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第16話 前よりちゃんとしてる

 土曜日。


 真昼は昼過ぎまで寝ていた。


 目を覚ました瞬間。


 最初に確認したのは、天井だった。


 白い木目。


 点検口。


 静か。


 真昼はそこで止まる。


 今。


 無意識に確認した。


 “いるかどうか”を。


 真昼はゆっくり顔を覆った。


「……終わってる」


 掠れた声。


 だが。


 数秒後。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 真昼は目を閉じた。


 安心してしまう。


 本当に。


 身体が先に反応する。


 昼の部屋は明るかった。


 カーテンの隙間から、薄い光が入っている。


 静かな休日。


 少し前まで。


 休日はずっと寝て、コンビニへ行って、また寝るだけだった。


 でも最近。


 部屋へ“誰かの生活”が混ざっている。


 真昼はゆっくり起き上がった。


 キッチンへ向かう。


 味噌汁の匂い。


 小鍋。


 湯気。


 もう、驚かない。


 そのことが怖い。


 真昼は冷蔵庫を開ける。


 その時。


 上から、低い声。


「……今日、休みなので」


 真昼は反射的に天井を見る。


「……はい」


「ちゃんと食べた方がいいです」


 真昼は小さく息を吐く。


 最近。


 三浦の言葉が、

“生活の一部”

として馴染み始めている。


 それが嫌だった。


 だが。


 完全には拒否できない。


 真昼は味噌汁を器へよそう。


 湯気。


 出汁の匂い。


 静かな朝。


 三浦は、そこにいる。


 しかも。


 その観察が、あまりにも自然に会話へ混ざる。


 まるで。


 家族と話しているみたいに。


 真昼はゆっくり視線を落とした。


「……普通、言わないですよ」


 掠れた声。


 上は静かだった。


 数秒。


「……すみません」


 真昼は味噌汁を飲む。


 暖かい。


 その温度が、妙に身体へ馴染む。


 その時。


 外で、子供の笑い声が聞こえた。


 休日の住宅街。


 普通の生活音。


 真昼はふと気づく。


 この部屋も、外から見れば普通の一室なんだ。


 でも。


 天井裏には人がいる。


 静かに。


 ずっと。


 その現実だけが、生活の奥へ沈んでいる。


 真昼はゆっくり天井を見る。


 怖い。


 なのに。


 もう、

“いない状態”

を想像しづらくなり始めていた。


 午後。


 真昼は、久しぶりに部屋の掃除をしていた。


 掃除機。


 床。


 散らかっていたコード類。


 少し前まで放置していたものを、一つずつ片付けていく。


 静かな休日だった。


 窓の外では、子供の声が聞こえる。


 古い住宅街。


 春の終わりの空気。


 真昼は床へ座り込み、小さく息を吐いた。


 部屋が綺麗になっている。


 それが、最近では当たり前になり始めていた。


 その時。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


「……うるさかったですか」


 少し間。


「……大丈夫です」


 低い声。


 真昼は掃除機のコードをまとめながら、ぼんやり天井を見る。


 最近。


 三浦が“上にいる”感覚が、妙に自然になっている。


 生活音の一部みたいに。


 その時。


 真昼はふと、部屋の隅を見る。


 段ボール。


 引っ越しの時から、ずっと開けていない箱。


 東京の荷物。


 本。


 冬服。


 雑多なもの。


 真昼はしばらくそれを見つめた。


 少し前まで。


 “仮住まい”

の感覚だった。


 どうせまた東京へ戻る。


 だから最低限でいい。


 そう思っていた。


 でも今。


 部屋へ少しずつ生活が根を張り始めている。


 真昼は段ボールへ近づいた。


 ガムテープを剥がす。


 その瞬間。


 上で、小さく音。


 ミシ。


 真昼は反射的に天井を見る。


「……何ですか」


 少し間。


「……帰るんですか」


 真昼は止まった。


 低い声。


 静かな質問。


 だが。


 部屋の空気だけが少し重い。


「……まだ分からないです」


 真昼は箱を見つめたまま答える。


 上は静かだった。


 数秒。


 長い沈黙。


 それから。


「……開けてなかったので」


 真昼は何も言えなかった。


 三浦は知っている。


 段ボールをずっと開けていなかったことを。


 生活の停滞を。


 この部屋へ根を下ろしていなかったことを。


 そして。


 今、開けたことも。


 真昼はゆっくり箱の中を見る。


 古いマグカップ。


 東京で使っていた毛布。


 写真。


 生活の残り香。


 真昼は、その中の一枚を手に取った。


 大学時代の写真だった。


 人が多い。


 笑っている。


 今よりずっと普通の顔。


 真昼はぼんやり見つめる。


 その時。


 上で、小さく咳。


 ゴホ。


 真昼は反射的に天井を見る。


 そして。


 もうその反応が、完全に自然になっていることへ気づく。


 怖い。


 なのに。


 部屋が静かすぎる方が、もう少し怖い。


 真昼は写真を箱へ戻し、ゆっくり蓋を閉じた。


 ガタン。


 その音だけが、静かな部屋へ響いた。


 夜。


 真昼は、珍しく長く風呂へ入っていた。


 湯気。


 狭い浴室。


 換気扇の音。


 目を閉じると、少しだけ頭が軽くなる。


 最近。


 考えることが多すぎた。


 異動。


 三浦。


 東京。


 この部屋。


 真昼は浴槽へ身体を沈めたまま、小さく息を吐く。


 その時。


 ふと気づく。


 最近、

“風呂が沸いている”

ことへ慣れすぎている。


 少し前まで。


 疲れるとシャワーだけだった。


 酷い時は入らない日もあった。


 でも今は。


 湯がある。


 暖かい。


 生活が回っている。


 その理由を考えた瞬間、真昼は目を閉じた。


 駄目だ。


 本当に。


 風呂から出る。


 髪を拭く。


 リビングは少し暗かった。


 天井は静か。


 だが。


 気配だけはある。


 真昼はソファへ座り、ぼんやりスマホを見る。


 母親から、また通知。


『東京戻れるなら安心だね』


 真昼は返信しなかった。


 安心。


 その言葉が、妙に遠い。


 その時。


 上で、小さく床板が鳴る。


 ミシ。


 真昼は反射的に天井を見る。


「……起きてるんですか」


 少し間。


「……はい」


 低い声。


 最近。


 夜の会話が増えている。


 静かな部屋。


 小さい声。


 まるで。


 隣の部屋と話しているみたいに。


 真昼は視線を落とした。


「……東京戻った方がいいと思います?」


 聞いた瞬間、自分で止まる。


 何を聞いてるんだ。


 本当に。


 上は静かだった。


 長い沈黙。


 それから。


「……佐伯さん、前よりちゃんとしてるので」


 真昼はゆっくり天井を見る。


「……それ、前も言いましたよね」


「……はい」


 静かな返事。


 真昼は膝を抱えた。


「……でも、それ三浦さんのせいじゃないですか」


 言ってから、部屋が少し静かになる。


 冷蔵庫。


 外の車。


 遠くの犬の声。


 その全部の中で。


 三浦はしばらく何も言わなかった。


 やがて。


「……すみません」


 低い声。


 真昼は目を閉じる。


 また謝る。


 でも。


 否定はしない。


 真昼はソファへ身体を預けた。


 天井の向こう。


 人がいる。


 生活がある。


 静かな呼吸。


 小さい物音。


 それが、もう完全に部屋へ馴染み始めている。


 真昼はふと気づく。


 最近。


 帰宅して最初に確認するのは、

部屋の電気でも、

スマホでもない。


 天井の気配だ。


 いるか。


 静かか。


 咳をしているか。


 その確認が、

もう“帰宅”の一部になっている。


 真昼はゆっくり顔を覆った。


 怖い。


 なのに。


 その感覚を失う想像が、

少しずつできなくなっていた。

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