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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百四十一話 戻せない理由

第241話 戻せない理由



【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


ユナの寝台の下で、黒い影が揺れていた。


リオが「一緒に帰ろう」と言った瞬間、反応した影。

名前には触れない。

身体にも触れない。

医療棟という場所にも触れない。


ただ、ユナがどこへ戻るかを選ぼうとした時だけ、動いた。


イデールは治癒結界を維持したまま、寝台のそばに立っている。

ハレル、リオ、サキは、ユナから数歩離れた場所にいた。

サキのスマホでは、reが黒い影を避けるように白い線を曲げている。


ノノの声がイヤーカフから入った。


『現実側から連絡が来た』

『ユナさんの帰還地点が決まった』


リオがすぐに聞く。

「どこだ」


『帰還した学園』

『校舎一階の保健室を作り直した、臨時医療受け入れ室』


リオは眉を寄せた。

「病院じゃないのか」


『最初は学園へ戻す』

『身体と意識を確認して、安定してから専門の病院へ運ぶ』


「家は?」


その言葉が出た瞬間。

寝台の下の黒い影が、わずかに広がった。


サキのスマホでreが強く震える。


リオも気づいた。

「……自宅って言葉に反応した」


セラの声が通信に入る。

『ユナとリオが暮らしていた家は、記憶が強すぎます』


リオは黒い影を見る。


セラは続けた。

『家族の記憶』

『以前の生活』

『帰れなかった時間』

『Cが入口に使うものが多すぎます』


リオは唇を噛んだ。

家へ連れて帰りたい。

姉が戻ったら、まず自宅の部屋で休ませたい。

以前と同じ場所で、以前と同じように話したい。

その気持ちは本物だった。

だからこそ、Cに利用される。


ハレルが言った。

「最初から全部を取り戻そうとしない方がいい」


リオが見る。

「まず安全な場所へ戻す」

「身体を安定させる」

「それから家へ帰ればいい」


サキも頷く。

「ユナさんが元気になってから、リオと一緒に帰ればいいよ」


リオはユナを見た。

眠ったままの姉。


「……そうだな」


少し間を置き、寝台へ向かって言う。

「姉さん」

「最初に戻るのは、家じゃない」

「帰還した学園の医療室だ」


黒い影が揺れる。

だが、さっきのようには広がらない。


「そこで身体を診てもらう」

「それから、ちゃんと家に帰ろう」


ユナの指先が小さく動いた。


ノノの声が入る。

『反応あり』

『帰還地点の言葉を聞いてる』


リオは続けた。

「今すぐ昔に戻るんじゃない」

「今の姉さんの身体で、現実へ戻る」


寝台の下の黒い影が細く縮んだ。

完全には消えない。


それでも、ユナの青い反応との間に、わずかな隙間ができた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/臨時医療受け入れ室・昼】


保健室の中央には、白い線で囲まれた空間が作られていた。


そこへ新しい寝台が置かれている。


呼吸器。

心拍測定機。

点滴用の器具。

意識反応を確認するための隔離端末。


学校の保健室とは思えないほど、多くの機材が並んでいた。


佐伯は寝台の高さを確認している。


村瀬は壁に貼った表示を見直していた。

『現実世界』

『帰還した学園』

『校舎一階・臨時医療受け入れ室』

『一ノ瀬ユナを治療する場所』


日下部は床の白い線へ小型端末を接続した。

「異世界側へ帰還地点の情報を送りました」


佐伯が聞く。

「反応は」


「ユナさん本人の反応が少し上がっています」


村瀬が安堵する。

「届いたんですね」


「はい」

「ただ、同時に黒い反応も出ました」


三人の表情が硬くなる。


佐伯が寝台を見る。

「自宅の話をしたからですか」


「その可能性が高いです」

日下部は端末に表示された波形を見る。

青い線の横に、細い黒い波がある。

「Cは、帰還地点をただの住所として見ていません」

「そこにある記憶ごと入口にしようとしています」


村瀬は壁の表示へ手を添えた。

「だから、ここを新しい場所として固定する」


「はい」

日下部も表示を読み上げる。

「ここは現実世界」

「帰還した学園」

「校舎一階、臨時医療受け入れ室」

「一ノ瀬ユナを治療する場所」


床の白い線が淡く光る。


その時。


壁に貼られた文字が、一瞬だけ揺れた。


『臨時医療受け入れ室』


その文字が薄くなり、別の言葉が浮かぶ。


『一ノ瀬家・ユナの部屋』


村瀬が息を呑んだ。

「日下部さん!」


「見ています!」

日下部が隔離端末を操作する。


黒い文字が壁の上で揺れる。


さらに、保健室の白い壁が薄く変わり始めた。


小さな本棚。

カーテン。

机の上に置かれた写真立て。


実際にはここにないはずの部屋が、保健室へ重なろうとしている。


佐伯が立ち上がった。

「自宅の記憶が、ここへ入ってきてる」


村瀬は壁へ向かって、はっきりと言った。

「ここは一ノ瀬家ではありません」

「ユナさんの以前の部屋でもありません」

「ここは帰還した学園の臨時医療受け入れ室です」


日下部も続ける。

「過去の記憶を入口にしない」

「帰還地点は、現在存在するこの場所です」


佐伯は寝台へ手を置いた。

「ここで一ノ瀬ユナを受け入れる」

「治療が終わるまで守る」


白い線が強く光った。


重なりかけていた部屋が消える。


机も。

本棚も。

写真立ても。


残ったのは、元の保健室だった。


日下部は黒い波形が下がったことを確認する。

「拒否成功」


村瀬は息を吐いた。

「まだ帰還も始まっていないのに……」


「帰還地点を探しています」

日下部は端末を見つめる。

「Cは、どの記憶なら私たちが受け入れるか試している」


佐伯が聞く。

「城ヶ峰さんへ連絡しますか」


「はい」

日下部はすぐに報告を送る。


帰還地点への記憶干渉。


一ノ瀬家を模した空間の一時出現。


拒否成功。


送信後、日下部は通信回線を再確認した。


「こちらの異常は、ノノさんたちにも共有します」


◆ ◆ ◆


【現実世界・雲賀匠の事務所・昼】


古い箱は、書棚の奥に押し込まれていた。


表面には埃が積もっている。

木崎は箱を机の上へ置いた。

側面に書かれた文字。


『律』


匠の字だった。


木崎は蓋を開ける。

中には、古い紙の資料が何冊も入っていた。

大学の研究資料。

手書きのプログラム。

印刷された論文。


そして、一枚の写真。


木崎は写真を手に取った。


若い男が二人、研究室らしき場所で並んでいる。


一人は雲賀匠。

今より若い。


まだ目元に疲れもなく、珍しく笑っている。


その隣にいるのが白峰律だった。


黒い髪。

細い眼鏡。

穏やかな表情。


二人の後ろにある黒板には、複雑な図が描かれている。


二つの円。

その間を繋ぐ線。

現在使われている境界図に似ていた。


木崎は写真を裏返した。


短い文字が書かれている。


『律と最初の境界実験』


「最初の……」

木崎は眉を寄せた。


匠はクロスゲート社を追っていただけではない。

もっと前。

白峰と一緒に、境界の研究をしていた。


箱の中をさらに探る。


写真の下に、薄いノートがあった。

表紙には何も書かれていない。

最初のページを開く。


匠の手書き。


『律は、帰還先を場所ではなく記憶で固定しようとしている。』


木崎の手が止まる。


次の行。


『本人が強く望む場所なら、座標が曖昧でも戻れるという考えだ。』


さらに、その下。


『だが、記憶は書き換えられる。』

『偽の記憶でも、本人が信じれば門になる。』

『この方法は危険だ。』


木崎は無言で文字を追った。


今、ユナの帰還地点へ自宅の記憶が重なろうとしている。

偶然ではない。


白峰律は、ずっと前から記憶を帰還地点として使おうとしていた。


木崎は写真とノートを並べて撮影した。

城ヶ峰へ送る。

短い文章を添える。


『匠と白峰は共同研究者だった。』

『白峰は、記憶を帰還地点に使う方法を研究していた。』


送信。


すぐに城ヶ峰から返信が来た。

『原本を保全しろ。ほかにも探してくれ。』


木崎は鼻で笑った。

「言われなくてもやる」


ノートをめくる。

数ページ先。


黒いインクで、大きく一文字だけ書かれていた。


『C』


その下には線が引かれ、続きのページが破り取られていた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・仮設指揮室・昼】


城ヶ峰は、木崎から届いた写真を見ていた。


若い匠。

若い白峰律。

二人が並ぶ研究室。

背後の境界図。


捜査員が横から画面を見る。

「雲賀匠は、クロスゲート社の外部調査者ではなかったんですか」


「それだけではなかったらしい」

城ヶ峰は答える。

「白峰律と一緒に、門の原型を作っていた」


「では、雲賀匠もクロスワールドゲートの開発者ですか」


城ヶ峰はすぐには答えなかった。


写真だけでは分からない。

匠がどこまで関わったのか。

いつ白峰と別れたのか。

なぜ白峰を止めようとしたのか。

まだ確認が必要だ。


そこへ、日下部からの緊急報告が届く。

帰還地点への記憶干渉。

一ノ瀬家の部屋が一時的に重なった。

拒否成功。


城ヶ峰は、木崎が見つけたノートの文章を読み直す。


『律は、帰還先を場所ではなく記憶で固定しようとしている。』


同じだ。


城ヶ峰は日下部へ返信する。

『白峰律の研究と一致する。』

『記憶地点への干渉を警戒しろ。』

『自宅だけではない。ユナ本人が強く覚えている場所すべてが候補になる。』


日下部から、すぐに返事が来た。

『了解しました。』

『異世界側にも共有します。』


城ヶ峰は次の指示を出す。

「白峰律の大学時代の研究記録を洗え」

「雲賀匠との共同研究を優先」

「記憶、帰還地点、境界固定、この三つに関わる資料を探せ」


捜査員たちが動き出す。


城ヶ峰は画面の写真を見つめた。

二人は笑っている。

この時には、まだ友人だったのだろう。


「どこで道を分けた」


小さく呟く。


答える者はいない。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】


現実側で起きた干渉が、ノノから伝えられた。


『帰還地点に、自宅の部屋が重なった』

『でも、日下部さんたちが拒否した』

『今は臨時医療受け入れ室へ戻ってる』


リオの表情が硬くなる。

「姉さんの部屋を使ったのか」


『うん』

『それと、城ヶ峰さん側で白峰律の昔の研究が見つかった』


ハレルが聞く。

「何が書いてあった」


『記憶を帰還地点に使う研究』

『本人が強く望む場所なら、座標が曖昧でも戻せるって考えてたみたい』


セラが続ける。

『ですが、記憶は事実と同じではありません』

『本人が信じれば、存在しない場所でも帰還先になってしまう』


サキはreの白い線を見る。

「だからreは、記憶じゃなくて、今ある場所を選んでるんだ」


セラは静かに答えた。

『そうだと思います』


リオはユナへ話しかける。

「姉さん」

「家に帰りたいと思っても、その景色について行くな」


ユナの指が、わずかに動く。


「最初に戻るのは、学園の医療室だ」

「そこに日下部さんたちがいる」

「佐伯さんと村瀬さんも待ってる」


黒い影が細かく揺れる。


リオは続けた。

「家は、その後だ」

「俺と一緒に、本当に帰る」


青い反応が少し強くなった。


サキのスマホで、reが白い線を一本伸ばす。

その線は、黒い影を避けながらユナの指先へ近づいていく。

だが、途中で止まった。


何かが足りない。


ハレルは主鍵を握った。

「帰還地点は決まった」

「ユナさんも聞いている」

「それでも、まだ道が繋がらない」


ノノが言う。

『選択の影を外す方法がない』


治療室に沈黙が落ちた。


その時。


ハレルの主鍵が、急に熱くなった。


「っ……!」


ハレルは胸元を押さえる。


主鍵から、細い白い線が伸びた。

reの補助線とは違う。

もっと古い。

不安定で、ところどころ切れた線。


その線は治療室の壁へ向かい、白い石の表面に触れた。


壁が、わずかに揺らぐ。


サキが息を呑む。

「お兄ちゃん、あれ……」


壁の向こうに、人の影が見えた。

背の高い男。

こちらへ歩いてくる。


完全な身体ではない。

景色の中に半分だけ重なったような姿。


ノノが通信越しに声を上げる。


『新しい反応!』

『Cじゃない!』

『主鍵と、匠さんの手順に一致してる!』


ハレルは、壁の向こうに浮かぶ人影を見つめた。


頬のこけた顔。

目の下に残る深い疲れ。

白い層の中に半分だけ重なった、不安定な姿。


間違えるはずがなかった。

少し前、転移した学園の情報処理室で会った父。


あの時、匠は補助層に留まるため、短い時間しか姿を見せられなかった。

そしてハレルは、消えていく父へ言った。


次は逃げるな、と。


壁の向こうの匠が顔を上げる。


遠く、途切れた声が治療室へ届いた。


「帰還先は、それでいい」


ハレルは主鍵を握りしめた。

「父さん」


前のような驚きではない。

また姿を消す前に、今度こそ聞かなければならないという緊張が、胸の奥へ広がった。


匠はハレルとサキを見た。

その視線が、一瞬だけ父親のものに戻る。


「約束したからな」


ハレルは息を止めた。


情報処理室で交わした言葉を、匠も覚えていた。

――次は逃げるな。


匠は、寝台の下で揺れる黒い影へ目を向けた。

「今度は、前より長く話す」

「だが、その前にユナを戻す」


白い壁に、ひびのような光が走る。


匠は続けた。

「帰還先は固定できた」

「次は、ユナの選択からCの影を剥がす」


サキがスマホを胸元で握りしめる。

「お父さん、今度はすぐに消えないよね」


匠はすぐには答えなかった。


白い線が、その身体の周りで不安定に明滅している。

それでも、前のように話を急いで終わらせようとはしなかった。


「ああ」

「今度は、できる限りここにいる」


ハレルは父を見つめたまま、静かに頷いた。

前は、帰還のために必要な手順を聞いた。

今度は、それだけでは終わらない。


白峰律のこと。

Cのこと。

そして、父が今までどこにいたのか。

聞かなければならないことが、いくつも残っていた。


壁の向こうで、雲賀匠が一歩前へ進んだ。


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