第二百五十話 一ノ瀬ユナの帰還
第250話 一ノ瀬ユナの帰還
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
「現実へ帰る」
ユナがそう告げた瞬間、足元から青い光が立ち上がった。
光はユナの身体を隠すのではなく、
輪郭を一つずつ細かな粒へ変えていく。
足先、脚、腰。寝台に触れていた身体が、
現実側へ続く白い線の中へ静かに溶け始めた。
リオは伸ばしかけた手を止めた。
触れれば帰還線を乱す可能性がある。
分かっていても、目の前から姉の身体が消えていく光景を、
ただ見ているのは苦しかった。
「姉さん。向こうで会おう」
ユナはかすかに頷いた。
「涼も……帰ってきて」
「ああ。必ず」
イデールは治癒結界を保ちながら、ユナの身体反応を確認している。
「呼吸、安定しています。身体と意識の繋がりも維持されています」
ノノの声がイヤーカフから届く。
『異世界側の身体情報、七割通過』
『現実側の受け入れ室へ反応が出てる!』
匠は白い壁の向こうで、三本の補助線を支えていた。
一本目はユナの身体。
二本目は名前と記憶。
三本目は、ユナ自身が選んだ意思。
「三つを離すな」
ハレルは主鍵を握った。
「一ノ瀬ユナ」
「王都イルダ医療棟から、現実世界へ帰還中」
「身体、名前、現在の選択を同時に固定する」
主鍵の白い光が、三本の線を外側から囲む。
リオの副鍵は、ユナの名前へ繋がっていた。
サキのスマホから伸びるreの白い線は、
黒い針が近づけないよう、帰還線の周囲を絶えず動いている。
セラは道の意味を読み続けた。
『前方に記憶層があります』
『自宅ではありません。クロスゲート社で働いていた時の記録です』
『re、左へ避けてください』
reの光が曲がる。
ユナの青い反応も、それに従って記憶層を避けた。
帰還は進んでいる。
だが、寝台の下から剥がれ落ちた黒い影は、まだ消えていなかった。
影は床に広がったまま、青い光の動きを見ていた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cは、ユナの身体が帰還線へ入る様子を観測していた。
「身体情報、七十二パーセント移動」
「名前反応、六十八パーセント」
「本人選択、六十一パーセント」
ジャバが腕を組む。
「このまま行かせんのか」
「帰還そのものを停止する必要はありません」
Cは淡々と答えた。
白峰律が二本の帰還構造を見比べる。
匠が作った安全な門。
自分たちが使ってきたクロスワールドゲート。
「匠は三つを同時に戻そうとしている」
オルガが言う。
「身体、名前、本人の現在選択」
「一つでも遅れれば、帰還は失敗する」
カシウスは、ユナの身体を示す青い反応へ目を向けた。
「なら、分けろ」
Cの黒い針が動いた。
ユナの選択へは触れられない。
reとセラによって、直接入り込む道は塞がれている。
だが、三本の線が進む速さを変えることはできる。
「身体情報を先行させます」
Cは告げた。
「名前と本人選択を遅延」
白峰は止めなかった。
「やれ」
黒い針が、帰還線そのものではなく、三本を支える補助層の間へ入った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】
床の白い線が強く輝いた。
寝台の上へ、青い粒子が集まり始める。
最初に現れたのは、ユナの足だった。
半透明の輪郭が作られ、少しずつ色を取り戻していく。
脚、腰、胴体。両腕。そして顔。
佐伯は寝台の横で、呼吸と脈拍を測る準備をしていた。
「身体が来ます」
村瀬は枕元の名前を確認する。
「一ノ瀬ユナさん。ここは現実世界です」
「帰還した学園、校舎一階の臨時医療受け入れ室です」
ユナの身体が完全な形を取り戻した。
青い光が消える。
佐伯がすぐに首元へ触れた。
その表情が変わる。
「脈がない」
村瀬が息を呑む。
「呼吸もありません」
日下部は端末を見る。
身体情報は百パーセント。
だが、名前反応は七十六パーセントで止まっている。
本人選択は六十九パーセント。
「まだ完了していません!」
佐伯が心肺蘇生へ移ろうとする。
日下部が反射的に止めた。
「待ってください!」
「身体が停止しています!」
「まだユナさんの意識が届いていない!」
「でも、身体が――」
「ここで死亡と判断したら、その記録をCに固定されます!」
佐伯の手が止まった。
今、寝台にあるのはユナの身体だ。
だが、ユナ本人が完全に入っているとは限らない。
ここで心停止。
死亡。
帰還失敗。
その言葉を確定すれば、Cが用意した結果になる可能性がある。
村瀬はユナの耳元へ、落ち着いた声で呼びかけた。
「一ノ瀬ユナさん」
「身体は現実側へ到着しています」
「ですが、あなたの名前と選択がまだ届いていません」
返事はない。
顔色も青白いままだ。
日下部は端末を操作し、異世界側へ叫ぶ。
『身体だけが先に到着しました!』
『名前と本人反応が遅れています!』
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
ユナの身体は、すでに寝台から消えていた。
残っているのは、空になった布団と、その上に浮かぶ青い光だけ。
その光の中には、ユナの輪郭がかすかに残っている。
リオが叫ぶ。
「姉さん!」
匠は三本の線を確認した。
身体の線だけが現実側へ抜けている。
名前と選択の線は、途中で黒い針に縫い止められていた。
「Cが分けた」
ハレルが主鍵へ力を込める。
「なら、引っ張れば――」
「駄目だ!」
匠が強く止める。
「無理に引けば、名前と選択が別々の場所へ裂ける!」
リオは青い光へ近づく。
「どうすればいい」
匠は黒い針を見る。
「身体はもう現実にある」
「今度は、身体の側から本人を呼ばなければならない」
現実側の日下部の声が届く。
『呼吸も脈もありません』
『でも、まだ死亡とは確定していません』
リオの顔から血の気が引いた。
それでも、匠は冷静に言った。
「ユナの身体へ名前を呼び続けろ」
「こちらでは、ユナ本人がその名前を選び直す」
サキがスマホを見る。
「reは?」
reの光は、黒い針の前で止まっていた。
針の隙間は狭い。
これまでのように、大きく避けて通れる空間がない。
セラが通信越しに言う。
『その針は、道を塞いでいるのではありません』
ハレルが聞く。
「違うのか」
『名前と身体の間に、別の意味を置いています』
セラが針の周囲を読む。
『身体だけの一ノ瀬ユナ』
『記録だけの一ノ瀬ユナ』
『選択だけを残した一ノ瀬ユナ』
リオの目が鋭くなる。
「また姉さんを分ける気か」
『はい』
『Cは、どの部分を本人と呼ぶのか観測しようとしています』
匠が低く言う。
「実験を続けるつもりだ」
白峰の声が補助層から届く。
『身体があれば本人か』
『名前があれば本人か』
『それとも、自分で選んだ意思だけが本人なのか』
リオが怒鳴る。
「全部だ!」
白峰の声が止まる。
「身体だけでもない」
「記憶だけでもない」
「姉さんが選んだ気持ちだけでもない!」
リオは、黒い針の向こうにある青い光を見る。
「全部が一ノ瀬ユナだ!」
副鍵が強く輝いた。
ユナの名前に繋がっていた線が、黒い針の間で震える。
匠がすぐに反応する。
「そのまま続けろ!」
リオは叫んだ。
「姉さん!」
「一ノ瀬ユナ!」
「身体も、名前も、記憶も、今の気持ちも、全部持って帰れ!」
青い光が大きく揺れた。
その中心から、ユナの声がかすかに聞こえる。
「……私は……」
黒い針が締まる。
言葉が途中で途切れた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】
村瀬はユナの耳元で、名前を呼び続けていた。
「一ノ瀬ユナさん」
「ここに、あなたの身体があります」
佐伯も、手首へ触れたまま言う。
「呼吸はまだありません」
「でも、私たちはあなたを死亡とは判断していません」
日下部は隔離端末を見ながら続ける。
「帰還は完了していません」
「あなたの名前と、あなた自身の選択を待っています」
ユナの身体に変化はない。
だが、端末上の本人反応が一パーセントだけ上がった。
六十九。
七十。
村瀬が気づく。
「届いています」
日下部は現実側の白い線を確認した。
黒い針が、二つの層の間で名前を止めている。
「現実側からも道を作ります」
「何をするんですか」
佐伯が聞く。
日下部は、何も書かれていなかった白紙を手に取った。
帰還前。
ユナが自分の答えを作るために用意した空白。
そこへ、日下部は一行だけ書いた。
『私は――』
その先は空ける。
「こちらで名前や答えを完成させてはいけません」
日下部は言った。
「ユナさん本人に、続きを言ってもらいます」
村瀬は白紙をユナの胸元へ置いた。
「一ノ瀬ユナさん」
「あなたは、誰ですか」
◆ ◆ ◆
【二つの世界の間/帰還線】
ユナは、何もない場所にいた。
身体の感覚がない。
目を開けているのかも分からない。
遠くから声が聞こえる。
涼。
ハレル。
サキ。
匠。
知らない人たちの声。
自分の名前を呼んでいる。
一ノ瀬ユナ。
その名前が、自分のものだったことは分かる。
だが、周囲には別の言葉も浮かんでいた。
身体。
記録。
姉。
クロスゲート社員。
実験対象。
帰還者。
いくつもの役割が、自分の形を決めようとしている。
『どれが、あなたですか』
Cの声が聞こえた。
『身体ですか』
『記憶ですか』
『弟が姉と呼ぶ役割ですか』
『それとも、帰還を選んだ反応ですか』
ユナは答えようとした。
だが、声が出ない。
その時。
白い光が、黒い文字の間へ入り込んだ。
re。
名も持たない光。
何も語らず、ただ一つの場所を示す。
役割が書かれていない空白。
その横で、セラの声がした。
『そこでは、誰もあなたの答えを決めません』
ユナは空白へ近づく。
遠くから、リオの声が聞こえる。
『全部が一ノ瀬ユナだ!』
現実側からも声が届く。
『あなたは、誰ですか』
ユナは思い出す。
弟を残してしまったこと。
クロスゲート社で働いていたこと。
異世界で目を覚ましたこと。
眠っている間に聞こえていた声。
帰りたいと思った自分。
どれか一つではない。
どれかを消す必要もない。
ユナは、空白の続きを自分で選んだ。
「私は、一ノ瀬ユナ」
黒い文字が止まる。
「涼の姉で、クロスゲート社にいた」
一つの役割ではない。
「異世界にいて、今、自分で現実へ帰ろうとしている」
身体。
名前。
記憶。
現在の選択。
四つの光が一つに重なる。
「全部、私」
青い光が爆発するように広がった。
reの白い線が、黒い針の中央を通り抜ける。
針は避けられなかった。
初めから、誰も通れないほど隙間を閉じていた。
だからreは、針を避けなかった。
ユナが自分で作った答えを先頭にして、黒い針そのものを押し開いた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】
ユナの身体が大きく跳ねた。
「反応が来ます!」
日下部が叫ぶ。
端末の数値が一気に上がる。
名前反応。
八十。
九十。
百。
本人選択。
七十五。
九十二。
百。
村瀬が白紙を見る。
『私は――』
その下に、青い光の文字が浮かんだ。
『一ノ瀬ユナ』
次の瞬間。
ユナが大きく息を吸った。
「っ……!」
胸が上下する。
佐伯がすぐに脈を確認した。
「脈あり!」
「呼吸、再開しました!」
村瀬がユナの肩へ触れる。
「一ノ瀬ユナさん。聞こえますか」
ユナのまぶたが震える。
ゆっくり開く。
焦点が合わないまま、白い天井を見る。
村瀬は現在位置を伝えた。
「ここは現実世界です」
「帰還した学園、校舎一階の臨時医療受け入れ室です」
ユナは何度か瞬きをした。
「現実……」
「はい」
「涼は……」
「異世界側にいます」
「ですが、必ず戻ると伝えています」
ユナの目から、涙が一筋流れた。
それでも、弱い声で言う。
「戻れた……?」
日下部は端末を確認した。
身体。
名前。
意識。
本人選択。
すべて百パーセント。
黒い影の混入反応なし。
「はい」
日下部ははっきり答えた。
「一ノ瀬ユナさん」
「あなたの帰還は完了しました」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
空になった寝台の上で、青い光が一度だけ強く輝いた。
現実側から報告が届く。
『ユナさん、呼吸再開』
『意識反応あり』
『帰還完了です!』
リオは、その場で目を閉じた。
握っていた拳から、ゆっくり力が抜ける。
「……よかった」
それ以上の言葉は出なかった。
サキは目元を拭いながら笑う。
「ユナさん、帰れたんだね」
ハレルも小さく頷いた。
「ああ」
イデールは空の寝台へ手を置き、残留反応を確認する。
「身体も意識も残っていません」
「完全に現実側へ移っています」
リオは寝台の布を見つめた。
もう姉はいない。
だが、今度は失ったのではない。
帰した。
自分たちが戻るべき場所へ。
「待ってろ、姉さん」
リオは右腕の副鍵へ触れた。
「次は俺たちが帰る」
白い壁の向こうで、匠が小さく息を吐いた。
ユナの帰還を最後まで支えたことで、その姿は以前より薄くなっている。
ハレルが気づく。
「父さん?」
匠の肩から、白い数字のような光が崩れ落ちた。
「帰還記録は残った」
匠は言う。
「これで、他の消失者を探すための基準ができる」
「でも父さんの身体が――」
「まだ持つ」
匠が答えた直後。
補助層の奥から、無数の黒い針が現れた。
これまでユナへ向いていた針ではない。
すべてが、匠一人へ向けられている。
ノノが叫ぶ。
『新しい観測指定!』
『対象がユナさんから変わった!』
Cの声が、白い壁の向こうに響いた。
『一ノ瀬ユナの帰還を確認しました』
『安全な帰還手順を記録しました』
『次の観測対象を設定します』
黒い針の先端が、匠の胸元へ揃う。
『雲賀匠』
ハレルの主鍵が激しく熱を持った。




