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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百五十話 一ノ瀬ユナの帰還

第250話 一ノ瀬ユナの帰還



【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


「現実へ帰る」


ユナがそう告げた瞬間、足元から青い光が立ち上がった。


光はユナの身体を隠すのではなく、

輪郭を一つずつ細かな粒へ変えていく。

足先、脚、腰。寝台に触れていた身体が、

現実側へ続く白い線の中へ静かに溶け始めた。


リオは伸ばしかけた手を止めた。


触れれば帰還線を乱す可能性がある。

分かっていても、目の前から姉の身体が消えていく光景を、

ただ見ているのは苦しかった。


「姉さん。向こうで会おう」


ユナはかすかに頷いた。

「涼も……帰ってきて」


「ああ。必ず」


イデールは治癒結界を保ちながら、ユナの身体反応を確認している。

「呼吸、安定しています。身体と意識の繋がりも維持されています」


ノノの声がイヤーカフから届く。

『異世界側の身体情報、七割通過』

『現実側の受け入れ室へ反応が出てる!』


匠は白い壁の向こうで、三本の補助線を支えていた。


一本目はユナの身体。


二本目は名前と記憶。


三本目は、ユナ自身が選んだ意思。


「三つを離すな」


ハレルは主鍵を握った。

「一ノ瀬ユナ」

「王都イルダ医療棟から、現実世界へ帰還中」

「身体、名前、現在の選択を同時に固定する」


主鍵の白い光が、三本の線を外側から囲む。


リオの副鍵は、ユナの名前へ繋がっていた。

サキのスマホから伸びるreの白い線は、

黒い針が近づけないよう、帰還線の周囲を絶えず動いている。


セラは道の意味を読み続けた。


『前方に記憶層があります』

『自宅ではありません。クロスゲート社で働いていた時の記録です』

『re、左へ避けてください』


reの光が曲がる。


ユナの青い反応も、それに従って記憶層を避けた。


帰還は進んでいる。


だが、寝台の下から剥がれ落ちた黒い影は、まだ消えていなかった。


影は床に広がったまま、青い光の動きを見ていた。


◆ ◆ ◆


【どこでもない層/深層】


Cは、ユナの身体が帰還線へ入る様子を観測していた。


「身体情報、七十二パーセント移動」


「名前反応、六十八パーセント」


「本人選択、六十一パーセント」


ジャバが腕を組む。

「このまま行かせんのか」


「帰還そのものを停止する必要はありません」

Cは淡々と答えた。


白峰律が二本の帰還構造を見比べる。


匠が作った安全な門。


自分たちが使ってきたクロスワールドゲート。


「匠は三つを同時に戻そうとしている」


オルガが言う。

「身体、名前、本人の現在選択」

「一つでも遅れれば、帰還は失敗する」


カシウスは、ユナの身体を示す青い反応へ目を向けた。

「なら、分けろ」


Cの黒い針が動いた。


ユナの選択へは触れられない。

reとセラによって、直接入り込む道は塞がれている。


だが、三本の線が進む速さを変えることはできる。


「身体情報を先行させます」

Cは告げた。

「名前と本人選択を遅延」


白峰は止めなかった。

「やれ」


黒い針が、帰還線そのものではなく、三本を支える補助層の間へ入った。


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


床の白い線が強く輝いた。


寝台の上へ、青い粒子が集まり始める。


最初に現れたのは、ユナの足だった。


半透明の輪郭が作られ、少しずつ色を取り戻していく。

脚、腰、胴体。両腕。そして顔。


佐伯は寝台の横で、呼吸と脈拍を測る準備をしていた。

「身体が来ます」


村瀬は枕元の名前を確認する。

「一ノ瀬ユナさん。ここは現実世界です」

「帰還した学園、校舎一階の臨時医療受け入れ室です」


ユナの身体が完全な形を取り戻した。


青い光が消える。


佐伯がすぐに首元へ触れた。

その表情が変わる。


「脈がない」


村瀬が息を呑む。

「呼吸もありません」


日下部は端末を見る。

身体情報は百パーセント。

だが、名前反応は七十六パーセントで止まっている。

本人選択は六十九パーセント。


「まだ完了していません!」


佐伯が心肺蘇生へ移ろうとする。


日下部が反射的に止めた。

「待ってください!」

「身体が停止しています!」

「まだユナさんの意識が届いていない!」


「でも、身体が――」


「ここで死亡と判断したら、その記録をCに固定されます!」

佐伯の手が止まった。


今、寝台にあるのはユナの身体だ。

だが、ユナ本人が完全に入っているとは限らない。


ここで心停止。


死亡。


帰還失敗。


その言葉を確定すれば、Cが用意した結果になる可能性がある。


村瀬はユナの耳元へ、落ち着いた声で呼びかけた。

「一ノ瀬ユナさん」

「身体は現実側へ到着しています」

「ですが、あなたの名前と選択がまだ届いていません」


返事はない。

顔色も青白いままだ。


日下部は端末を操作し、異世界側へ叫ぶ。


『身体だけが先に到着しました!』

『名前と本人反応が遅れています!』


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


ユナの身体は、すでに寝台から消えていた。


残っているのは、空になった布団と、その上に浮かぶ青い光だけ。


その光の中には、ユナの輪郭がかすかに残っている。


リオが叫ぶ。

「姉さん!」


匠は三本の線を確認した。

身体の線だけが現実側へ抜けている。

名前と選択の線は、途中で黒い針に縫い止められていた。


「Cが分けた」


ハレルが主鍵へ力を込める。

「なら、引っ張れば――」


「駄目だ!」

匠が強く止める。

「無理に引けば、名前と選択が別々の場所へ裂ける!」


リオは青い光へ近づく。

「どうすればいい」


匠は黒い針を見る。

「身体はもう現実にある」

「今度は、身体の側から本人を呼ばなければならない」


現実側の日下部の声が届く。

『呼吸も脈もありません』

『でも、まだ死亡とは確定していません』


リオの顔から血の気が引いた。


それでも、匠は冷静に言った。

「ユナの身体へ名前を呼び続けろ」

「こちらでは、ユナ本人がその名前を選び直す」


サキがスマホを見る。

「reは?」


reの光は、黒い針の前で止まっていた。

針の隙間は狭い。

これまでのように、大きく避けて通れる空間がない。


セラが通信越しに言う。

『その針は、道を塞いでいるのではありません』


ハレルが聞く。

「違うのか」


『名前と身体の間に、別の意味を置いています』


セラが針の周囲を読む。


『身体だけの一ノ瀬ユナ』

『記録だけの一ノ瀬ユナ』

『選択だけを残した一ノ瀬ユナ』


リオの目が鋭くなる。

「また姉さんを分ける気か」


『はい』

『Cは、どの部分を本人と呼ぶのか観測しようとしています』


匠が低く言う。

「実験を続けるつもりだ」


白峰の声が補助層から届く。


『身体があれば本人か』

『名前があれば本人か』

『それとも、自分で選んだ意思だけが本人なのか』


リオが怒鳴る。

「全部だ!」


白峰の声が止まる。


「身体だけでもない」

「記憶だけでもない」

「姉さんが選んだ気持ちだけでもない!」


リオは、黒い針の向こうにある青い光を見る。

「全部が一ノ瀬ユナだ!」


副鍵が強く輝いた。


ユナの名前に繋がっていた線が、黒い針の間で震える。


匠がすぐに反応する。

「そのまま続けろ!」


リオは叫んだ。

「姉さん!」

「一ノ瀬ユナ!」

「身体も、名前も、記憶も、今の気持ちも、全部持って帰れ!」


青い光が大きく揺れた。


その中心から、ユナの声がかすかに聞こえる。


「……私は……」


黒い針が締まる。


言葉が途中で途切れた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


村瀬はユナの耳元で、名前を呼び続けていた。

「一ノ瀬ユナさん」

「ここに、あなたの身体があります」


佐伯も、手首へ触れたまま言う。

「呼吸はまだありません」

「でも、私たちはあなたを死亡とは判断していません」


日下部は隔離端末を見ながら続ける。

「帰還は完了していません」

「あなたの名前と、あなた自身の選択を待っています」


ユナの身体に変化はない。


だが、端末上の本人反応が一パーセントだけ上がった。


六十九。


七十。


村瀬が気づく。

「届いています」


日下部は現実側の白い線を確認した。

黒い針が、二つの層の間で名前を止めている。


「現実側からも道を作ります」


「何をするんですか」

佐伯が聞く。


日下部は、何も書かれていなかった白紙を手に取った。


帰還前。

ユナが自分の答えを作るために用意した空白。


そこへ、日下部は一行だけ書いた。


『私は――』


その先は空ける。


「こちらで名前や答えを完成させてはいけません」

日下部は言った。

「ユナさん本人に、続きを言ってもらいます」


村瀬は白紙をユナの胸元へ置いた。

「一ノ瀬ユナさん」


「あなたは、誰ですか」


◆ ◆ ◆


【二つの世界の間/帰還線】


ユナは、何もない場所にいた。


身体の感覚がない。

目を開けているのかも分からない。


遠くから声が聞こえる。


涼。


ハレル。


サキ。


匠。


知らない人たちの声。


自分の名前を呼んでいる。


一ノ瀬ユナ。


その名前が、自分のものだったことは分かる。


だが、周囲には別の言葉も浮かんでいた。


身体。


記録。


姉。


クロスゲート社員。


実験対象。


帰還者。


いくつもの役割が、自分の形を決めようとしている。


『どれが、あなたですか』


Cの声が聞こえた。


『身体ですか』


『記憶ですか』


『弟が姉と呼ぶ役割ですか』


『それとも、帰還を選んだ反応ですか』


ユナは答えようとした。

だが、声が出ない。


その時。


白い光が、黒い文字の間へ入り込んだ。


re。

名も持たない光。

何も語らず、ただ一つの場所を示す。


役割が書かれていない空白。


その横で、セラの声がした。

『そこでは、誰もあなたの答えを決めません』


ユナは空白へ近づく。


遠くから、リオの声が聞こえる。

『全部が一ノ瀬ユナだ!』


現実側からも声が届く。

『あなたは、誰ですか』


ユナは思い出す。


弟を残してしまったこと。

クロスゲート社で働いていたこと。

異世界で目を覚ましたこと。

眠っている間に聞こえていた声。

帰りたいと思った自分。


どれか一つではない。


どれかを消す必要もない。


ユナは、空白の続きを自分で選んだ。


「私は、一ノ瀬ユナ」


黒い文字が止まる。


「涼の姉で、クロスゲート社にいた」


一つの役割ではない。


「異世界にいて、今、自分で現実へ帰ろうとしている」


身体。


名前。


記憶。


現在の選択。


四つの光が一つに重なる。


「全部、私」


青い光が爆発するように広がった。


reの白い線が、黒い針の中央を通り抜ける。

針は避けられなかった。


初めから、誰も通れないほど隙間を閉じていた。

だからreは、針を避けなかった。


ユナが自分で作った答えを先頭にして、黒い針そのものを押し開いた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


ユナの身体が大きく跳ねた。


「反応が来ます!」

日下部が叫ぶ。


端末の数値が一気に上がる。


名前反応。


八十。


九十。


百。


本人選択。


七十五。


九十二。


百。


村瀬が白紙を見る。


『私は――』


その下に、青い光の文字が浮かんだ。


『一ノ瀬ユナ』


次の瞬間。


ユナが大きく息を吸った。


「っ……!」


胸が上下する。


佐伯がすぐに脈を確認した。

「脈あり!」

「呼吸、再開しました!」


村瀬がユナの肩へ触れる。

「一ノ瀬ユナさん。聞こえますか」


ユナのまぶたが震える。


ゆっくり開く。


焦点が合わないまま、白い天井を見る。


村瀬は現在位置を伝えた。

「ここは現実世界です」

「帰還した学園、校舎一階の臨時医療受け入れ室です」


ユナは何度か瞬きをした。


「現実……」


「はい」


「涼は……」


「異世界側にいます」

「ですが、必ず戻ると伝えています」


ユナの目から、涙が一筋流れた。


それでも、弱い声で言う。


「戻れた……?」


日下部は端末を確認した。


身体。


名前。


意識。


本人選択。


すべて百パーセント。


黒い影の混入反応なし。


「はい」

日下部ははっきり答えた。


「一ノ瀬ユナさん」

「あなたの帰還は完了しました」


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


空になった寝台の上で、青い光が一度だけ強く輝いた。


現実側から報告が届く。


『ユナさん、呼吸再開』

『意識反応あり』

『帰還完了です!』


リオは、その場で目を閉じた。

握っていた拳から、ゆっくり力が抜ける。


「……よかった」


それ以上の言葉は出なかった。


サキは目元を拭いながら笑う。

「ユナさん、帰れたんだね」


ハレルも小さく頷いた。

「ああ」


イデールは空の寝台へ手を置き、残留反応を確認する。

「身体も意識も残っていません」

「完全に現実側へ移っています」


リオは寝台の布を見つめた。

もう姉はいない。

だが、今度は失ったのではない。

帰した。

自分たちが戻るべき場所へ。


「待ってろ、姉さん」

リオは右腕の副鍵へ触れた。

「次は俺たちが帰る」


白い壁の向こうで、匠が小さく息を吐いた。

ユナの帰還を最後まで支えたことで、その姿は以前より薄くなっている。


ハレルが気づく。

「父さん?」


匠の肩から、白い数字のような光が崩れ落ちた。


「帰還記録は残った」

匠は言う。

「これで、他の消失者を探すための基準ができる」


「でも父さんの身体が――」


「まだ持つ」

匠が答えた直後。


補助層の奥から、無数の黒い針が現れた。


これまでユナへ向いていた針ではない。


すべてが、匠一人へ向けられている。


ノノが叫ぶ。

『新しい観測指定!』

『対象がユナさんから変わった!』


Cの声が、白い壁の向こうに響いた。


『一ノ瀬ユナの帰還を確認しました』


『安全な帰還手順を記録しました』


『次の観測対象を設定します』


黒い針の先端が、匠の胸元へ揃う。


『雲賀匠』


ハレルの主鍵が激しく熱を持った。


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