第二百四十九話 二つの帰還先
第249話 二つの帰還先
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
「自分で、帰る場所を決める」
ユナの言葉が、青い治癒光の中へ広がった。
寝台の下から剥がれ落ちた黒い影は、床の端で細く震えている。
先ほどまでのように、ユナの指先や選択反応へ近づくことはできない。
reの白い線が、ユナと黒い影の間に残っていた。
セラの案内式も、その周囲を静かに囲んでいる。
リオは寝台の横に立ったまま、ユナを見つめた。
「姉さん」
ユナはゆっくりと目を動かす。
まだ意識は完全には戻っていない。
それでも、リオの姿を見失ってはいなかった。
「涼……」
「うん」
リオの声が少しだけ震える。
「俺だ」
ユナは短く息を吐いた。
「迎えに……来たの?」
「ああ」
「また、無理した?」
リオは一瞬、言葉に詰まった。
サキが小さく笑う。
「少しだけじゃないと思います」
「サキ」
リオが振り返る。
「本当のことだろ」
ハレルが言うと、リオは何も返せなかった。
ユナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その反応を確認してから、匠が白い壁の向こうで言った。
「時間がない」
ハレルたちの表情が戻る。
床の端へ押し出された黒い影は消えていない。
白峰やCも、まだ補助層の外側からこちらを観測している。
選択から影を剥がしただけだ。
帰還が成功したわけではない。
匠はユナを見る。
「一ノ瀬ユナ」
ユナの目が、白い壁の向こうへ向く。
「今から、帰還先を自分の言葉で確認する」
リオが説明しようとする。
だが、匠が手で止めた。
「答えを教えるな」
「でも、姉さんは現実側の部屋を見てない」
「場所の情報は伝えていい」
「ただし、帰ると決める言葉は本人に言わせる」
リオは頷いた。
ハレルが主鍵へ手を添える。
「現実側では、帰還した学園の校舎一階に、
ユナさんを受け入れるための医療室を作ってあります」
「そこには日下部さん、佐伯さん、村瀬さんが待っています」
サキも続ける。
「昔の家じゃありません」
「記憶の中の部屋でもありません」
「今、現実にある新しい治療室です」
ユナは静かに聞いていた。
すぐには答えない。
言葉の意味を一つずつ確かめるように、視線を動かす。
「そこへ戻れば……」
声は弱い。
「涼も、来る?」
リオは頷いた。
「俺も戻る」
「でも、姉さんと同じ門を同時に通るわけじゃない」
「姉さんを先に安全な場所へ送る」
「置いていかない?」
「置いていかない」
リオははっきり答えた。
「今度は絶対に」
ユナは目を閉じた。
短い沈黙。
やがて、もう一度目を開く。
「私は」
青い反応が、ユナの胸元へ集まる。
「現実にある、新しい治療室へ戻る」
黒い影が揺れた。
だが、ユナの選択には触れられない。
「昔の部屋じゃなくていい」
ユナは続ける。
「今の私を待っている人がいる場所へ、戻る」
青い光が強くなった。
ノノの声が通信から響く。
『本人選択、確定!』
『帰還先と選択反応が繋がった!』
匠は短く頷いた。
「帰還を始める」
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】
何も書かれていなかった白紙の上に、青い光が浮かんだ。
日下部が端末を見る。
「来ました」
佐伯と村瀬が寝台の左右へ立つ。
白紙の中央へ、文字が一つずつ現れる。
《一ノ瀬ユナ》
《本人選択確認》
《帰還先接続開始》
村瀬が息を呑む。
「ユナさんが選んだ」
「はい」
日下部は隔離端末の数値を確認する。
異世界側の医療棟。
現実側の臨時医療受け入れ室。
二つの場所を繋ぐ白い線が表示された。
佐伯は呼吸器と心拍測定機を起動する。
「身体が出た瞬間から測定を始めます」
村瀬は寝台の枕元へ、名前を書いた紙を置く。
『一ノ瀬ユナ』
その下には、現在の場所。
『現実世界・帰還した学園・臨時医療受け入れ室』
「記憶を急に聞き出さない」
村瀬が確認する。
「名前と現在位置だけを伝えます」
日下部は頷いた。
「Cの影が一緒に来ていないかも確認してください」
「分かっています」
日下部は城ヶ峰へ短い報告を送った。
『一ノ瀬ユナ、本人選択確定。帰還開始。』
返信はすぐに届く。
『受信。異常があれば即時中断しろ。』
その直後。
日下部の端末に、もう一本の線が現れた。
「……何だ」
本物の帰還線と、ほとんど同じ位置。
同じ太さ。
同じ反応。
二本目の帰還線が、臨時医療受け入れ室へ向かって伸びている。
佐伯が画面を見る。
「補助線ですか」
「違います」
日下部の表情が変わる。
「帰還先が、二つあります」
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cは、ユナの選択が確定した瞬間を観測していた。
「本人選択を確認しました」
ジャバが不満そうに言う。
「影を剥がされたじゃねえか」
「はい」
Cの声に焦りはない。
「選択への直接干渉は困難になりました」
白峰律は、現実側へ伸びた一本の帰還線を見る。
「なら、選択には触れなくていい」
オルガが白峰を見る。
「帰還先を複製するのか」
「そうだ」
白峰は穏やかに答えた。
「本人は現実側の医療室へ戻ると決めた」
「なら、同じ医療室をもう一つ作ればいい」
ヴァルドが深層の境界へ手を置く。
低い光が広がる。
現実側の臨時医療受け入れ室。
白い壁。
寝台。
医療機器。
壁に貼られた場所の表示。
日下部。
佐伯。
村瀬。
観測された情報が、一つずつ別の層へ複製されていく。
本物とほとんど同じ部屋。
ただし、現実世界には存在しない。
深層の中に作られた、偽の受け入れ室。
オルガが反応を確認する。
「場所の名称は一致」
ヴァルドも言う。
「結界の形も合わせた」
Cが二本の帰還線を重ねる。
「帰還対象から見た差異を縮小します」
ジャバが笑った。
「どっちへ行っても、同じに見えるってことか」
カシウスは二つの部屋を見た。
「本物を消す必要はない」
「偽物を、本物と同じにしろ」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
ユナの身体を包む青い光が、足元から少しずつ強くなっていた。
まだ身体は消えていない。
だが、現実側との接続は始まっている。
その時、ノノが叫んだ。
『止めて!』
『帰還先が二つに増えた!』
匠の表情が変わる。
「律か」
白い壁の中に、二つの部屋が映った。
どちらも同じだった。
同じ白い壁。
同じ寝台。
同じ医療機器。
日下部、佐伯、村瀬が待っている。
壁の表示も一致している。
『現実世界』
『帰還した学園』
『臨時医療受け入れ室』
リオが二つの映像を見る。
「どっちが本物だ」
ノノが分析する。
『座標も同じに見える』
『名前反応も、場所の表示も同じ』
『観測した情報を丸ごと複製してる!』
ハレルは主鍵で二本の線を確認した。
どちらも現実側へ向かっているように感じる。
熱もある。
反応もある。
「主鍵でも分からない」
「当然だ」
匠は二つの帰還先を見る。
「律は、場所の情報を同じにした」
「観測した事実だけでは見分けられない」
黒い影が床の端で大きくなる。
ユナの選択へは入れない。
だが、選択した先を二つに増やすことはできる。
白峰の声が壁の向こうから届く。
『君は本人に選ばせた』
『私は、その選択を尊重している』
リオが怒鳴る。
「何が尊重だ!」
『一ノ瀬ユナは医療室へ戻ると決めた』
『どちらも医療室だ』
匠は低く言う。
「片方は存在しない」
『本人が本物だと信じれば、存在する』
白峰の言葉に、二本の帰還線がさらに近づいた。
ユナの青い光が、二つの方向へ引かれ始める。
イデールが治癒結界を強めた。
「身体反応が分かれてる!」
「まだ通すな!」
匠が叫ぶ。
ノノは二つの部屋を何度も比較する。
「違いがない……」
同じ場所。
同じ人物。
同じ表示。
同じ機器。
だが、セラは黙って映像を見ていた。
その横で、reの白い光が一度だけ揺れる。
二つの帰還線の前へ移動する。
一つ目。
reは近づいた。
二つ目。
近づこうとせず、大きく避ける。
サキが気づく。
「reには分かる」
セラも頷いた。
「はい」
「何が違うの?」
セラは二つの部屋の意味を読む。
本物の受け入れ室。
そこには、現在位置とユナの名前だけがある。
何を選べとも書かれていない。
帰還後に何が起きるかも、まだ決まっていない。
だが、偽の部屋。
見た目は同じ。
その奥に、一つだけ先に決められた意味があった。
「偽物には」
セラが言う。
「帰還が成功した、という結果が先に書かれています」
ハレルが映像を見る。
「どういうことだ」
「本物の部屋では、まだ誰もユナさんを受け入れていません」
「帰還していないからです」
セラは偽の部屋を指す。
「ですが、こちらではすでに全員が、帰還したユナさんを迎えようとしています」
よく見る。
偽の日下部。
偽の佐伯。
偽の村瀬。
三人とも、寝台を見ている。
まだ誰も戻っていないはずなのに。
その表情には、すでに安堵が浮かんでいた。
壁の一部にも、小さな文字があった。
『帰還完了』
サキが息を呑む。
「まだ帰ってないのに」
「はい」
セラは静かに言う。
「偽物は、答えを先に用意してしまう」
エリウスの道とは違う。
本人が到着する前に、結果を決めている。
ユナも二つの映像を見ていた。
視線は弱い。
それでも、偽の部屋にある文字を見つける。
「……おかしい」
リオがユナを見る。
「姉さん?」
「私は、まだ帰ってない」
ユナはゆっくりと言葉を続ける。
「なのに、帰ってきたことになってる」
偽の帰還線が揺れた。
「私が戻る前から、私を待っている形が決まってる」
ユナは本物の受け入れ室を見る。
そこには白紙がある。
まだ何も書かれていない場所。
日下部たちは、不安そうに帰還線を見ている。
成功したとは思っていない。
失敗の可能性も含め、ユナが来るのを待っている。
「私は」
ユナの指が本物の線へ伸びる。
「まだ決まっていない方へ行く」
reの白い光が、本物の帰還線へ重なった。
セラの案内式も続く。
匠が叫ぶ。
「現実側、偽の線を拒否しろ!」
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】
日下部の端末に、セラから判別情報が届いた。
《結果が先に存在する線を拒否》
《帰還完了の記録を持つ地点は偽物》
日下部は二本目の線を確認する。
確かに、偽の線にはすでに終了記録が存在していた。
帰還時刻。
受け入れ完了。
容体安定。
まだ起きていない結果。
「見つけました」
日下部が隔離端末へ手を置く。
「この場所では、帰還はまだ完了していない」
佐伯も続ける。
「一ノ瀬ユナの身体は、まだここにない」
村瀬は白紙を掲げた。
「結果は、本人が戻ってきた後に記録します」
三人の言葉が重なる。
「先に書かれた帰還を拒否する」
二本目の線が黒く変わった。
床の白い結界が、偽の帰還線を押し出す。
日下部は城ヶ峰へ緊急報告を送る。
『偽の帰還地点を確認。現在拒否処理中。』
その瞬間。
本物の帰還線だけが、強く白く光った。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
ユナの身体を包む青い光が、一つの方向へ揃った。
本物の帰還線。
現実側の臨時医療受け入れ室。
匠が補助層を固定する。
ハレルの主鍵が現在位置を支える。
リオの副鍵が、ユナと現実側を繋ぐ。
セラが道の意味を読む。
reが、黒い針のない場所へ白い線を通す。
イデールはユナの身体を治癒光で包んだ。
「身体反応、安定!」
ノノが叫ぶ。
『帰還線、一本に戻った!』
『今なら通せる!』
匠がユナを見る。
「一ノ瀬ユナ」
「今度こそ、自分で選べ」
ユナはリオを見た。
「涼」
「向こうで待ってる」
リオは答えた。
「すぐ行く」
ユナは小さく頷く。
そして、本物の白い線へ手を伸ばした。
「現実へ帰る」
その言葉と同時に。
ユナの足元から、身体が青い光へ変わり始めた。




