第二百三十九話 本物のユナ
第239話 本物のユナ
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室前・昼】
白い扉の向こうで、ユナは眠っていた。
青い治癒光。
規則正しく上下する胸。
以前、この医療棟でコアを戻した時よりも、顔色は落ち着いている。
だが、寝台の下にはまだ薄い黒い影が残っていた。
リオは扉の前で足を止めている。
姉は、すぐそこにいる。
手を伸ばせば届く。
けれど、今は近づくだけでも慎重にならなければならない。
イデールが扉の横にある水晶板へ手を置いた。
「今から治療結界を一段だけ開く」
リオが聞く。
「中に入れるのか」
「入れるわ」
イデールは頷いた。
「でも、まだユナには触らないで」
「黒い影があるからか」
「ええ」
イデールは寝台の下を見る。
「今は治癒結界の外側で止まってる」
「でも、あれが何に反応するのか、まだ全部は分かってないの」
サキはスマホを見た。
reは画面の中央で静かに光っている。
白い線は治療室の中へ続いていた。
だが、ユナの寝台へまっすぐ伸びてはいない。
寝台の手前で一度止まり、少し右へ曲がっている。
「reも、すぐ近づくなって言ってるみたい」
ハレルは胸元の主鍵に触れた。
主鍵は熱を持っている。
医療棟へ着いてから、ずっと反応が続いていた。
「まず、確認するんだよな」
イデールは頷いた。
「名前」
「身体」
「場所」
「本人の反応」
その時、イヤーカフからノノの声が入った。
『聞こえる?』
「聞こえる」
ハレルが答える。
『こっちは分析室』
『セラもいる』
『日下部さんたちとも細い通信は残ってる』
ノノの声の向こうで、水晶板を操作する音が聞こえた。
『今から一つずつ確認する』
『全部が揃っても、すぐには動かさないで』
『最後の“選択”にCの影がいる可能性があるから』
リオはユナを見たまま答えた。
「分かってる」
イデールが治療室の扉を開いた。
青い光が、廊下へゆっくり広がる。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
三人は、ゆっくり中へ入った。
サキを真ん中にして、ハレルとリオが左右を歩く。
イデールは先に寝台の横へ戻った。
室内には、薬草と銀粉の匂いが満ちている。
壁には何重もの治癒術式。
床には青い結界線。
その中心に、ユナがいる。
リオは寝台から数歩離れた場所で止まった。
「姉さん」
ユナのまぶたが、わずかに揺れた。
リオは続ける。
「一ノ瀬ユナ」
「王都イルダ医療棟にいる、俺の姉さん」
寝台の下。
黒い影が少しだけ動く。
だが、ユナの右手も動いた。
指先が、ほんの少しだけリオのいる方へ向く。
ノノの声が入る。
『名前反応、確認』
『前に通信で呼びかけた時と同じ』
『ユナさん本人の反応だと思う』
リオは息を吐いた。
「姉さん、俺だ」
「涼だ」
ユナの指先が、もう一度動く。
今度は、少しだけ強い。
イデールが水晶板を見る。
「呼吸も変わった」
「声に反応してる」
サキが小さく言った。
「聞こえてるんだ」
ハレルは頷いた。
「たぶん」
だが、まだ安心はできない。
名前だけなら、Cも使える。
今まで何度も、人の名前を入口にしてきた。
ノノも同じことを考えていた。
『次、身体の確認』
『イデール、お願い』
「分かった」
イデールはユナの胸元へ手をかざした。
青い光がゆっくり広がる。
頭。
胸。
両腕。
そして、足元。
光は身体の輪郭をなぞり、その内側へ沈んでいく。
水晶板に、一つずつ反応が表示された。
呼吸。
脈。
治癒反応。
意識コア。
イデールは画面を見つめる。
「身体反応、安定」
「コアと身体のずれも、前より小さい」
リオが聞く。
「戻せるのか」
イデールはすぐには答えなかった。
「身体だけなら、前よりずっと安定してる」
「身体だけ?」
「戻るには、それだけじゃ足りない」
ノノが続ける。
『でも、器の確認はできた』
『今ここにいるユナさんは、名前だけじゃない』
『コアだけでもない』
『ちゃんと身体と繋がってる』
リオは、少しだけ肩の力を抜いた。
一つ。
確認できた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/分析室・同時刻】
ノノの前にある水晶板には、四つの枠が表示されていた。
名前。
器。
場所。
選択。
最初の二つに、青い光が入る。
セラは、その横で医療棟の結界を見ていた。
「次は場所ですね」
「うん」
ノノは別の水晶板を開く。
医療棟。
オルタ・スパイア。
旧石造建物。
三つの場所が表示された。
オルタ・スパイアの点は、アデルたちが固定している。
石造建物の点は、ダミエとミレイが入口記憶を押さえている。
そして中央。
イルダ医療棟。
青い光が安定していた。
ノノは通信を開く。
『アデル、そっちは?』
すぐに返事が来る。
『入口は閉じたままだ』
『記憶固定も維持している』
『黒い針は?』
『動いている』
『だが、まだこちらを入口にはできていない』
次に、別の通信。
『ダミエ、石造建物は?』
『開いてない』
『記録だけ残ってる』
『今は通る場所じゃない』
ミレイの声も入る。
『予備拒否点、安定しています』
『医療棟側への誤接続はありません』
ノノは頷いた。
「よし」
セラが医療棟の反応へ手を重ねる。
「ここは王都イルダ」
「王国医療棟」
「治療中の者を守る場所」
「過去の記憶ではなく、今存在している場所」
青い光が強くなる。
三つ目の枠。
場所。
そこにも光が入った。
ノノは息を吐く。
「名前」
「器」
「場所」
セラは最後の枠を見る。
選択。
そこだけが暗い。
正確には、何もないわけではない。
青い光がある。
だが、そのすぐ横に黒い影が重なっていた。
「やはり……」
セラが小さく言う。
ノノは眉を寄せた。
「C?」
「まだ分かりません」
セラは、黒い影を見つめる。
「けれど、この影はユナの名前には触れていません」
「身体にも、場所にも」
「じゃあ何を待ってるの」
少しの沈黙。
セラは答えた。
「ユナが、自分で戻ると決める瞬間です」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・治療室・昼】
ノノから確認結果が伝えられた。
『名前、確認』
『器、確認』
『場所、確認』
リオはユナを見る。
三つ。
あと一つ。
「じゃあ、姉さんが帰るって決めればいいんだな」
すぐにノノが答える。
『待って』
『まだ聞かないで』
リオの表情が変わる。
「何でだ」
『選択の近くに黒い影がある』
寝台の下。
薄い影。
さっきから、そこにある。
リオは影を睨んだ。
「これがCなのか」
『Cそのものかは分からない』
『でも、ユナさんが帰るって選ぶ瞬間を待ってる』
ハレルが聞く。
「選んだら、どうなる」
日下部の声が、現実側から細く入った。
『選択に影が重なった場合、帰還先を書き換えられる可能性があります』
「書き換える?」
『ユナさんは現実へ帰るつもりでも』
『実際には、Cが用意した別の場所へ送られるかもしれません』
サキはスマホを強く握った。
reが小さく震える。
白い線は、ユナへ伸びている。
だが、黒い影を避けるように大きく曲がっていた。
「reも、あの影を避けてる」
ハレルは主鍵へ触れた。
「先に影を外せないのか」
ノノは少し考えてから答える。
『無理に消すのは危ない』
『ユナさんの本物の選択まで傷つけるかもしれない』
リオは唇を噛んだ。
姉は目の前にいる。
名前も確認できた。
身体もある。
場所も間違っていない。
それなのに、まだ連れて帰れない。
「また待つのか」
誰に聞いたわけでもない。
イデールが静かに言った。
「今まで待ったのとは違うわ」
リオが見る。
「今は、ユナのすぐそばにいる」
「何が足りないのかも分かってる」
リオは何も言わなかった。
イデールは続ける。
「急いで間違った場所へ送るより、ここで正しい道を作るの」
リオは寝台を見る。
ユナの指先。
静かな呼吸。
青い光。
そして、その下にある黒い影。
しばらくして、リオは頷いた。
「分かった」
その時。
ユナの指が動いた。
ゆっくり。
リオのいる方へ伸びる。
「姉さん?」
リオも手を出しかける。
だが、触れる直前で止めた。
ユナの唇がわずかに動く。
声は弱い。
ほとんど息に近い。
「……リ……オ……」
リオの目が大きく開いた。
「姉さん」
ユナは目を閉じたまま。
それでも、確かにリオを呼んだ。
水晶板の青い反応が強くなる。
ノノの声も震えた。
『本人反応、確認』
『名前だけじゃない』
『リオの声を聞いて、ユナさん本人が返してる』
サキは嬉しそうに笑った。
「本物だ」
ハレルも頷く。
「ああ」
リオは、涙をこらえるように息を吸った。
「姉さん」
「迎えに来た」
ユナの指が、少しだけ動く。
「一緒に帰ろう」
その言葉が出た瞬間。
寝台の下。
黒い影が大きく揺れた。
◆ ◆ ◆
青い治癒光の中へ、細い黒い線が伸びる。
ユナの身体ではない。
リオの手でもない。
二人の間。
「一緒に帰る」
その言葉へ向かって。
サキのスマホで、reが激しく震えた。
白い線が飛び出す。
黒い線と、ユナの指先の間へ入る。
「re!」
ハレルの主鍵も強く熱を持った。
リオは反射的に一歩下がる。
イデールが治癒結界を広げた。
「ここはイルダ医療棟!」
「今は治療中!」
「まだ移動しない!」
黒い線が止まる。
だが、消えない。
青い光の外側で、細く揺れている。
ノノの声が響いた。
『やっぱり……』
『三つは本物』
『名前も、器も、場所も、本物』
ハレルは黒い影を見る。
「でも、最後だけ違う」
『うん』
ノノは答えた。
『選択のそばに、Cがいる』
治療室に沈黙が落ちた。
リオはユナを見た。
ユナは、確かにここにいる。
偽物ではない。
名前だけでもない。
記憶の中でもない。
本物の姉。
だからこそ。
最後の選択だけは、誰にも奪わせてはいけない。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cは、医療棟の反応を見ていた。
名前。
器。
場所。
本人反応。
四つの光。
そのうち、最後の一つだけがまだ揺れている。
灰色の長衣をまとった男。
オルガ・セフィロが静かに言った。
「本人反応と、選択は同じではない」
白峰律は、医療棟に映るユナを見つめる。
「そうだね」
「呼びかけに答えたからといって、帰る場所まで決めたわけではない」
ヴァルド・レイグは、黒い影へ目を向けた。
「最後の道は、まだ開いていない」
カシウスは何も言わない。
Cは、ユナの選択の近くへ置いた影を観測する。
「選択反応を待ちます」
白峰は、穏やかに笑った。
「なら、待とう」
「彼女が自分で、帰ると言うまで」




