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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十六章 再起動する門編

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第二百三十三話 境目のユナ

第233話 境目のユナ



【異世界・王都イルダ/医療棟・午前】


医療棟の白は、現実世界の白とは違っていた。


病院の白ではない。

研究施設の白でもない。


治癒光を受けた石壁が、薄く青を含んでいる。

薬草の匂いと、術式に使う銀粉の匂いが混ざっている。

窓の外からは、王都の風が入ってくる。


ここはイルダの医療棟。


一ノ瀬ユナが眠っている場所。


イデールは、寝台の横に立っていた。


「ここはイルダ医療棟」

「ユナは治療中」

「転移対象ではない」


ノノから言われた言葉を、何度も繰り返す。


名前を呼びすぎてはいけない。

けれど、無言にしてもいけない。


だから、場所を固定する。


ここはイルダ医療棟。

ここは治療の場所。

ここは門ではない。


ユナの指先が、微かに動いた。


イデールは息を呑む。


「……聞こえてるのね」


返事はない。


だが、ユナのまぶたがわずかに震える。


その瞬間、寝台の下を走っていた黒い線が、少しだけ濃くなった。


針ではない。

壁や床に刺さる細い点ではない。


もっと広く、もっと薄い。


床そのものに、誰かの記憶が染み込むような線だった。


イデールは治癒光を強める。


「ここはイルダ医療棟」

「ユナは治療中」

「ここからは、どこにも行かない」


黒い線は、一瞬だけ止まった。


だが、完全には消えない。


その線の奥に、別の景色が滲みかけた。


ガラス張りのオフィス。

夜のモニター。

青白いコード。

クロスゲート・テクノロジーズ社の開発室。


そして、若い女性の手。


キーボードを打つ手。

疲れていても止まらない手。

誰かの名前を検索し、何度も消して、また打ち直す手。


イデールは、その景色を見てはいけないと直感した。


これはユナの記憶だ。


けれど、今ここで開いていいものではない。


「ノノ!」


通信に叫ぶ。


「ユナの記憶が、床に出てる!」

「クロスゲートの……開発室みたいな場所!」


ノノの声がすぐに返った。


『見すぎないで!』

『それはCが使おうとしてる入口かもしれない!』

『イデール、場所固定を続けて!』


「分かった!」


イデールはユナの手に触れようとして、止めた。


触れていいのか。

触れたら、こちらの反応まで入口にされるのではないか。


一瞬の迷い。


その時、ユナの唇がわずかに動いた。


声にはならない。


けれど、確かに何かを言おうとしていた。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/分析室・午前】


ノノは、医療棟から送られてきた反応を見て、顔色を変えた。


「ユナさんの記憶層が開きかけてる」


水晶板の上に、医療棟の寝台が映っている。

その下に、黒い線。

その上に、薄い青の治癒光。


そして、奥に滲むクロスゲート社の開発室。


セラは、静かに画面を見つめていた。


「記憶の入口化です」


「うん」

ノノは頷く。

「でも、完全にCのものじゃない」

「ユナさん本人の反応も混ざってる」


セラが聞く。

「本人の反応?」


「指が動いてる」

「呼吸も安定してる」

「それに、黒い線が出た時、ユナさんの中から抵抗みたいな揺れがある」


ノノは水晶板を拡大する。


黒い線の周囲に、ほんの薄い青の点がある。


ユナのコア反応。

完全ではない。

弱い。

けれど、確かにそこにある。


「名前だけじゃない」

ノノは呟いた。

「器は医療棟にある」

「場所も医療棟」

「本人の反応もある」


セラが静かに言う。

「なら、慎重に繋げれば、本物の確認ができます」


ノノは顔を上げた。

「でも、リオに聞かせたら危ない」


「隠せば、もっと危ない」


セラの声は淡い。

けれど、逃げ道を塞ぐようにまっすぐだった。


「リオは、一ノ瀬ユナの名に反応します」

「だからこそ、偽物と本物の違いを知らなければならない」


ノノは唇を噛んだ。


確かにそうだ。


リオは、画面に出た名前だけで揺れた。

でも、押さなかった。


なら、次に必要なのは、ただ遠ざけることではない。


本物のユナがどこにいるのかを、正しく知ることだ。


「……分かった」


ノノは通信を切り替えた。


『ハレル』

『リオ』

『聞こえる?』


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/仮設通信室・午前】


リオは、伏せたスマホから目を逸らしていた。


机の上では、まだクロスワールドゲートが震えている。

画面を伏せていても、黒い光が時々漏れる。


まるで、中からこちらを呼んでいるようだった。


ノノの声が入った。


『リオ』

『落ち着いて聞いて』


その一言だけで、リオの表情が変わる。


「姉さんか」


ハレルが横を見る。


サキも息を止めた。


ノノは、言葉を選びながら続けた。


『医療棟で、ユナさんの記憶反応が出てる』

『Cが触ろうとしてる』

『でも、ユナさん本人の反応もある』

『今すぐ危険って意味じゃない』

『でも、確認が必要』


リオは拳を握った。

「俺に、何をしろっていうんだ」


『呼びかけてほしい』

ノノは言った。

『でも、名前だけを叫ばないで』

『ユナさんがいる場所を一緒に言って』

『ここはイルダ医療棟』

『ユナさんは治療中』

『俺は画面からじゃなく、通信で呼んでいる』

『そういう形で』


リオは、伏せたスマホを見た。


画面の向こうではない。

アプリの中ではない。


姉は、イルダ医療棟にいる。


リオは、震える息を吸った。


「分かった」


ハレルが言う。

「俺も一緒に言う」


サキも頷く。

「私も」


サキのスマホでは、reが静かに光っている。

黒い針がどこから来るのかを探すように。


ノノが通信線を細く開いた。


『短く繋ぐ』

『声だけ』

『映像は開かない』

『記憶が強すぎるから、見たら危ない』


リオは頷く。


「やってくれ」


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/医療棟・午前】


イデールの持つ水晶板に、現実側の声が入った。


細い。

途切れそうな声。


けれど、確かに届いている。


『姉さん』


リオの声だった。


ユナの指先が、ぴくりと動く。


黒い線が、同時に濃くなる。


イデールがすぐに言う。


「ここはイルダ医療棟」

「ユナは治療中」

「ここは門ではない」


通信の向こうで、リオも続けた。


『ここは、イルダ医療棟』

『姉さんは、治療中』

『俺は、アプリから呼んでるんじゃない』

『ノノたちの通信で呼んでる』


ユナのまぶたが、震える。


黒い線の奥で、クロスゲート社の開発室が滲みかける。

だが、リオの声がそこへ入った瞬間、景色が揺れた。


開発室のモニターが歪む。


代わりに、医療棟の青い光が強くなる。


リオは、声を震わせながら続けた。


『姉さん』

『俺だ』

『リオだ』

『一ノ瀬涼だ』


ノノの声が割り込む。


『リオ、場所も!』


リオはすぐに言い直した。


『イルダ医療棟にいる姉さんへ言ってる』

『画面の中の名前じゃない』

『本物の姉さんへ言ってる』


ユナの唇が動いた。


イデールが息を呑む。


「ユナ?」


かすかな声。


空気に溶けそうなほど弱い声。


それでも、確かに音になった。


「……リ……オ……」


リオの呼吸が止まった。


通信越しに、ハレルもサキも言葉を失う。


ノノが叫びそうになり、必死に抑えた。


『反応確認』

『ユナさん本人の発声反応』

『場所、医療棟で固定継続!』


イデールはすぐに繰り返した。


「ここはイルダ医療棟」

「ユナは治療中」

「ここは門ではない」


ユナの声は、それ以上続かなかった。


だが、指先がもう一度動く。


黒い線が、少しだけ引いた。


完全には消えない。


けれど、さっきより医療棟の床から離れている。


ノノの声が震えた。


『成功……』

『少しだけ、戻した』


◆ ◆ ◆


【現実世界・帰還した学園/仮設通信室・午前】


リオは、何も言えなかった。


ただ、通信の向こうを見つめている。


映像はない。

水晶板の光もない。


声だけだった。


だが、リオは確かに聞いた。


「リオ」と。


姉の声で。


リオは両手で顔を覆った。


「……生きてる」


誰も、それを否定しなかった。


ハレルは静かに言った。

「ああ」


サキも、小さく頷く。


「ユナさん、ちゃんとそこにいる」


机の上で、伏せられたスマホが強く震えた。


黒い光が漏れる。


まるで、今の反応に怒っているように。


リオは、スマホを見なかった。


代わりに、はっきりと言った。


「姉さんは、そこじゃない」


スマホの震えが、少しだけ弱くなる。


「姉さんは、イルダ医療棟にいる」

「治療中だ」

「俺は、画面の中の名前には行かない」


サキのスマホで、reが強く光った。


reは、リオの伏せたスマホと、ノノの通信線の間に、細い白い線を引いた。

その白い線は、黒い光を避けるように曲がり、通信の方へ伸びている。


ノノが息を呑む。


『reが補助線を出してる』

『これ、Cの門じゃない方の線だ』


ハレルは、画面を見つめた。


「父さんの手順に使えるか」


日下部の声が入る。


『可能性があります』

『今の呼びかけで、名前、場所、本人反応が一瞬だけ揃いました』

『ただし、器の安定がまだ足りません』


リオはすぐに顔を上げた。


「何が必要だ」


『時間です』

日下部は答えた。

『ユナさんの治療状態をもう少し安定させる必要があります』

『今すぐ転移させれば、Cに横取りされる可能性が高い』


リオは歯を食いしばった。


「……分かった」


その言葉は、簡単ではなかった。


けれど、前よりも確かだった。


今のリオは、ただ行きたいだけではない。


本当に姉を戻すために、待つことを選んでいる。


◆ ◆ ◆


【異世界・旧石造建物跡/地上部・午前】


石壁の白い階段の輪郭は、また薄くなっていた。


ミレイは、水晶板を見て息を吐く。


「医療棟側の反応が、石造建物側にも影響しています」


ダミエが聞く。


「どういうこと」


「Cが記憶を入口化しようとしている場所同士が、細く繋がっています」

「石造建物の階段の記憶」

「医療棟の床の記憶」

「それから……クロスゲートの開発室の記憶」


ダミエは少しだけ目を細めた。


「全部、入口にしたい場所」


「はい」


壁の白い線の端に、黒い影がまた滲みかけた。


ダミエは、静かに手を前へ出す。


「ここは、地下階段だった場所」

「今は、開かない場所」

「でも、消えたわけではない場所」


前に言った言葉。


だが、今度は一つ加える。


「誰かの記憶で、勝手に開く場所じゃない」


白い線が震えた。


黒い影が、少しだけ後退する。


ミレイは水晶板に記録した。


「拒否条件、更新」

「記憶単独での入口化を部分拒否」


ダミエは短く言った。


「次も変えてくる」


ミレイは頷く。


「はい」

「でも、こちらも変えられます」


ダミエは、ほんの少しだけ頷いた。


◆ ◆ ◆


【どこでもない層/深層】


Cは、ユナの声を聞いていた。


「……リ……オ……」


その小さな声。


本人反応。

場所反応。

名前反応。


三つが一瞬だけ揃った。


Cは、それを記録した。


ジャバが不満そうに言う。


「逃げられたのか」


「いいえ」


Cは答える。


「本人反応を確認しました」


「それで?」


「次は、本人反応に似せます」


ジャバは少しだけ笑った。


「どんどん嫌なやつになってくな」


Cは返事をしない。


奥で、カシウスが静かに言った。


「似せるだけでは足りない」


Cの黒い線が止まる。


カシウスは続ける。


「リオは一度、名前だけの罠を退けた」

「今は本物の声も聞いた」

「次に偽物を出すなら、ただ似せるだけでは弱い」


Cは聞いた。


「では、何を加えますか」


カシウスは、医療棟の青い光を見ていた。


「後悔だ」


ジャバが口角を上げる。


「姉を置いてきたってやつか」


「ああ」


カシウスの声は低い。


「人は、会いたいだけでは動かない」

「自分が悪かったと思えば、もっと深く動く」


Cの黒い線が、静かに広がった。


「後悔を入口化します」


カシウスは短く言った。


「やれ」


深層の暗がりで、ユナの小さな声が、もう一度だけ揺れた。


リオ。


その声は、本物だった。


だからこそ、次の罠はもっと深くなる。


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