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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百四十八話 残された案内人

第248話 残された案内人



【異世界・王都イルダ/分析室・昼】


「私だけは覚えていました」


セラが顔を上げる。


その言葉と同時に、分析室を囲んでいた灰色の結界へ、さらに大きな亀裂が走った。


《該当人物なし》


《研究者記録なし》


《存在確認不能》


壁を流れていた文字が、一つずつ崩れていく。


代わりに、水晶板の中央へ一つの名前が浮かんだ。


《エリウス》


もう薄くならない。

ハレルたちが覚えている。

日下部たちが現実側で記録している。

匠も、ノノも、リオも、サキも、その名を聞いた。


一人の記憶の中だけにあった名前が、複数の場所へ広がった。


匠の声が通信から届く。

『これで、同じ方法では消せない』


ノノが聞く。

「名前を固定できたの?」


『完全ではない』

『だが、少なくとも“最初から存在しなかった”状態には戻せない』


セラは水晶板に浮かぶ名前を見つめていた。

長い間、自分一人だけが守ってきた名前。

誰かに話せば、また消されるかもしれない。

自分まで見つかるかもしれない。

そう思い、ずっと閉じ込めてきた。


「エリウス」


セラは、もう一度その名を呼んだ。


「あなたがいたことを、今度は私だけで覚える必要はありません」


灰色の壁が砕け、光の粒へ変わった。


だが、深層からの視線は消えていなかった。


◆ ◆ ◆


【どこでもない層/深層】


オルガ・セフィロは、崩れた封鎖結界を見ていた。


冷静な表情は変わらない。

しかし、その周囲を流れる灰色の文字は、以前より速く動いていた。


「記録が拡散した」


ヴァルドが低く言う。

「現実側も保持している」


「分かっている」

オルガは短く答えた。


ジャバは意味が分からないというように鼻を鳴らす。

「名前一つ残ったくらいで、何が変わる」


白峰律が答えた。

「名前が残れば、場所を探せる」

「場所が残れば、そこで起きたことを調べられる」

「記録を消しても、空白そのものが証拠になる」


白峰は穏やかな表情で、セラの証言を見ていた。


オルガが白峰を見る。

「楽しんでいるのか」


「興味深いだけだ」


「エリウスの研究が戻れば、門の構造も知られる」


「すでに匠は知っている」

白峰は言った。

「日下部たちも、一部を読み始めている」


カシウスはセラの周囲に残る案内式を観測していた。

「続けさせろ」


オルガの目が冷たくなる。

「これ以上、何を確認する」


「セラがどこまでエリウスの研究を受け継いだか」

カシウスはユナの寝台の下にある黒い影を見る。

「それが分かれば、次に何を壊せばいいか分かる」


オルガは答えなかった。


ヴァルドは深層の境界へ手を触れる。

「案内式だけなら、閉じられる」


白峰が静かに言った。


「エリウスが作ったものが、案内式だけならな」


◆ ◆ ◆


【異世界・エリウスの結界層/過去】


エリウスが戻らなくなったあと、セラは一人で待ち続けた。


時間の流れは分からない。

朝も夜もない。

エリウスが来ることで、一日が始まっていた場所。

そのエリウスが来ない。


《エリウス》


呼んでも返事はなかった。


外から、何度も偽の声が聞こえた。


『セラ』


『もう安全だ』


『戻っておいで』


声はエリウスと同じだった。

話し方も似ていた。


だが、案内標識は赤く光っている。


偽の声。


戻れない道。


セラは返事をしなかった。


エリウスが最後に残した白い標識だけを頼りに、結界層の奥へ進んだ。


その途中。


外側の研究室が見えた。

直接見ているわけではない。

結界層へ流れ込む記録や術式の動きから、そこで起きていることが伝わってきた。


オルガがエリウスの資料を読み取っている。


ヴァルドが壁の結界術式を外している。


一枚ずつ。


一層ずつ。


エリウスが作った研究が、別の形へ変えられていった。


《名前固定》


《意識保存》


《道の意味》


《選択の空白》


その中から、オルガは必要なものを選び出した。


人を分析するための記録。

名前と場所の反応。

記憶がどの道へ引かれるのか。

誰がどの入口に反応するのか。


エリウスが患者を安全に戻すために使っていたものが、

転移対象を選別するための技術へ変わっていく。


ヴァルドは、結界層の構造を作り替えた。


意識を守るための閉じた層。

それを、人を別の場所へ通すための中間層へ。

戻れない道を示す標識。

それを、戻れない道でも通過させるための固定術へ。


「二人は、エリウスの研究をそのまま使ったわけではありません」


現在のセラの声が、過去の景色へ重なる。


「必要な部分だけを抜き取り、自分たちの目的に合うように作り替えました」


エリウスの名前は消された。

術式の作成者名も変えられた。

研究室の記録も書き換えられた。


やがて王都では、オルガが新しい分析術を作ったことになった。


ヴァルドが新しい境界結界を完成させたことになった。


エリウスという研究者は、どこにもいなくなった。


セラだけを除いて。


◆ ◆ ◆


セラは、結界層の奥で学び続けた。


エリウスが残した本。

記録。

術式。

案内標識。

外から流れ込む王都の情報。


身体がないセラには、食事も睡眠も必要なかった。


最初は読むだけだった。

次に、意味を理解した。


やがて、結界層の中に流れ込む情報を、自分で整理できるようになった。


町の名前。

人の名前。

結界の位置。

治療所へ運ばれる患者の意識反応。

王都の地下を通る古い魔力線。


セラは、知らないうちに多くの情報を吸収していた。


ある時。

結界層の外を、小さな意識反応が通った。

戦いで傷ついた少年だった。

身体は王都の治療所にある。

だが、意識は恐怖の記憶に引かれ、戦場の方角へ戻ろうとしていた。


治療術師たちは気づいていない。

このままでは、身体が助かっても意識が戻れない。


セラは迷った。


エリウスはいない。

命令してくれる人もいない。

自分が動いていいのか分からない。


その時、エリウスの言葉を思い出した。


――案内人は、命令する者ではない。


――その人が自分で決められる場所まで、道を残す者だ。


セラは、少年の前へ二つの標識を置いた。


一つは戦場へ戻る道。

そこには、死んだ仲間の声がある。


もう一つは治療所へ戻る道。

そこには、少年の名前を呼び続ける母親の声があった。


セラは、どちらへ行けとも言わなかった。

ただ、戦場へ戻れば身体へは帰れないことを示した。


少年の意識はしばらく迷った。


それから、母親の声がする方へ進んだ。


治療所。

身体。

現在の名前。


少年の意識が戻る。


その瞬間、セラの周囲に新しい道が開いた。


結界層の外へ、情報として動くための細い道。


「それが、私が初めて自分の意思で誰かを案内した時でした」


セラは言った。


「エリウスに命令されたからではありません」


「私が、自分で助けたいと思ったからです」


それ以降、セラは王都の情報層を動くようになった。


姿を持たず。

名前だけを残し。

迷った意識に道を示す。


王都の分析官たちは、原因の分からない補助反応としてセラの動きを記録した。


誰かが安全な道を示している。

だが、誰がしているのかは分からない。

やがて、その反応に仮の名称がついた。


案内反応。


そしてセラは、自分を案内人と呼ぶようになった。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/分析室・現在】


セラは話を終え、水晶板へ手を置いた。


ノノはしばらく何も言えなかった。

「エリウスが役目をつけたんじゃないんだね」


「はい」

セラは頷いた。

「道を見る方法は教えてくれました」

「ですが、案内人になると決めたのは私です」


サキのスマホで、reが小さく光った。


セラはその光を見る。

「この光も、誰かに与えられた役目だけで動いているようには見えません」


reは答えない。

ただ、一度だけ明るくなる。


セラはそれ以上、何も言わなかった。

何者なのか。

どこから来たのか。

分からないまま。

今は、同じ道を見ている存在として扱うだけだった。


匠の声が通信に入る。

『ノノ、エリウスの案内式と、Cの補正構造を重ねられるか』


ノノは水晶板を切り替える。

「やってみる」


二つの構造が表示された。


エリウスの案内式。

Cの座標補正。


似ている。


名前。

場所。

記憶。

帰還先。


だが、一か所だけ大きく違った。


ノノが気づく。

「ここ……」


エリウスの案内式には、何も書かれていない空白がある。

本人が最後に選択するための場所。


一方、Cの補正構造では、その空白がすべて黒い文字で埋められていた。


帰る。

残る。

別の器へ入る。

記憶の場所へ戻る。


どの答えも、Cが先に用意している。


「Cには、本人が自分で答えを作る場所がない」

ノノが言う。


セラは頷いた。

「エリウスは、そこを必ず空けていました」

「案内人にも、治療術師にも、観測者にも触れさせなかった」


匠が続ける。

『そこが違いだ』

『白峰とCの門は、最後の答えまで設計者が決める』

『エリウスの道は、最後だけ本人へ返す』


リオはユナの寝台を見る。

「その空白を、姉さんの周りに作ればいいのか」


『そうだ』

匠は答えた。

『だが、空白を作るだけではCがすぐに埋める』


ハレルが聞く。

「どうやって守る」


セラはreの白い線を見る。


「案内人が二人必要です」


「二人?」

サキが聞く。


「私は、道に残った意味を読みます」

セラは言った。

「reは、予測されていない道を見つけます」


「私が危険な意味を止め、reがまだ何も書かれていない場所へ線を引く」


匠が続ける。

『ハレルが主鍵で現在位置を固定する』

『リオが、ユナへ答えを与えずに呼びかける』

『現実側は、受け入れ室に選択の空白を作る』


手順が繋がっていく。


日下部の声が現実側から入る。

『聞こえています』

『こちらで空白領域を作ります』


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


日下部は壁に貼られていた表示の一部を外した。


『一ノ瀬ユナを治療する場所』


現在の場所を示す言葉は残す。


だが、ユナがここで何を選ぶべきかは書かない。


佐伯が聞く。

「帰ると書かなくていいんですか」


「書いてはいけません」

日下部は答えた。

「私たちが先に答えを置けば、Cの選択肢と同じになります」


村瀬は新しい紙を一枚、寝台の横へ置いた。


何も書かれていない白紙。


「これが空白?」


「はい」


「ユナさんが戻ると決めた時、初めて意味を持つ場所です」


床の白い線が、白紙を囲むように広がる。


日下部は城ヶ峰へ報告を送った。

『ユナ帰還の最終準備へ移行。』

『本人選択用の空白領域を作成。』

『異常があれば即時連絡する。』


城ヶ峰から返事が届く。


『受信。』

『こちらでも回線を監視する。』


佐伯と村瀬は、帰還用の寝台の左右へ立った。


日下部は隔離端末へ手を置く。


三人とも、ユナへ何を選べとも言わない。


ただ、戻ってきた時に受け止めるため、そこで待った。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


セラの案内式が広がった。


reの白い線が、その中央へ入る。


道は大きく曲がりながら、ユナの選択反応へ近づいた。


セラが意味を読む。

「自宅の記憶ではありません」


一つ目の道を通る。


「クロスゲート社の記録でもありません」


二つ目の道を避ける。


「リオを守るために残るという答えでもありません」


黒い文字が一つ消える。


reの白い線が、何もない場所へ届いた。


言葉がない。

記憶もない。

帰るとも、残るとも書かれていない。


空白。


匠が白い壁の向こうから、その場所を固定する。

「今だ」


ハレルは主鍵を握った。

「一ノ瀬ユナ」

「今、王都イルダ医療棟にいる」

「身体と意識は、ここにある」


リオはユナの手へ触れないまま、そばに立った。

「姉さん」


ユナのまぶたが動く。


「俺は、姉さんの答えを決めない」


黒い影が激しく揺れた。


「帰れとも、残れとも言わない」


リオの声は震えていた。

それでも、言葉を続ける。


「姉さんが、自分で決めてくれ」


ユナの指が持ち上がる。


reの白い線に触れる。


青い光が、空白の中心へ流れ込んだ。


寝台の下の黒い影が、ユナの身体から離れ始める。


ノノが叫ぶ。

『分離反応!』

『選択と影が離れてる!』


白い壁の向こうで、匠が補助層を支える。


セラは道の意味を読み続ける。


「そのまま」

「まだ、何も選ばなくていい」


ユナのまぶたが、ゆっくり開いた。


視線はまだ弱い。


だが、リオを見ていた。


「……涼」


「姉さん」


ユナの唇が動く。


「私は……」


黒い影が最後の一本を伸ばした。

空白を埋めるための黒い文字。


だが、その前へreの白い光が入る。


黒い文字が止まった。


ユナは、誰にも用意されていない言葉を口にした。


「自分で、帰る場所を決める」


青い光が治療室全体へ広がった。


黒い影が、ユナの選択から完全に剥がれ落ちた。


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