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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百四十三話 匠と白峰

第243話 匠と白峰



【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


白い壁の向こうで、雲賀匠の姿が揺れた。


補助層へ突き刺さった黒い針が、何本もの細い枝に分かれていく。


一本は匠の足元。


一本は白い壁。


残る針は、ユナの寝台の下で揺れている黒い影へ伸びようとしていた。


「父さん!」


ハレルが主鍵を握る。

胸元から白い光が走り、壁のひびへ重なった。


サキのスマホでもreが強く光る。

白い補助線が黒い針の前へ入り、医療棟側と匠のいる層を繋ぎ止めた。


匠は黒い針へ手を向けた。


「線を太くするな」

「ハレル、今は押し返そうとするな」


「でも、このままじゃ父さんのいる場所が――」


「押せば位置を読まれる」


匠は足元へ走る白い線を三つに分けた。


一本目は医療棟へ。

二本目は現実側の臨時医療受け入れ室へ。

三本目は、どちらにも繋がらず、暗い層の奥へ流れていく。


黒い針は三本目を追った。


だが、その線は途中で細かく分かれ、何もない場所へ消える。


ノノの声が通信から上がった。

『黒い針が外れた!』

『補助層の位置を別の線へ逃がしたんだ!』


匠は短く息を吐いた。

「昔から、この層はそういうために作った」


ハレルが聞き返す。

「昔から?」


匠は、黒い針が再び動き出す前に壁の光へ手を置いた。

「この補助層の原型を作ったのは、私一人じゃない」


ハレルは白い壁の向こうにいる父を見る。


胸の奥に、一つの名前が浮かんだ。


「白峰律か」


匠は頷いた。


「ああ」


◆ ◆ ◆


【現実世界・雲賀匠の事務所・昼】


木崎は、古い箱の中から二冊目のノートを取り出した。


最初のノートよりも古い。

紙の端は黄ばみ、表紙には大学の研究室名が印刷されている。


その下に、二つの名前。


雲賀匠。


白峰律。


木崎は椅子へ座り、最初のページを開いた。

そこには、今まで見てきた境界図よりも単純な図が描かれていた。


大きな円。


その下に、もう一つの円。


二つの間に挟まれた、細長い空間。


横には、手書きの文字。


『現実と仮想の間に、第三の作業領域を置く。』


木崎は眉を寄せる。


「第三の作業領域……」


ページをめくる。


『既存のネットワークは、現実側の機械に依存している。』

『ならば、機械の中ではなく、情報そのものが存在できる層を作れないか。』


さらに別の文字。

筆跡が違う。

白峰律のものだろう。


『見る者がいなくても残る世界。』

『接続を切っても消えない場所。』

『現実とは別の法則を持つ、独立した世界。』


木崎はノートを閉じず、そのまま携帯端末で撮影した。

城ヶ峰へ送る。


『二人は学生時代から中間層を作っていた。』

『今の補助層の原型かもしれない。』


送信すると、すぐに既読がついた。


木崎は次のページへ進む。

そこには、若い匠の字で書かれていた。


『律は世界を作りたいと言う。』

『私は、隔離された実験環境を作りたい。』

『同じものを見ているようで、目指しているものは少し違うのかもしれない。』


木崎は小さく息を吐いた。


「学生の頃からか」


二人は、同じ研究をしていた。


だが、最初からまったく同じ考えだったわけではない。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


匠は、黒い針の動きを見ながら話し始めた。


「大学にいた頃、私と律は、今でいうネットワークの先を作ろうとしていた」


リオが聞く。

「ネットの先?」


「画面の中だけにある世界じゃない」

「接続を切れば消える仮想空間でもない」


匠の周囲に、古い図が浮かんだ。


現実。


情報。


その間にある細い層。


「現実とは違う法則を持ち、それでも情報が自分の形を保って存在できる場所」

「私たちは、そんな独自の世界を作ろうとしていた」


サキが呟く。

「二人だけで?」


「最初は研究室の仲間もいた」

匠は答えた。


「だが、途中から誰もついてこなくなった」

「危険だったからじゃない」

「何をしているのか、理解できなくなったからだ」


既存のプログラム言語では扱えない。


場所。


名前。


観測。


存在しているという状態そのもの。


二人はそれらを数値や文字として扱おうとした。

白峰は既存の言語を組み替え、独自のプログラム言語を作った。

匠は、情報が暴走した時に逃がすための空間を設計した。


「それが補助層の始まりだ」


ハレルは壁を見た。

父が今いる場所。

現実と異世界の間で、帰還の線を支えている層。


「じゃあ、父さんが今いる補助層は、大学時代に作ったものなのか」


「そのままではない」

匠は首を振った。


「最初に作ったのは、情報処理の負荷を逃がすだけの小さな空間だった」

「外部から切り離し、失敗したプログラムを一時的に置く」

「いわば、実験用の余白だ」


「でも、律がその余白を広げた」

セラが静かに言った。


匠はセラの声へ反応した。

「ああ」


「白峰律は、情報だけでなく、人の記憶や名前まで保存できる場所に変えようとした」


「その頃から危険だったの?」

サキが聞く。


匠は少し考えた。

「いや」


その答えは意外だった。


「少なくとも、学生だった頃の律は、人を傷つけようとは考えていなかった」

「ただ、誰も作ったことのない世界を作りたかった」


匠の表情が、わずかに昔を思い出すものへ変わる。

「ほとんど寝ずに研究した」

「大学の設備が閉まれば、私の部屋へ機材を運んだ」

「金がなければ、中古の部品を集めた」

「二人とも、先に進むことしか考えていなかった」


ハレルは黙って聞いていた。

今の父からは、想像しにくい。


だが、木崎が見つけた写真には、笑っている若い匠がいた。

白峰律と並んで。


「大学を卒業してから、私は研究室を離れた」

匠が続ける。


「どうして?」


「研究だけで食べていく道を選ばなかった」

匠は少しだけ苦く笑った。


「私はITやプログラムを専門に扱う記者になった」

「最初は技術雑誌の記事を書いた」

「だが、それだけでは生活できなかった」


企業の問題。


新しいサービス。


詐欺事件。


労働問題。


ネット犯罪。


政治や社会の中で起きる、技術に関係すること。


時には技術とはほとんど関係のない事件まで。


「なりふり構わず書いた」

「依頼があれば、何でも調べた」

「そうやって記事を書き、生活していた」


リオが少しだけ口元を動かす。

「木崎さんと知り合ったのも、その頃か」


「ああ」

匠は頷いた。


「一方、律は研究室に残った」

「研究の成果もあった」

「何より、あいつは私よりずっと頭がよかった」


独自の言語。

情報層。

現実と仮想の間にある領域。


白峰律は研究者として評価され、さらに深い研究へ進んだ。

それでも二人の関係は切れなかった。

時々会い、互いの研究や仕事について話した。

匠が取材で見つけた技術を白峰へ伝える。

白峰は新しい言語や層の研究を匠へ見せる。


「その頃までは、まだ友人だった」


ハレルは、その言い方に引っかかった。

「その後、何があった」


匠の目から、昔を懐かしむ色が消えた。


「律の恋人が死んだ」


治療室が静かになる。


ユナの呼吸音だけが、小さく聞こえている。


「事故だった」


匠は言った。


「突然だった」

「前の日まで普通に話し、次の約束もしていた」

「それが、一度の事故で全部終わった」


サキはスマホを握りしめた。


リオは眠るユナを見た。


少し違えば。

助けられなければ。

自分も、白峰律と同じ場所に立っていたかもしれない。


「律は、その死を受け入れなかった」


匠は続けた。


「最初は、誰だってそうだと思った」

「すぐに受け入れられるはずがない」

「私は、時間が必要なんだと思っていた」


だが、白峰は研究室へ閉じこもった。


恋人の写真。


声。


メッセージ。


行動記録。


位置情報。


ネット上に残った文章。


記憶を持つ人々の証言。


残されたすべてを集め始めた。


「律は言った」


匠の声が低くなる。


「人が死んでも、情報は残る」

「名前も、声も、記憶も残る」

「ならば、それらを一つの場所へ集めれば、その人を戻せるはずだと」


ハレルは眉を寄せる。

「それが、記憶を帰還先に使う研究に変わったのか」


「ああ」


「父さんは止めなかったのか」


「止めた」


匠は即座に答えた。


「何度も止めた」

「残った情報は、その人自身じゃない」

「どれだけ集めても、亡くなった恋人の選択までは戻せないと伝えた」


だが、白峰は聞かなかった。


むしろ、匠の言葉を別の意味に受け取った。

本人の選択が足りない。

ならば、選択を保存できる層を作ればいい。

身体がない。

ならば、別の器へ入れればいい。

現実では戻せない。

ならば、現実とは違う世界を探せばいい。


「律は、私たちが作った補助層の原型を、一人でさらに深く掘った」


匠の前に、暗い裂け目が浮かぶ。


白峰が作った独自言語。

現実側の情報。

その奥で触れた、別の法則。


「そこで、異世界を見つけた」


ハレルの主鍵が小さく熱を持つ。

「カシウスたちか」


「最初に誰と接触したのか、正確には分からない」


匠は答えた。


「だが、律はカシウスと繋がった」

「オルガとヴァルドも、その後に加わった」


リオが聞く。

「白峰とカシウスは、何で手を組んだ」


匠は、少しだけ沈黙した。


「同じだったからだ」


「何が」


「失ったものを、失ったままにできなかった」


カシウスにも、取り戻せない喪失があった。

白峰律にも、愛した恋人の死があった。

二人は、生まれた世界も、使う技術も違う。

だが、求めるものは同じだった。


死を終わりにしない。


名前と記憶と器を組み替え、失われた者を取り戻す。

そのためなら、今ある世界の形を変えても構わない。


「二人は、世界の方が間違っていると考えた」


匠が言う。


「人が死ぬこと」

「失ったものが戻らないこと」

「過去を変えられないこと」


「それを受け入れる人間の方が、おかしいと考えたのか」

ハレルが聞く。


「そうだ」


匠は黒い影を見る。


「律は、悲しみから立ち直れなかったわけじゃない」

「悲しみを、世界を書き換える理由に変えた」


◆ ◆ ◆


【現実世界・雲賀匠の事務所・昼】


木崎は箱の底から、新聞記事の切り抜きを見つけた。


若い女性が亡くなった事故の記事。

名前の部分は、長い時間が経ったためか、インクが薄くなって読みにくい。

その横に、匠の字で短い記録が残っていた。


『律の恋人が事故で死亡。』

『葬儀後、律は研究室からほとんど出ていない。』


次の紙。


『残された記録から人を再構成すると言い始めた。』

『研究ではなく、喪失を否定するための作業になっている。』


さらに、その下。


『私が何を言っても、今の律には届かない。』


木崎はしばらく黙っていた。


白峰律。


クロスワールドゲートを作った男。

冷たい天才だと思っていた。

だが、始まりは一人の人間の死だった。


木崎は記事と匠の記録を撮影し、城ヶ峰へ送る。


『白峰が変わった原因が分かった。』

『恋人の事故死だ。』


数秒後、城ヶ峰から返信が来た。


『事故の詳細を調べる。』

『ただし、遺族や関係者への接触は慎重に進める。』


木崎は携帯端末を置いた。


「最初は人を戻したかった、か」


そして、机の上にある『C』と書かれたノートを見る。


「それが、何人消しても構わない門になった」


◆ ◆ ◆


【どこでもない層/深層】


白峰律は、医療棟で話す匠を見ていた。


ハレルたちへ、自分たちの過去を語る匠。


学生時代の研究。

補助層。

恋人の事故死。

カシウスとの接触。


ジャバは退屈そうに腕を組んでいる。


オルガは、匠の言葉を一つずつ記録していた。


ヴァルドは補助層へ触れ、黒い針がどこまで入れるかを測っている。


カシウスが言った。

「匠は、君が不幸で変わったと考えている」


白峰は穏やかな表情を崩さなかった。

「間違ってはいない」


「認めるのか」


「彼女の死がなければ、私はここまで来なかった」


白峰は医療棟に映るユナを見る。

弟の声に反応する女性。

現実へ戻ろうとしている者。


「だが、私は壊れたわけではない」


白峰の声が少しだけ低くなる。


「壊れているのは、死を取り消せない世界の方だ」


カシウスは何も言わなかった。

否定する理由がなかった。


白峰は、匠のいる補助層へ手を伸ばす。


「懐かしいな」


黒い針が一本、他の針とは違う動きをした。


補助層を壊すのではない。

古い構造をなぞる。

学生時代、匠と白峰が一緒に作った線を探している。


「この層は、私も作った」


白峰が言う。


「匠だけの隠れ場所ではない」


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


匠の背後で、白い線が突然黒く変わった。


「父さん!」

ハレルが主鍵を強く握る。


匠はすぐに振り返った。


黒い針ではない。

もっと滑らかな線。

補助層の古い構造を知っている者が、正しい順序で扉を開こうとしている。


匠の表情が変わった。


「律……」


壁の向こうから、別の声が届いた。

穏やかで、落ち着いた男の声。


『久しぶりだ、匠』


サキが息を呑む。


リオはユナの寝台の前へ出た。


ハレルは白い壁を睨む。

「白峰律か」


返事の代わりに、黒い線が壁の中へ広がった。


『君はまだ、私を止めようとしているのか』


匠は一歩も退かなかった。

「止める」


『彼女を戻せなかった君が?』


匠の目が鋭くなる。


白峰は続けた。


『一ノ瀬ユナは戻そうとする』

『消えた一般人も戻そうとする』

『自分自身も戻ろうとしている』


黒い線が、補助層の白い光へ重なる。


『なのに、私が彼女を戻そうとしたことだけは否定するのか』


匠は静かに答えた。

「お前が戻そうとしているのは、彼女じゃない」


白峰の声が止まる。


「お前が受け入れられる形に組み直した、記憶の中の彼女だ」


黒い線が強く揺れた。


「本人の選択がない」

「だから、お前の門では誰も本当には戻れない」


短い沈黙。


やがて、白峰が小さく笑った。


『相変わらずだな、匠』


匠は白い壁へ手を押し当てる。


「お前も変わっていない」


『違う』

黒い線の奥で、白峰律の影が一瞬だけ浮かんだ。

『私は、ようやく完成に近づいた』


黒い線が、ユナの選択のそばにある影へ伸びる。


匠が叫ぶ。

「ハレル、線を固定しろ!」

「律が直接、選択へ入る!」


ハレルの主鍵が白く輝く。


リオはユナの前に立つ。


サキのスマホで、reが激しく光った。


二人の研究者が学生時代に作った古い層で、再び向かい合った。

今度は、同じ世界を作るためではない。

一人の人間を、どちらの門で戻すのか。


そのための戦いが始まろうとしていた。


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