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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百四十六話 消された名

第246話 消された名



【異世界・王都イルダ/分析室・昼】


「エリウスが存在したことを、話します」


セラがその名を口にした直後、水晶板の端に浮かんでいた黒い針が止まった。


ほんの一瞬だけだった。


次の瞬間、針は何本にも分かれ、セラの記憶を囲むように広がった。

水晶板に記録された《エリウス》の文字が揺らぎ、輪郭が薄くなる。


ノノがすぐに端末へ手を伸ばした。


「記録が消される!」


文字の一部が欠けた。


《エ ウス》


さらに白いノイズが重なり、残った文字も読めなくなろうとする。


セラは水晶板を見つめたまま言った。


「同じです」


「何が?」


「以前も、こうして消されました」


その声と同時に、分析室の周囲へ灰色の壁が立ち上がった。


扉も窓もない。

通信の光が弱まり、医療棟へ繋がっていた線が細くなる。


ノノが息を呑んだ。

『ハレル、聞こえる?』


返事は来ない。


代わりに、深層からオルガの声が響いた。


『それ以上、話す必要はない』


冷静な声だった。

怒鳴ってはいない。

だが、分析室全体を押さえつけるような重さがある。


セラは静かに答えた。

「必要があります」


『過去の記録は現在の帰還作業に不要だ』


「あなたがそう判断することではありません」


灰色の壁に、何重もの文字が流れ始めた。


《未登録》


《該当人物なし》


《研究者記録なし》


《王都所属者一覧に存在せず》


エリウスという名前を、最初から存在しなかったものへ戻そうとしている。


さらに、灰色の壁の外側から低い声がした。


『閉じろ』


ヴァルド・レイグ。


その声に合わせ、分析室の床へ古い封鎖術式が広がった。


通信。


記録。


記憶。


三つを別々に閉じる結界だった。


ノノが端末を操作する。

「外へ送れない」

「記録も保存できない!」


セラの身体も薄く揺れた。

エリウスの名前に繋がる記憶そのものが、奥へ押し戻されようとしている。


その時。


医療棟へ続く細い白線が強く光った。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


白い壁の向こうにいる匠が、すぐに異変へ気づいた。


「オルガとヴァルドだ」


ハレルが主鍵を握る。

「セラの通信が切れかけてる」


「繋ぎ止めろ」

匠は補助層へ手を入れた。

白い線が治療室の床から壁へ走り、そのまま分析室を囲む灰色の結界へ向かう。


ヴァルドの封鎖術式は強い。

無理に壊せば、セラの記憶まで傷つく。


匠は白い線を結界の隙間へ一本ずつ通した。

「閉じるための結界なら、必ず内と外を分ける線がある」


ハレルが聞く。

「そこを開けるのか」


「違う」

匠は目を細めた。

「内側を外へ出す必要はない」

「外側にいる私たちが、内側の記録を覚えればいい」


ハレルはすぐに理解した。

主鍵の光を分析室へ向ける。


「エリウス」


名前を呼ぶ。


灰色の結界が震えた。


「王都にいた研究者」

「セラを助けた人」


サキもスマホを胸元へ抱えた。

「エリウスさん」


reが強く光る。

その光が灰色の結界に空いた小さな隙間を見つけ、白い線を滑り込ませた。


リオもユナの寝台を守りながら言う。

「俺も聞いた」

「エリウスって研究者がいた」


一人だけの記憶ではない。


ハレル。


サキ。


リオ。


匠。


複数の存在が同じ名前を覚えたことで、薄れかけていた文字が再び形を取り戻していく。


《エリウス》


ノノの声が、ノイズの向こうから戻った。

『聞こえた!』

『通信、細いけど戻った!』


匠は灰色の結界へ向かって言った。


「その名は、もう消させない」


◆ ◆ ◆


【どこでもない層/深層】


オルガは分析室を囲む灰色の結界を見ていた。


その横で、ヴァルドが封鎖線をさらに狭めようとしている。

だが、白い補助線が結界の内側と外側へ入り込み、エリウスの名前を複数の場所へ分けていた。


「まだ閉じられる」

ヴァルドが言う。


「記憶の元を断てばいい」

オルガも頷く。


「セラの内部にある記録を止める」


二人が同時に動こうとした時、白峰律が静かに言った。

「もう遅い」


オルガの手が止まる。

「何がだ」


白峰は現実側の画面を示した。


帰還した学園。

臨時医療受け入れ室。

日下部の端末に、《エリウス》という名前が届いている。


佐伯。


村瀬。


二人も聞いていた。


さらに日下部は、その名を隔離記録へ保存しようとしている。


「名前が一つの記憶にしかないうちは消せる」

白峰は穏やかに続ける。

「だが、別々の人間が同じ名前を知った」

「現実と異世界の両方でな」


カシウスも、セラの記憶を囲む黒い針を見た。

「エリウスの名が出た時点で、もう遅い」


オルガの目が冷たくなる。

「なら、内容を止める」


「止めれば、何を隠しているか教えることになる」

白峰は薄く笑った。

「今さら存在だけ認めて、研究を隠すのか」


ヴァルドが低く言う。

「すべてを話させる必要はない」


カシウスは答えた。

「話させろ」


オルガが振り向く。

「なぜだ」


「セラの記憶がどこまで残っているか確認する」


カシウスにとって、エリウスの名誉も、オルガたちの秘密も重要ではない。

観測できるものが増える。

ただ、それだけだった。


「それに」


カシウスはreの白い光を見る。


「エリウスの研究と、あの未登録の光がどう繋がるか知りたい」


reは何も語らない。


ただ、セラへ続く線を守るように光っている。


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


日下部の端末へ、ノイズ混じりの音声が届いていた。


『エリウスが存在したことを、話します』


セラの声。


その直後、画面に灰色のノイズが広がった。


《該当人物なし》


《記録なし》


《存在確認不能》


日下部はすぐに通信を隔離回線へ切り替える。

「佐伯さん、紙を」


佐伯が記録用紙を取る。

「名前は?」


「エリウス」


佐伯は大きく書いた。

『エリウス』


村瀬も同じ名前を声に出す。

「エリウス」

「王都にいた研究者」

「セラさんを助けた人」


端末の記録が消されても、人間が覚えていれば残る。


日下部も別の紙へ書いた。


名前。

王都。

研究者。

結界層。

セラの救命。


「城ヶ峰さんへ送ります」


しかし、送信画面にはエラーが出た。


《文字列を確認できません》


「名前だけ送れない」


村瀬が画面を見て言う。

「周りの文章ごと送ってください」


日下部は文章を打ち直した。


『セラの証言に、王都の研究者エリウスという人物が登場。

 現在、通信と記録への妨害あり。人物の実在確認を求めます。』


今度は送信できた。


数秒後。

城ヶ峰から返事が届く。


『受信した。名前を複数の媒体へ残せ。』

『木崎にも共有する。』

『調査は警察側で開始する。』


日下部は息を吐いた。

「これで、現実側にも残りました」


佐伯は紙に書かれた名前を見る。

「誰かが本当に消そうとしてる」


村瀬が言う。

「だから、セラさんは話してるんです」


三人は再び通信へ耳を傾けた。

ユナの帰還準備を続けながら、消された研究者の証言を受け取る。

何か異常が起これば、すぐに城ヶ峰へ連絡する。


それが、現実側に残った三人の役目だった。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/分析室・昼】


灰色の壁は残っている。

だが、完全には閉じていない。


匠の補助線。

ハレルたちの主鍵と副鍵。

reの白い線。

そして、現実側から届く記録の光。


それらが、セラの言葉を外へ繋いでいた。


ノノはセラを見る。

「続けられる?」


セラの身体は、まだ少し揺れていた。


エリウスの記憶を引き出すたび、オルガの灰色の文字がそれを隠そうとする。


それでも、セラは頷いた。

「続けます」


「無理しないで」


「今、止めれば」

セラは薄くなった《エリウス》の文字を見る。


「また、存在しなかったことにされます」


セラは目を閉じた。


白い分析室が消える。


代わりに、過去の結界層が広がった。


◆ ◆ ◆


【異世界・エリウスの結界層/過去】


セラが目を覚ましたあと、エリウスは毎日やって来た。


身体を持たないセラにとって、朝も夜も分からない。

だからエリウスが来ることが、一日の始まりだった。


『聞こえるか』


最初に必ず同じ言葉をかける。


セラは光の文字で答えた。


《聞こえる》


『名前は?』


《セラ》


『今、何を覚えている』


セラは少しずつ記憶を並べた。


父親。


母親。


町。


燃える家。


握っていた手。


初めの頃は、それだけで光が大きく乱れた。

記憶を思い出すたび、身体がないことを強く感じる。

泣こうとしても涙がない。

叫ぼうとしても声がない。


エリウスは、無理に記憶を掘り起こさなかった。

『今日はここまでにしよう』


《まだできる》


『できることと、続けていいことは違う』

エリウスはいつもそう言った。

セラの反応を記録しながらも、セラ自身が嫌がることはしなかった。


道具として扱わない。

記録として保存するだけにしない。

戦場で言った言葉を、本当に守っていた。


やがて、セラは結界層の中で形を作れるようになった。


最初は小さな光。


次に手。


顔。


身体。


本物の肉体ではない。

自分が覚えている自分の姿を、光の中へ作ったものだった。


エリウスは、その姿を見て少し驚いた。

『その服は?』


セラは自分の姿を見る。

町にいた頃、母親が作ってくれた服。


《これしか覚えていない》


『なら、それでいい』

エリウスは笑った。

『誰かが決めた姿ではなく、自分で覚えている姿を使いなさい』


セラは結界層の中を歩いた。

足は地面に触れない。

それでも、歩く形を覚えていた。

エリウスが置いた本を読む。


術式。

王都の地図。

結界の構造。

傷ついた意識の扱い方。

情報を別の場所へ運ぶための方法。


身体を失ったセラには、眠る必要がほとんどなかった。

そのため、多くの情報がセラの中へ積み重なっていった。


「私は、最初から分析ができたわけではありません」


現在のセラの声が、過去の景色へ重なる。


「エリウスが、一つずつ教えてくれました」


◆ ◆ ◆


エリウスは、結界層にいくつもの小さな道を作った。


王都の治療所。

研究室。

結界塔。

遠く離れた観測所。

直接人間が通れる道ではない。

情報や声だけを運ぶための細い道。


セラは、その道の中を動けた。


ある日、エリウスが一つの光を示した。

『この反応が、どこへ向かっているか分かるか』


光は三つに分かれている。


一つは治療所。

一つは結界塔。

一つは暗い層。


セラは光を見た。

最も明るい道が正しいように見える。

だが、その道には途中から帰りの線がなかった。


《明るい道は、戻れない》


エリウスの目が変わった。

『なぜ分かった』


《道の先がない》


『地図にはある』


《でも、戻る人の名前がない》


エリウスはしばらく黙った。

それから、紙へ何かを書き始めた。


『セラ』


《なに》


『君は、道の形だけではなく、意味を見ている』


それが、案内人としての始まりだった。

エリウスはセラに命令しなかった。

どの道を選べとも言わない。

代わりに質問した。


『危険なのはどこだ』


『戻れないのはどこだ』


『名前が消えるのはどこだ』


セラは、一つずつ答えた。

やがて王都の治療術師たちは、

意識を失った患者の反応を確認する時、エリウスの結界層を使うようになった。


迷った意識。

身体へ戻れない名前。

記憶に引かれ、別の場所へ向かおうとする者。


セラは、安全な道を示した。

ただし、最後に戻るかどうかは本人に任せた。


ある時、セラはエリウスへ聞いた。

《私の役目は、みんなを戻すこと?》


エリウスは首を振った。

『違う』


《でも、私は道を教えている》


『教えるのは危険な道と、安全な道だけだ』


エリウスはセラの前に膝をついた。

肉体のないセラと、目の高さを合わせるように。


『どこへ行くかを決めるのは、その人自身だ』


《間違った道を選んだら?》


『それでも、選択を奪ってはいけない』

エリウスは静かに言った。


『案内人は、命令する者ではない』

『正しい答えを押しつける者でもない』

『その人が自分で決められる場所まで、道を残す者だ』


セラは、その言葉を何度も覚えた。


エリウスは研究者だった。


先生だった。


そして、セラにとっては。


失った父親の代わりに、毎日名前を呼んでくれる人だった。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/分析室・現在】


セラの声は、わずかに震えていた。


「エリウスは、私を案内人に作り替えたのではありません」

「私が道を見つけられると知って、その力の使い方を教えてくれました」


ノノが小さく言う。

「お父さんみたいな人だったんだね」


セラは少しだけ目を伏せる。

「はい」


短い返事だった。

それでも、その一言には長い時間が詰まっていた。


その時、ノノの水晶板へ過去の案内式が表示された。

セラが教わったもの。


道。


名前。


場所。


選択。


その記号を見て、ノノの表情が変わる。


「これ……」


「どうしました?」


「私、似た形を知ってる」


ノノは別の記録を開いた。

以前、オルガの下で分析官として働いていた頃に教えられた基礎式。

名称は違う。

並び方も一部変えられている。

だが、中心の構造は同じだった。


「オルガが使ってた分析式の元になってる」


セラは静かに頷いた。

「そうです」


灰色の壁が、再び強く揺れた。

深層側でオルガが反応している。


ノノは画面を見つめる。

「じゃあ、オルガの分析術は……」


セラは答えた。

「エリウスの研究から作られたものです」


その言葉が外へ届いた瞬間。


灰色の封鎖結界に、大きなひびが入った。


◆ ◆ ◆


【異世界・エリウスの研究室/過去】


ある日。

エリウスの研究室に、二人の客が訪れた。


灰色の長衣を着た若い分析官。

オルガ・セフィロ。


そして、王都でも名を知られた結界術士。

ヴァルド・レイグ。


エリウスは二人を研究室へ入れた。

だが、結界層の奥にいるセラへは、こう伝えた。

『今日は出てこなくていい』


《危険な人?》


エリウスは少し黙った。

『まだ分からない』


研究室の中央で、オルガは机の上の資料を見た。

「意識を名前で固定し、結界層へ保存する技術」


ヴァルドは壁に刻まれた術式へ触れる。

「層を閉じたまま、情報だけを通している」


二人の目には、驚きよりも強い興味があった。


オルガはエリウスを見る。


「協力してほしい」


「何に」


「もっと大きな門を作る」


エリウスの表情が変わる。

「誰を通す門だ」


オルガは静かに答えた。


「失われた者を、別の層から戻すための門だ」


結界層の奥で。


セラは、その言葉を聞いていた。



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