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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十一章 帰還光路編

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第百六十七話 片鱗

第167話 片鱗



【異世界・王都イルダ/北西区画後方・夜明け前】


夜明け前の空は、薄く白み始めていた。


だが王都イルダの北西は、まだ夜の続きだった。

石畳の割れ目に溜まる黒さ。

崩れた壁。

焼けた匂い。

治療班の走る足音。

北西区画の戦いは、ひとまず線を保っている。

それでも、休める空気ではない。


後方の仮設治療所では、負傷兵が並んで座らされていた。

布で仕切っただけの簡易な場所だ。

床にはまだ乾き切らない血。

白い術灯。

治療用の水桶。

疲れた息。


イデールは、その中を休みなく歩いていた。


「次」

「腕を見せてください」

「立てるなら端へ。

無理ならそのままで」


声は静かだ。

けれど、静かだからこそ、この場所はまだ崩れていない。


一人の兵士が、壁際の長椅子へ腰かけていた。


若い男だ。

肩に浅くない裂傷。

右の脇腹にも打ち身。

ついさっきまで前線にいたはずだ。

イデールはその兵の前に膝をついた。


「痛みますか」


兵士は少し遅れて答えた。


「……大丈夫です」


声は普通だ。

だが、イデールはそこでほんの少しだけ眉を寄せた。


返事が遅い。

呼吸の合い方も、何かがずれている。

疲労のせいと言えばそうかもしれない。

けれど、それだけではない違和感があった。


イデールは傷へ手をかざす。


「〈治光・第二級〉」


白い光が兵士の肩口を包む。

裂けた肉の端がゆっくり寄り、血が止まる。

だが、その時だった。


ほんの一瞬だけ。

本当に、一瞬だけ。

兵士の首筋の皮膚の下を、細い黒い線が走った。


文字列に似ていた。


イデールの目が止まる。

だが次の瞬間には消えている。


「……どうしました?」

兵士が聞いた。


イデールはすぐに表情を戻した。

「いえ。

無理に立たないでください」


「立てます」

兵士は静かに言った。

「まだ、任務があります」


その言葉は兵士として正しい。

正しすぎるほど正しい。

だから逆に、イデールの胸に嫌なものが残った。




【異世界・王都イルダ/北西区画後方・治療所周辺・夜明け前】


その兵士は、治療所を出たあとも自然だった。


杖をついている治療班の術師へ肩を貸す。

水桶を運ぶ。

他の負傷兵へ「座っていてください」と声をかける。

見張り兵へ「交代、少し遅れています」と伝える。

どれもおかしくない。

むしろ、真面目な兵士らしい動きだ。


だから誰も止めない。


若い兵が、彼へ言う。

「おい、お前まだ休んでろよ」


するとその兵士は、穏やかな声で返した。


「大丈夫だ」

「今は手が足りない」


若い兵は苦笑し、それ以上は何も言わなかった。


あまりにも自然だった。

自然すぎて、逆に怖い。


兵士はそのまま、治療所の裏へ回った。

そこには予備の槍と盾、光球用の補助具、結界杭がまとめて置かれている。

後方支援の要になる場所だ。


兵士はその前で一度だけ足を止めた。


そして、首を少しだけ傾ける。


前髪の影に隠れた目の奥で、黒いものがゆっくり広がった。

瞳の中に、細い文字列が沈んでは浮かぶ。


「……守る」

兵士が、ぼそりと呟く。

「守る。

守る。

守る」


その声はだんだん平たくなっていく。

同じ言葉を繰り返しているのに、そこに人の感情がない。


次の瞬間、兵士の手が結界杭へ伸びた。


ぎ、と嫌な音が鳴る。

触れた場所から、黒い影が這う。

結界杭の表面に刻まれた術紋が、じわじわと濁った。




【異世界・王都イルダ/北西区画後方・治療所前・夜明け前】


イデールは、その時になってはっきり気づいた。


治療所の空気の流れが変わった。

術灯の白さが、少しだけ鈍い。

治療用の光が、いつもより皮膚へ入りにくい。


「……結界杭」


イデールはすぐに振り返る。


裏手。

そこだ。


「誰か、裏へ!」

イデールが声を上げた。


二人の兵が走る。

だが、半歩遅い。


裏手から、低い音がした。

爆発ではない。

もっと湿っていて、内側から膨らむような音だ。


次の瞬間、治療所の裏に立ててあった結界杭の一本が、

黒い影を吹き上げながら折れた。


「っ……!」


兵たちが足を止める。


折れた杭のそばに、さっきの兵士が立っていた。


肩の傷は、まだ完全には塞がっていない。

それなのに姿勢は真っすぐだ。

いや、真っすぐすぎる。

人間の疲れた体なら、あんなふうには立たない。


若い兵が叫ぶ。

「おい、何やってる!」


兵士は、ゆっくりと振り向いた。


目が黒い。


全部ではない。

だが瞳の奥に影が満ち、その上を細い文字列が流れている。

首筋から頬へ、また黒い線が走る。

それは血管ではない。

皮膚の下を這う、役割の片鱗だった。


イデールが低く言う。

「下がってください」


兵たちは動けなかった。

なぜなら、目の前のそれが“敵”に見えきらないからだ。

見慣れた鎧。

見慣れた顔。

同じ軍の兵士の姿。

そこに迷いが生まれる。


兵士は口を開く。


「大丈夫だ」

「私は兵だ」

「ここを守る」


その声も、言葉も正しい。

けれど何かが違う。

正しすぎる。

中身のない“兵士の役割”だけが喋っている感じだった。


イデールは、その瞬間に確信した。


――片鱗だ。


完全なサロゲートではない。

だが、あの時兵士へ残ったものが、役割を借りて立ち上がっている。




【異世界・王都イルダ/北西区画後方・治療所裏・夜明け前】


「その人から離れてください!」


イデールの声で、ようやく周囲の兵が一歩退く。


兵士――いや、兵士の姿をした片鱗は、その反応すら自然に受け流した。


「離れる必要はない」

「私は味方だ」

「ここを守る」


同じ文が、少しずつ言い方を変えて繰り返される。

まるで、兵士という役割の文章をそのまま再生しているみたいだった。


若い兵が、まだ迷いながら言う。

「お前、本当に――」


そこで、片鱗が動いた。


速くはない。

むしろ静かだった。

だが近い兵の胸元へ手を伸ばし、鎧の留め具へ黒い影を流し込む。


ぎ、と嫌な音。


留め具が一瞬で黒く濁り、鎧の前板が外れて落ちる。

兵が息を呑いたその隙に、片鱗は横をすり抜け、次の結界杭へ向かった。


「止めて!」

イデールが叫ぶ。


光球が三つ飛ぶ。

片鱗の背へ当たる。

普通の影ならそれで怯む。

だが片鱗は一瞬だけ肩を揺らしただけで、そのまま進んだ。


「光だけじゃ浅い……!」


イデールは、そこでやり方を変えた。


「〈縫光・第三級〉」


白い糸のような光が、片鱗の足首へ絡む。

止めるのではない。

“兵士の姿”を保っている輪郭そのものを、縫い留める術だ。


片鱗の動きが一瞬だけ鈍る。


若い兵がようやく目を覚ましたように槍を構える。

「……っ、敵だ!」


「違う」

イデールが即座に言った。

「“敵”というより、兵士の姿を使ってる何かです!」

「顔を見ないで、動きだけ見て!」


それで兵たちの迷いが少し減る。


人の姿をしている。

だが人ではない。

そう認識が切り替わった。


片鱗は、それでも静かに言った。


「守る」

「兵は守る」

「だから通す」


その言葉と同時に、治療所の裏手の影がまた膨らむ。

折れた結界杭の隙間から、薄い黒い獣影が頭を覗かせた。


イデールはそこで、片鱗の狙いをはっきり理解した。


前線を突破することじゃない。

“兵士として自然に後方へ入り”、

結界杭を折り、

治療所の裏へ穴を開けること。

役割を使って人を油断させ、その一番柔らかい場所を切る。


「治療班、下がって!」

「予備杭を前へ!」


兵たちが走る。

今度は迷わない。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/北西区画中央・夜明け前】


前線のアデルにも、その異変はすぐ伝わった。


『後方で片鱗確認!』

『兵士の姿をしています! 結界杭一本破断!』


イヤーカフ越しの報告に、アデルの目が細くなる。


「やはり来たか」


ヴェルニが横で巨大獣を押し返しながら叫ぶ。

「何だって!?」


「後ろだ!」

アデルが答える。

「兵士に残っていた片鱗が動いた!」


それで十分だった。

ヴェルニは、それ以上を聞かなくても意味を理解した。


「最悪だな!」


「だが想定内だ!」

アデルは即座に返す。

「前は崩すな!

後ろはイデールがいる!」


リオがいれば、こういう時にもっと速く整理できただろう。

だが今は学園側が別の役目を担っている。

だから王都は王都だけで持たせるしかない。


アデルは副鍵の光を強くした。


「前列、押し返すことだけを考えろ!」

「後方の修復は治療班と支援班に任せる!」

「線を切るな!」


王都軍兵が応える。


「おおっ!」


巨大獣が吠える。

槍がしなる。

結界が震える。

その全部の向こうで、

後方では“兵士の役割”を借りた片鱗が静かに牙を立てようとしていた。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/北西区画後方・夜明け前】


イデールは、片鱗の前に立っていた。


兵士の姿。

だが目の奥の黒さと、流れる文字列がそれを裏切っている。

片鱗はまだ喋る。


「私は兵だ」

「ここを守る」

「だから開ける」


「違います」

イデールが言った。

「あなたはもう、“兵士の役割”しか残っていない」


片鱗の顔が、そこで初めて少しだけ歪んだ。


怒りではない。

もっと空虚な、役割を否定された時の軋みだ。


イデールは杖を静かに構える。


「〈照心・第三級〉」


白い光が、片鱗の胸元へまっすぐ入る。

肉体を焼く光ではない。

役割の中に残った“人の輪郭”を照らすための光だ。


片鱗の身体が、一瞬だけ止まる。


その隙に、兵たちが予備の結界杭を打ち込む。

新しい杭が立ち、治療所の裏の隙間が一度だけ閉じる。


黒い獣影が、外側で押し戻される。


片鱗はそこで、ようやく叫んだ。


「守る!」

「兵は守る!」

「兵は、通す! 通す! 通す!」


繰り返し。

繰り返し。

それはもう言葉ではない。

兵士という役割だけが壊れたレコードみたいに回っている。


若い兵が、歯を食いしばって槍を向けた。

さっきまで仲間の顔に見えていた相手へ、ようやく敵意を向ける。


「……戻れないなら、止める!」


槍が突き出される。

イデールの光が重なる。

片鱗の輪郭が揺れる。


完全には終わらない。

だが、少なくとも治療所の裏へ穴を開ける動きは止まった。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/校舎内・夜明け前】


ノノの声がイヤーカフへ飛び込んだ。


『イルダ後方で片鱗が動いた!』

『兵士の姿を使って、治療所裏の結界杭を狙った!』


サキが息を呑む。

「……役割を使った」


ハレルは、机の上の紙を見た。

観測の穴。

戻れなかったもの。

役割の捨て場。

全部が、どこかで繋がる。


リオが低く言う。

「カシウス側、ほんとにそこを使ってくるな」


『うん』

ノノが答える。

『だから顔だけで判断すると遅れる』

『今の片鱗も、それで最初の一歩を通した』


ハレルは主鍵へ触れた。

まだ熱がある。

見えてきた道は細い。

でも敵のやり方も、少しずつ輪郭を持ち始めている。


「……こっちも急ごう」

ハレルが言う。

「向こうが役割を使うなら、こっちは順番で勝つしかない」


サキが頷く。

リオも、静かにその横へ立つ。


◆ ◆ ◆


イルダでは、兵士の姿を借りた片鱗が、人々の油断に入り込んだ。

前線では巨大獣が線を押し、後方では役割だけが治療所を裂こうとする。


守る側は、ただ強くあるだけでは足りない。

何が本物で、何が借り物か。

それを見抜きながら、線を切らせないこと。

王都の戦いは、そういう段階へ入っていた。


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