では、朝の車の音が聞こえ始めていた。


 普通の朝だ。


 世界は普通に動いている。


 この部屋だけがおかしい。


 その時。


 上で、小さく咳が鳴った。


 ゴホ。


 真昼は味噌汁を見る。


 少し迷う。


 それから。


「……鮭、食べるんですか」


 聞いてしまう。


 数秒の沈黙。


「……匂いだけで大丈夫なので」


 真昼は顔をしかめた。


 意味が分からない。


 だが。


 その返答には妙な生活感があった。


 天井裏。


 狭い空間。


 人目を避ける生活。


 そういうものを、一瞬だけ想像してしまう。


 真昼はすぐ味噌汁へ視線を落とした。


 理解したくない。


 でも。


 少しずつ想像してしまう。


 それが一番嫌だった。


 真昼は箸を手に取る。


 そして。


 食べる前に、ふと止まる。


「……これ、毒入ってませんよね」


 小さく言う。


 すると。


 少し間を置いて。


「今日は入れてます」


 真昼は固まった。


 静寂。


 エアコン。


 冷蔵庫。


 そして。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 真昼は数秒止まったあと、ゆっくり天井を見上げた。


「……冗談ですか」


 上は静かだった。


 少しして。


「……はい」


 真昼は箸を置いた。


 頭を抱える。


 初めてだった。


 三浦が、明確に冗談みたいなことを言ったのは。


 怖い。


 なのに。


 少しだけ、人間らしいと思ってしまった自分がいた。


 真昼は箸を置いたまま、しばらく動けなかった。


 頭を抱える。


 天井裏の男に、毒入りと言われた。


 しかも、多分冗談で。


 意味が分からない。


「……笑えないんですけど」


 掠れた声。


 上は静かだった。


 少しして。


「……すみません」


 低い声。


 本当に少し申し訳なさそうで、真昼は余計に疲れる。


 真昼は深く息を吐いた。


 味噌汁の湯気が揺れる。


 鮭の匂い。


 朝の光。


 静かな部屋。


 その全部が、普通の朝食みたいだった。


 真昼はゆっくり鮭をつつく。


 温かい。


 焼きたてだ。


 その事実が妙に生々しい。


 ついさっきまで。


 三浦がここにいた。


 このキッチンに。


 真昼が寝ている間。


 静かに魚を焼いていた。


 その光景を想像した瞬間、急に食欲が消えそうになる。


 なのに。


 腹は減っていた。


 真昼は無言で味噌汁を飲む。


 上は静かだった。


 ただ。


 誰かの気配だけがある。


 真昼はふと気づく。


 最近。


 “誰もいない部屋”を思い出せなくなってきている。


 少し前までは。


 帰宅すれば静かで。


 暗くて。


 冷たい空気だけがあった。


 でも今は。


 物音がする。


 味噌汁の匂いがする。


 誰かの生活音がある。


 真昼は箸を止めた。


 それを。


 少しだけ“安心”だと思いかけている自分がいる。


 真昼は顔をしかめた。


「……ほんと最悪」


 その時。


 スマホが震えた。


 真昼は画面を見る。


 同僚からだった。


『今週金曜、うちで鍋やるんだけど来る?』


 真昼は止まる。


 数秒。


 それから、ゆっくり画面を閉じた。


 人付き合い。


 最近避けていた。


 疲れるから。


 断ろうかと思う。


 その時。


 上で、小さく床板が鳴った。


 ミシ。


 真昼は反射的に天井を見上げる。


「……何ですか」


 少し間。


 それから。


「……人、来るんですか」


 真昼は固まった。


 低い声。


 静かな質問。


 でも。


 今までと何か違う。


 部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。


 真昼はスマホを握り直す。


「……部屋じゃないです」


 気づけば、先に否定していた。


 上は静かだった。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


「……そうですか」


 低い声。


 静かな返事。


 だが。


 そのあと、上から一切音がしなくなった。


 真昼は箸を持ったまま止まる。


 静かだ。


 妙に。


 さっきまであった気配が、急に遠くなる。


 その沈黙に。


 真昼は理由の分からない落ち着かなさを覚え始めていた。


 その日の仕事中。


 真昼は何度もスマホを見てしまった。


 通知は来ていない。


 当然だ。


 三浦は連絡してこない。


 スマホも知らない。


 なのに。


 “静かすぎる”気がしてしまう。


 真昼はキーボードを打つ手を止めた。


 昨夜。


 人が来るんですか、と聞かれた。


 あの時。


 三浦の声は、少しだけ違った。


 責めるわけでもなく。


 怒るわけでもなく。


 ただ。


 部屋の空気だけが変わった。


 真昼は小さく息を吐く。


「佐伯さん?」


 同僚の声。


 真昼は顔を上げた。


「大丈夫? 今日ぼーっとしてない?」


「あ、すみません」


「疲れてるなら金曜無理しなくていいからね」


 鍋。


 真昼は少し止まる。


 行くべきだ。


 普通の人間関係へ戻るためにも。


 なのに。


 部屋へ帰る時間が遅くなることを考えた瞬間、妙な感覚が胸に引っかかる。


 真昼はすぐ顔をしかめた。


 違う。


 帰宅を気にしてるんじゃない。


 ただ。


 最近、部屋が静かじゃないから。


 それだけ。


「……多分行きます」


 自分でも曖昧な返事だった。


 夕方。


 真昼はスーパーへ寄った。


 カゴへ適当に食材を入れる。


 牛乳。


 卵。


 冷凍うどん。


 それから少し迷って、咳止めシロップを手に取る。


 真昼はすぐ棚へ戻した。


「……何やってんだ」


 小さく呟く。


 本当に。


 だが。


 少し考えて、またカゴへ入れてしまう。


 帰宅。


 外はもう暗かった。


 アパートの階段を上がる。


 真昼は無意識に耳を澄ませる。


 静かだ。


 部屋の前。


 鍵を差し込む。


 回す。


 ドアを開ける。


 暗い。


 真昼は少し止まった。


 最近では珍しい。


 味噌汁の匂いもない。


 物音もしない。


 ただ。


 冷たい空気だけがある。


 真昼はゆっくり部屋へ入った。


「……ただいま」


 言ってから、真昼は固まる。


 また自然に言ってしまった。


 返事はない。


 上も静かだった。


 真昼は靴を脱ぎ、部屋を見回す。


 何も変わっていない。


 洗濯物も。


 キッチンも。


 昨日のまま。


 生活感が薄い。


 少し前までは、それが普通だったはずなのに。


 真昼は鞄を置く。


 その時。


 上で、小さく音。


 ミシ。


 真昼は反射的に天井を見る。


 だが。


 そのあと、何も続かない。


 静かだ。


 妙に。


「……三浦さん?」


 気づけば呼んでいた。


 数秒。


 沈黙。


 それから。


「……います」


 低い声。


 小さい。


 真昼は胸の奥が少しだけ緩むのを感じて、すぐ顔をしかめた。


 違う。


 何安心してるんだ。


 真昼は冷蔵庫を開けた。


 中は昨日のまま整っている。


 だが。


 今日は何も増えていない。


 真昼は少し迷ってから、スーパー袋をテーブルへ置いた。


「……咳、まだ治ってないんですよね」


 上は静かだった。


 真昼は袋からシロップを取り出す。


 透明な瓶。


 その小さな生活感が、妙に現実的だった。


「……これ、置いときます」


 言いながら、自分で頭が痛くなる。


 世話している。


 天井裏の男を。


 普通じゃない。


 なのに。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 それが、ありがとうの代わりみたいに聞こえてしまった。


 その夜。


 真昼は、久しぶりに自分でうどんを作った。


 鍋に水を入れる。


 コンロを点ける。


 冷凍うどんを落とす。


 それだけ。


 簡単な夕飯。


 なのに。


 最近では珍しい行動だった。


 真昼は湯気を見つめながら、ふと思う。


 もし三浦がいなかったら。


 今日もコンビニで済ませていた気がする。


 その考えが浮かんだ瞬間、真昼は顔をしかめた。


「……違う」


 誰に向けた否定か分からない。


 上は静かだった。


 だが。


 気配はある。


 うどんを茹でる音。


 換気扇。


 冷蔵庫。


 その全部を、誰かが聞いている。


 真昼は火を止めた。


 器へ移す。


 ネギを切る。


 冷蔵庫から卵を出す。


 少し前まで、自炊なんてほとんどしていなかった。


 真昼は箸を持ったまま止まる。


 生活が、少し戻っている。


 でも。


 その理由が“三浦”なのが気持ち悪い。


 真昼はローテーブルへ座った。


 テレビはつけない。


 静かな部屋。


 うどんの湯気。


 その時。


 上で、小さく咳が鳴った。


 ゴホ。


 真昼は箸を止める。


 少し間。


「……薬、飲みました?」


 聞いてから後悔する。


 もう完全に会話の距離感がおかしい。


 だが。


 上から返ってきた声は静かだった。


「……苦いので」


 真昼は思わず顔を上げる。


「子供ですか」


 数秒。


 沈黙。


 それから。


「……昔から苦手で」


 真昼は箸を持ったまま止まった。


 今の返答。


 少しだけ普通だった。


 生活の中にある、どうでもいい苦手。


 その小さな人間らしさが、逆に怖い。


 真昼はうどんを啜る。


 静かな音。


 しばらく会話はなかった。


 だが。


 沈黙が前ほど苦しくない。


 それが嫌だった。


 食べ終わる。


 器を流しへ持っていく。


 水を流す。


 その時。


 ふいに、上から声。


「……金曜日」


 真昼の手が止まる。


 水音だけが続く。


「……行くんですか」


 低い声。


 静か。


 でも。


 少しだけ硬い。


 真昼はゆっくり蛇口を閉めた。


「……まだ分かりません」


 沈黙。


 上は静かだった。


 真昼は背中へ視線を感じる気がした。


 実際には、天井の上にいるだけなのに。


「……遅くなりますよね」


 真昼は振り返った。


 もちろん誰もいない。


 だが。


 その言葉だけが、妙に部屋へ残る。


「……ただの飲み会です」


 説明する必要なんてないのに、口が勝手に動く。


 上は静かだった。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


 ミシ。


 小さく床板が鳴る。


 返事なのか。


 違うのか。


 真昼にはもう分からなかった。


 ただ。


 部屋の空気だけが、少し重くなった気がした。

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