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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百四十二話 境界にいる父

第242話 境界にいる父



【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


白い壁の向こうに、雲賀匠が立っていた。


頬はこけ、目の下には深い疲れが残っている。

転移した学園の情報処理室で会った時と同じように、

その身体は周囲の景色へ完全には重なっていなかった。


白い線の奥にいるようにも見える。

すぐ目の前に立っているようにも見える。


ハレルは胸元の主鍵を握りしめた。


「父さん」


今度は、驚いて名前を確かめたのではない。

前回のように短い時間で消えられないよう、呼び止めるための声だった。


匠はハレルを見た。


「約束したからな」


ハレルの脳裏に、情報処理室で交わした言葉が戻る。

――次は逃げるな。


あの時、匠は小さく頷いた。

次は、もっと話すと答えた。


サキがreの映るスマホを胸元で握る。

「お父さん、今度はすぐに消えないよね」


匠は一瞬だけ、サキへ父親らしい目を向けた。

だが、すぐにユナの寝台へ視線を戻す。


「前よりは持たせられる」

「ただし、完全にこちらへ出てきたわけじゃない」


ハレルが壁へ近づく。


白い石の表面には、細い光のひびが何本も走っている。

その向こうに匠がいるが、触れようとすれば壁に手が当たるだけだった。


「どこにいるんだ」


「境界の補助層だ」


「前に会った時と同じ場所か」


「近いが、同じではない」


匠は足元に流れる白い線を見た。

「補助層は一つの部屋じゃない。現実と異世界の間に重なっている、いくつもの細い支えだ」

「私は、その支えを移りながら動いている」


リオがユナのそばから聞く。

「身体はどうなってる」


匠は少しだけ黙った。

「完全には固定されていない」


「現実にも異世界にも、身体がないってことか」


「ないわけではない」


匠は自分の手を見る。

指の輪郭が、一瞬だけ白い数字のように崩れ、すぐに元へ戻った。


「境界へ入った時、身体と意識の位置がずれた」

「今の私は、現実側にも異世界側にも一部が残っている」

「どちらかへ無理に出れば、残った側が引き裂かれる」


サキの表情が曇る。

「じゃあ、お父さんは帰れないの」


「今は、まだな」


サキは何かを言おうとした。


しかし、匠が先に続けた。

「だが、戻る方法がないわけじゃない」

「ユナを戻す手順は、私自身を戻す手順にも繋がる」


ハレルは匠を見つめた。

「だからユナさんを先に戻すのか」


「それだけじゃない」

匠はユナの寝台の下を見た。


黒い影は、白い壁のひびが現れてから動きを止めている。

消えたわけではない。

ただ、匠の存在を警戒するように、青い治癒光の外側で細くなっていた。


「ユナの帰還が成功すれば、正しい門を一度、最後まで動かせる」

「その記録が残れば、消えた一般人たちを探す道にもなる」


ハレルは頷いた。

ユナ一人を戻して終わるわけではない。

クロスワールドゲートに消された人たちは、今もどこかにいる。


「そのためにも、あの影を外す」

匠が言った。


リオは黒い影を睨む。

「どうやって」


「攻撃はするな」


「でも、こいつが姉さんの選択に混ざってるんだろ」


「だから攻撃できない」

匠の声が少し強くなる。

「影だけを狙ったつもりでも、ユナ本人の選択まで削る可能性がある」

「Cはそれを待っている」


イデールが治癒結界を維持しながら聞いた。

「では、どう分けるんですか」


匠は答える。

「選択と、選択肢を分ける」


リオが眉を寄せた。

「同じじゃないのか」


「違う」

匠は壁の白い光へ指を触れた。


治療室の中央に、二本の細い線が浮かぶ。

一本は青い。

もう一本は黒い。


「ユナが現実へ戻りたいと思うこと。それが選択だ」

「だがCは、その前に答えを並べようとしている」


黒い線の先に、二つの文字が浮かんだ。


『現実へ戻る』


『異世界に残る』


リオが言う。

「普通の選択に見える」


「そう見せている」

匠が指を動かす。


文字の下から、さらに細い黒い線が現れた。


『現実へ戻る――リオを異世界へ残す』


『異世界に残る――リオを現実へ帰す』


サキが息を呑んだ。

「どっちを選んでも、一緒に帰れない」


「ああ」

匠は頷く。

「Cは、本人の願いを消す必要はない」

「選べる答えを先に狭めればいい」

「人は、目の前に二つしか道がなければ、そのどちらかを選ばなければならないと思う」


リオの拳が震える。

「姉さんに、そんなものを選ばせる気か」


「まだ選ばせていない」

匠は黒い線を見る。

「今は、ユナが目を覚まし、戻る意思をはっきりさせる瞬間を待っている」


イヤーカフからノノの声がした。

『匠さん、聞こえてる』

『つまり、影を消すんじゃなくて、Cが作った選択肢を偽物だと確認すればいい?』


「それだけでは足りない」


『何が必要?』


「第三の道だ」


ノノが黙る。


匠は続けた。

「Cが用意した選択肢の外側に、ユナ自身が道を作る」

「与えられた答えを選ぶのではなく、自分の言葉で帰る方法を決める」


セラの声が通信に入る。

『案内人が必要ですね』


匠の目が、少しだけ細くなった。

「そうだ」


『道を決めるのではなく、偽の道を避けるための案内』


「それができる者が二人いる」


サキがスマホを見る。


「セラさんと、re?」


reが小さく光った。


匠は頷く。

「reは、Cの影が置かれた場所を避けて線を引ける」

「セラは、その線が何を避けているのかを読める」


セラはすぐには答えなかった。

通信の向こうで、わずかな沈黙が落ちる。


『私にできるでしょうか』


「できる」

匠は迷わず答えた。


その言葉に、セラの声が止まる。


匠はセラのことを知っている。

少なくとも、案内人としての力を知っている。

ハレルはそれに気づいたが、今は聞かなかった。


匠も、それ以上は説明しない。


「ハレル」


「何だ」


「主鍵で、ユナの現在位置を固定しろ」


「医療棟にいるって確認するのか」


「それだけじゃない」

匠はユナを見る。

「過去のユナでも、記憶の中のユナでもない」

「今、この身体で治療を受けている一ノ瀬ユナを固定する」


ハレルは主鍵へ手を添えた。


白い光が胸元から伸びる。


「一ノ瀬ユナ」

「王都イルダ医療棟にいる」

「身体とコアは繋がっている」

「今は治療中」


青い治癒光が少し強くなる。

黒い影は動かない。


匠が次にリオを見る。


「リオは、帰る理由を言え」


「理由?」


「後悔ではなく、今の選択としてだ」


リオはユナを見る。


助けられなかったから。


置いてきたから。


自分だけ戻ったから。


それは全部、過去の後悔だ。


Cが使おうとしているものでもある。


リオは一度、息を吸った。


「姉さん」


ユナの指先が動く。


「俺は、置いてきたことをやり直すために来たんじゃない」

「今の姉さんと、これから一緒に生きるために来た」


青い反応が強くなった。


黒い影が、わずかに揺れる。


「家に戻ったら終わりじゃない」

「病院にも行く」

「聞きたいこともある」

「怒りたいことだってある」


リオは少しだけ笑った。


「だから、昔に戻るんじゃない」

「俺と一緒に、これからへ帰ろう」


ユナのまぶたが、わずかに動いた。


サキのスマホでreが強く光る。


白い線が黒い影の横を通り、これまで止まっていた場所より少し先へ伸びた。


ノノの声が上がる。

『補助線、前進!』

『選択反応と黒い影の間が離れてる!』


匠が言う。

「まだだ」

「今の言葉で隙間ができただけだ」


ハレルは聞く。

「次は」


「ユナ本人に、Cが用意していない言葉を選ばせる」


リオは眠る姉を見る。

「目を覚まさせるのか」


「無理には起こさない」

「まず、影と本人反応を完全に分ける」


匠の身体の周囲で、白い線が激しく揺れた。


サキが不安そうに見る。

「お父さん」


「まだ大丈夫だ」


匠は壁のひびへ手を押し当てた。

「日下部とノノに、手順を送る」

「現実側と異世界側で同時に拒否線を作る」

「reが影を避け、セラが道の意味を読む」


「父さんは?」

ハレルが聞く。


匠は黒い影を見た。


「私は、Cが選択肢を作り直すのを止める」


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


日下部の隔離端末に、新しい文字が表示された。


《選択と選択肢を分離》


《偽の二択を拒否》


《第三線を確保》


日下部は画面へ身を乗り出す。

「匠さんからです」


佐伯と村瀬も端末を見る。


床の白い線に、新しい枝が一本加わった。

帰還地点へまっすぐ伸びる線ではない。

途中で大きく横へ曲がり、何もない空間を通ってから寝台へ戻ってくる。


村瀬が聞く。

「遠回りしている?」


「違います」

日下部は線を追う。

「Cが用意した帰還先を避けています」


佐伯が壁の表示を見る。


臨時医療受け入れ室。

今度は文字に揺れはない。


日下部は通信を開いた。

『異世界側、聞こえます』

『現実側で第三線を受け取りました』


ノノが答える。

『こっちも確認!』

『まだ細いけど、医療棟まで伸ばせる!』


日下部は床の白い線へ手を置いた。

「ここは現実世界」

「帰還した学園」

「臨時医療受け入れ室」


佐伯が続ける。

「一ノ瀬ユナを受け入れる」


村瀬も言う。

「与えられた記憶ではなく、本人が選んだ道から」


白い線が強く光った。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


現実側から届いた光が、治療室の床へ現れた。


一本目。

帰還するための道。


二本目。

揺れを逃がす補助線。


そして、新しく加わった三本目。

Cが用意した選択肢を避けるための線。


reが、その線へ近づいた。

画面の中の白い光が、ゆっくり動く。

三本目の線に触れる。


その瞬間。


寝台の下の黒い影が大きく広がった。


青い治癒光へ、何本もの黒い文字が浮かぶ。


『帰る』


『残る』


『弟を守る』


『弟を置いていく』


『現実』


『異世界』


言葉が増えていく。


選択肢を増やしているように見える。


だが、どれもユナを追い込む言葉だった。


匠の表情が変わる。

「来るぞ」


白い壁の向こう。

匠の周囲にも黒い針が現れた。


Cが、匠のいる補助層を見つけた。


ノノが叫ぶ。

『黒い針、補助層へ侵入!』


サキがスマホを握る。

「お父さん!」


匠は黒い針へ手を向けた。


白い文字が何重にも広がる。


「前回は、位置を隠すために消えた」


黒い針が白い線へ突き刺さる。


匠の姿が大きく揺れた。


それでも、匠は動かなかった。


ハレルを見る。


「だが、今回は逃げない」


白い光が、黒い針を押し返した。


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