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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十七章 消された研究者編

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第二百三十八話 医療棟外縁

第十七章 消された研究者編


第238話 医療棟外縁




【異世界・王都イルダ/医療棟外縁・昼】


足の裏に、硬い地面の感触が戻った。


次の瞬間、ハレルたちの背後で透明な輪が細く縮み、音もなく閉じた。

現実世界の仮設通信室。机の上に残してきたハレルとリオのスマホ。

城ヶ峰や日下部たち。

そのすべてが、光の向こうへ消えた。


残ったのは、冷たい風と、薬草の匂いだった。


「……着いた」

サキが小さく言う。

胸の前には、reの映るスマホがある。画面の中で、小さな光が淡く揺れていた。


ハレルは周囲を見回した。


目の前にあるのは、白い石で造られた大きな建物。

王都イルダ医療棟。


以前、ユナのコアを戻すために訪れた場所だった。

あの時、ハレルもリオも、この医療棟でユナに会っている。

だが、学園が現実へ帰還してからは、再び世界を隔てられた。

今、ユナはまた、この建物の中にいる。


リオは医療棟を見上げた。


「姉さん……待ってろ」


すぐに走り出しそうになる。


だが、その前にサキが声を上げた。


「待って」


リオが振り返る。


サキのスマホで、reが激しく揺れていた。

白い光は医療棟ではなく、横に広がる林へ向いている。


「何かいる」


ハレルは主鍵のネックレスに触れた。

熱はある。

だが、現実側にいた時よりも反応が鈍い。

仮設門を越えた直後で、まだ身体も座標も完全には安定していない。


「リオ」


「ああ」


リオも右手首の副鍵へ触れた。

腕輪は淡く光っている。


その時。


林の奥で、枝が折れた。


ぱきり。


一度。


続いて、別の場所。


ぱき。


ぱきり。


音が増えていく。

風は吹いていない。

それなのに、木々の影だけが揺れていた。


ハレルはサキを背中側へ下がらせる。


「俺たちから離れるな」


「うん」


林の中に、黒い点が浮かんだ。


二つ。


四つ。


六つ。


目だった。

地面近くに並んだ黒い目。

その奥から、獣の形をした影が姿を現す。


狼に似ている。


だが、脚が長すぎる。

身体の一部が煙のように崩れ、また別の場所で形を作っている。


一体。


二体。


さらに奥から、三体。


全部で五体。


リオは右手を前へ出した。


「こんな時に……!」


副鍵の光が腕を伝う。

だが、いつものように術式が安定しない。

指先へ集まった光が、途中で細く途切れた。


「まだ転移の揺れが残ってる」


ハレルは主鍵を握る。

「無理に大きい術を使うな」


黒い獣影の一体が、低く身を沈めた。

次の瞬間。


地面を蹴る。


速い。


「サキ、下がれ!」


リオが前へ出た。


獣影の爪が振り下ろされる。


リオは右腕で受けた。

副鍵の光が一瞬だけ盾の形になる。


だが、まだ不安定だった。


衝撃でリオの身体が後ろへ押される。


「くっ……!」


「リオ!」


ハレルが主鍵を前へ向けた。

白い線が伸び、獣影の身体へ絡みつく。


けれど、完全には止まらない。


影の身体が白い線の隙間から煙のように崩れ、別の形になって抜け出した。

林の左右から、残りの獣影も走り出す。


一体はハレル。


二体はサキ。


残る二体は、医療棟の外壁へ回り込もうとしていた。


「来る!」


サキがスマホを抱える。


reが強く光った。

白い線が、サキの足元から右へ曲がる。

サキは反射的に、その線へ一歩動いた。


直後。


さっきまで立っていた地面を、黒い爪が切り裂いた。

三本の黒い傷が残る。


「re……ありがとう」


だが、獣影はすぐに向きを変えた。

再びサキへ飛びかかる。


ハレルが走る。

間に合わない。


その時。


医療棟の上から、白い光が降った。


「伏せてください!」


知らない女性の声。


サキが頭を下げる。


白い光が獣影の身体を貫いた。

爆発ではない。

柔らかな治癒の光。


だが、黒い獣影は大きく身体をのけぞらせた。

影の表面から、黒い煙が剥がれていく。


「ギィィ……!」


獣とも人とも違う声が響く。


続いて、医療棟の横から三人の術師が現れた。

全員、白と青の治療服を着ている。

武器は持っていない。

代わりに、両手の間へ淡い光を集めていた。


先頭の女性術師が叫ぶ。

「治療班、外縁結界を展開!」


後ろの二人が同時に術式を開いた。

「〈光癒・浄輪〉!」


白い輪が地面へ広がる。

ハレルたちを囲み、そのまま獣影の足元まで伸びた。

黒い脚が光に触れる。

その部分だけが薄く崩れる。


獣影たちは一斉に後退した。


リオはすぐに状況を理解する。


「治癒光で押し返すのか」


「はい!」


先頭の女性術師は、獣影から目を離さずに答えた。


「外縁結界まで下がってください!」

「この場所なら、私たちの術を広く使えます!」


ハレルたちも、獣影に光系治癒術が効くことは知っている。

以前にも、傷や歪みを形にした影が、治癒の光によって崩れるところを見てきた。


ハレルはサキを結界の内側へ下がらせる。


「リオ、無理に追うな」


「分かってる」


獣影の一体が、もう一度飛びかかった。

女性術師は片手を向ける。


「〈照癒・白環〉!」


白い光が円を描いた。


獣影の胸へ触れる。

黒い身体が大きく揺らぐ。

背中が崩れ、脚が消える。

獣影は地面へ落ちる前に、煙へ変わった。


残る四体が、林の奥で動きを止めた。

黒い目だけが光っている。


治療術師たちは、ハレルたちの前に並んだ。


「医療棟へは近づけさせません」


白い光が強くなる。


獣影たちは低い声を上げた。

だが、襲ってこない。


一歩。

また一歩。

ゆっくりと林の奥へ下がっていく。


最後まで、黒い目だけはハレルたちを見ていた。


やがて、木々の影へ溶ける。


林は再び静かになった。


◆ ◆ ◆


女性術師は、しばらく林を見ていた。

完全に気配が遠ざかったことを確認してから、ハレルたちへ振り返る。


「けがはありますか」


リオが右腕を見る。

爪を受けた場所に、薄い黒い傷が残っていた。


「少しだけ」


女性術師はすぐに近づく。


「見せてください」


「いや、このくらいなら――」


「医療棟の外で黒い傷を放置しないでください」

強い口調だった。


リオは少し驚きながらも腕を出した。


女性術師が手をかざす。

白い光が傷を包む。

痛みが薄れ、黒い線も少しずつ消えていく。


「イデールの部下か」

ハレルが聞く。


女性術師は頷いた。


「はい。私たちは医療棟外縁を守る治療班です」

「イデール様はユナさんのそばを離れられません」

「そのため、私たちが迎えに来ました」


リオの表情が変わる。

「姉さんは」


「安定しています」

女性術師はすぐに答えた。

「ですが、あなたたちが門を越えた時、反応が少し強くなりました」


「悪くなったのか」


「いいえ」

女性術師は少し迷ってから言った。

「目を覚まそうとしているようにも見えます」


リオは医療棟を見た。

すぐにでも走りたい。

だが、一度息を吸い、足を止める。


「分かった」


女性術師は少し意外そうな顔をした。

以前のリオなら、説明の途中でも走り出していたかもしれない。

けれど、今は待つことを選んでいる。


「こちらです」


治療術師たちが歩き出す。

正面入口ではない。

医療棟の外壁沿いにある細い通路。


サキのスマホで、reも同じ方向へ白い線を伸ばした。


ハレルが気づく。

「reも、そっちを示してる」


先頭の女性術師が振り返った。

「正面入口は使えません」


「Cの影か」


「はい」


女性術師は表情を曇らせる。

「今朝から、入口の近くに黒い揺れが出ています」

「患者や治療術師には、まだ触れていません」

「ですが、外から誰かが入ろうとすると反応します」


サキはスマホを見る。

reは正面入口へ近づこうとしない。

白い線は建物の横を通り、青い治癒結界の内側へ続いている。


「最初から、こっちを通るつもりだったんだ」

サキが言う。


ハレルは林を振り返った。

黒い獣影は消えた。

だが、倒したわけではない。

光を嫌い、引いただけだ。


「さっきの獣影は、いつからいる」


女性術師は歩きながら答えた。

「数日前から、林の中で一体か二体は確認されていました」

「でも、同時に五体も現れたのは初めてです」


リオが低く言う。

「俺たちを待ってた」


誰も否定しなかった。


仮設門が開くことを知っていた。

三人がここへ来ることを知っていた。

そして、医療棟の外で待っていた。


ハレルは主鍵を握る。


「Cか」


サキのスマホで、reが小さく震えた。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・側面通路・昼】


青い結界を越える。

空気が変わった。

外の冷たい風が弱くなり、代わりに薬草と銀粉の匂いが濃くなる。


壁には治癒術式が何重にも刻まれていた。

白い光が、ゆっくり流れている。


サキが小さく息を吐いた。

「ここ、少しあったかい」


女性術師が答える。

「治療結界の中です」

「身体だけでなく、名前や意識が外へ流れないようにしています」


ハレルは壁の術式を見る。


名前。


器。


場所。


ユナをここへ留めているもの。


その先から、イデールの声が聞こえた。


「こちらです!」


通路の奥。

白い扉の前に、イデールが立っていた。

普段より疲れた顔。


だが、ハレルたちを見ると少しだけ安心した。


「無事でよかった」


リオはイデールの横を見る。


扉の向こう。


青い治癒光。


その奥にある寝台。


白い布。


長い髪。


眠っている女性。


以前、この医療棟でユナのコアを戻した時にも見た姿。

けれど、あの時より顔色は落ち着いている。

呼吸も静かだった。


「……姉さん」


リオの声がわずかに震える。


また会えた。

だが、喜んで近づくだけではいけない。

ユナの寝台の下には、Cが残した黒い影がある。

そのことを、リオは知っている。


一歩進みかけて、止まった。


サキのスマホで、reが一度だけ強く光る。


イデールも静かに言った。

「まだ、ゆっくり」


リオは頷く。

「ああ」

「分かってる」


ハレルは胸元の主鍵へ触れた。

主鍵は熱い。


医療棟の中。


ユナの近く。


そして、そのさらに奥。


見えない場所で、何かがこちらを見ている。


◆ ◆ ◆


【どこでもない層/深層】


黒い獣影が、林の奥へ戻っていく。

傷ついた影。

光に削られた身体。


ジャバは、その様子を見て舌打ちした。

「使えねえな」


Cは静かに言った。


「治癒光との反応を記録しました」


「記録、記録って」


ジャバは苛立ったように肩を回す。

「今がチャンスだろ」


Cは答えない。


画面の向こう。


ハレル。

リオ。

サキ。


三人は、もう医療棟の中にいる。


ユナのすぐ近く。


ジャバは口角を上げた。

「門を越えた直後だ」

「主鍵も副鍵も、まだ揺れてる」

「今ならまとめて潰せる」


奥にいたカシウスは、何も言わなかった。


ジャバは、それを止められなかったと受け取った。


「俺が行く」


黒い影が、ジャバの足元へ集まる。

獣の形。

爪。

大きな牙。


「今度は治療術師ごと――」


ジャバが一歩踏み出した。


その時。


暗がりの奥から、知らない声がした。


「勝手な真似はやめてもらいたいな」


ジャバの足が止まる。

「……誰だ」


ゆっくりと、一人の男が光の中へ出てきた。


黒い髪。

細身の身体。

研究者にも、企業の経営者にも見える落ち着いた姿。


男は、穏やかに笑っていた。


その後ろ。


灰色の長衣をまとった男が立つ。


冷たい目。

誰か一人を見るのではなく、その場のすべてを分析しているような視線。


さらに、その隣。


大柄な男。

古い王都式の結界衣。

言葉を発さず、深層の境界へ手を触れている。


Cの黒い針が、わずかに止まった。


カシウスは三人を見る。


「ようやく来たか」


黒髪の男は笑みを崩さない。


「門が開いたからね」

「見届けないわけにはいかない」


ジャバが低く唸る。

「何者だ」


Cが静かに答えた。


「白峰律」


黒髪の男。


「オルガ・セフィロ」


灰色の分析官。


「ヴァルド・レイグ」


沈黙する結界術士。


三人の幹部。


クロスワールドゲートを作った者たちが、初めて同じ場所に姿を現した。


白峰律は、医療棟に映るハレルたちを見た。


そして、静かに言った。


「さて」


「匠の門が、どこまで持つか見せてもらおう」


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