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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十章 奪還反攻編

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第百五十話 前進

第150話 前進


【異世界・転移した学園/体育館・夜】


体育館の空気は、疲労で重かった。


泣き疲れて眠ってしまった生徒。

毛布を肩まで引き上げて、目だけ開いている子。

先生たちは交代で見回り、点呼表を握ったまま壁にもたれている。

崩れてはいない。

だが、張り詰めた糸の上に、全員が乗っているような空気だった。


その中央で、レアはまだ結界の中にいた。


膝をつき、顔を伏せ、ときおり肩だけを震わせる。

全身を走る青白い数列は消えず、片方の黒い目の端からは、

時々、細い影が糸のようにこぼれては結界に弾かれて散った。


ダミエは、その結界を維持したまま微動だにしない。

大きすぎる制服の裾が床へ触れ、フードの奥の目だけが鋭く光っている。


その横に、王都側から呼ばれた結界術師が二人、静かに立っていた。

ノノが急遽回した増援だ。

ダミエほどの精度はない。

だが、補助として線を重ねることはできる。


「南側、二枚増やした」

「北の継ぎ目も補強済み」


補助術師の報告に、ダミエは短く頷くだけだった。

それでも、その頷きで十分だった。


教頭が近づいてくる。

毛布を肩にかけたままの教師たちも、その後ろにいる。


「雲賀くん」

「出るなら、今のうちだな」


ハレルは頷いた。

返事をする前に、サキのスマホが震える。

ノノからの短い共有だった。


《駅班 出発準備》

《イルダ維持継続》

《学園発 可》


ハレルはその表示を見て、小さく息を吐いた。

形は、決まり始めている。

残る者と、出る者が。


教頭は生徒たちの方を振り返る。

何人かの生徒が、こちらを見ていた。

怖い顔。

不安な顔。

でも、ただ怯えているだけではない。

“行くのか”と確かめる顔だった。


ハレルは、その視線を受け止めてから言った。

「行きます」

「戻るために」


誰かが小さく息を呑む音がした。

だが、反対の声は出なかった。

先生たちはもう、分かっている。

ここに閉じこもるだけでは、元には戻れないことを。


教頭が短く頷く。

「ここは守る」

「だから、君たちは向こうを止めてこい」


ハレルは深く頭を下げた。

サキも、それに続く。


結界の中のレアが、その様子を見て、かすれた声で笑った。


「いいね……そういうの」

「残るのと、行くの、分けるの」


ダミエが、何の感情も乗せずに言った。

「……喋るな」


次の瞬間、結界の線が一枚増えた。

レアの笑い声は、そこで薄く切れた。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/体育館出口前・夜】


出発前、リオは一度だけ足を止めた。


医療棟はイルダ側にある。

ここから寄れる距離ではない。

それでも、心だけはどうしてもそちらへ向いてしまう。


ノノの声が通信に入る。

『リオ、聞こえる?』


「聞こえてる」

リオは短く返した。

「……ユナは」


一拍だけ間があった。

それから、ノノが少しだけ声を落として答える。


『眠ってる時間はまだ長い』

『でも、もう“ただ眠ってるだけ”じゃない』

『呼びかけに指が少し動いたり、目を開ける時間もある』

『治療班の見立てでも、ちゃんと戻ってきてる』


リオは黙ったまま、その言葉を受け止めた。


完全に普通の状態まで戻ったわけじゃない。

でも、確かにこちら側へ戻ってきている。

それだけで、今は十分だった。


「……分かった」

低く言って、リオは壁から背を離す。

「兵士たちにここ、頼むって伝えてくれ」


『もう伝わってる』

ノノが返す。

『ユナの周りの守りも厚くしてる。だから、今は前を見て』


リオは小さく息を吐いた。

振り返りたい気持ちはある。

だが、今は進むしかない。


「……ああ」


そう返して、リオは体育館出口へ向かった。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した駅周辺/ホーム・夜】


駅では、雨に濡れた照明が白く滲んでいた。


外の森には、まだ黒い四足の影が残っている。

だが、さっきまでのようにホームへなだれ込んではこない。

人型の影も、柱の陰や車両の窓に見え隠れするだけで、

一歩深く踏み込む勢いは弱まっている。


アデルは、最後の引き継ぎをしていた。


「外周は照明維持を優先」

「深追い禁止」

「構内の影は、駅員と兵士を必ず組ませる」

「何かあれば、ノノ班へ即報告」


残る兵士たちが頷く。

駅員も、もはやただ言われるだけの顔ではない。

怯えながらも、自分たちの役目を理解している顔だった。


ヴェルニはその横で、ホームの外を眺めていた。

紺の髪はまだ濡れている。

焦げた外套もそのままだ。

なのに、顔だけは妙に晴れやかだった。


「まだ来たそうだな」

アデルが言う。


「当然だろ」

ヴェルニは笑う。

「塔の底まで行けるなら、むしろ今からだ」


アデルはため息をつきそうになって、やめた。

ヴェルニはこういう男だ。

危機的状況ほど、逆に気分が上がる。

だからこそ前に出せる。

だからこそ、止める役も必要になる。


「お前は私の前を勝手に行くな」

アデルが低く言う。

「最深部は、見たものをそのまま信じたら終わる」


ヴェルニは肩をすくめた。

「分かってるよ」

それから少しだけ真面目な声になる。

「……アデル、お前こそ無茶すんな」


その一言に、アデルは一瞬だけ目を細めた。

「言ってろ」


短いやり取り。

でも、それで十分だった。


二人は、ホーム中央の灯りを最後に見回し、

王都中央――オルタ・スパイアの方角へ向かった。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/西区・夜】


イデールの班は、街の光を繋ぎ続けていた。


市場通りの灯り。

北通りの灯り。

宿屋裏の灯り。

明るい筋が消えなければ、人はまだ“街の中”を歩ける。

そのことを、彼女はもう理解している。


兵士たちが運んでいる縛られた黒眼の兵士は、相変わらず時おり口元だけを動かした。

サロゲートの片鱗。

まだ消えない。

だが今は、暴れ返すところまではいかない。


「北側、灯り切らさないでえ」

「そこ、三人で」


イデールはおっとりした声で指示を飛ばしながら、遠くの塔を見た。

雨の向こうに、細く高い影が立っている。


「……あっちが勝負ねえ」


その呟きに、近くの術師が不安げに答える。

「アデル隊長たち、大丈夫でしょうか」


イデールは少しだけ笑った。

「大丈夫じゃないところに行くのが、あの子たちでしょう」

「だから、こっちはこっちを保つの」


その言葉の通りだった。

塔へ向かう者がいるなら、街を保つ者も必要だ。


◆ ◆ ◆


【現実世界・オルタリンクタワー周辺/対策本部車両】


車両の中では、今度は“入る準備”が本格的に始まっていた。


日下部のノートパソコンには、オルタリンクタワーの断面図と地下配線図、

それに木崎が送った外周円陣の写真が並んでいる。

佐伯と村瀬も、今度はただ座っているだけではなかった。

二人とも、記憶の中の白い施設の断片を指し示しながら、日下部の説明へ補助線を引いていた。


「この辺」

佐伯が地下深層の図を指す。

「ここ、私たちがいた場所に近い感じがします」

「広さじゃなくて、音の響き方が」


村瀬もすぐに続ける。

「あと、白い廊下の後に一度“普通の管理区画”を挟んだ感じがあったんです」

「いきなり最深部じゃなくて、途中に“働く人の階”みたいな……」


日下部がすぐに図面へ重ねる。

「地下二層の管理区画……」

「そこを挟んで、さらに下が観測制御層」

「……合う」


城ヶ峰が二人を見る。

「補助に呼んで正解だったな」


佐伯は少しだけ口元を引き締めた。

「見たことを、そのまま使ってください」

村瀬も頷く。

「怖かった場所ですけど、今はそれでいいです」


木崎の回線が入る。

『タワー外周の南東、やっぱり薄い』

『石畳のノイズもそこが一番弱い。搬入口とサービス導線が近い』


城ヶ峰はすぐ決めた。

「正面は使わない。南東から入る」

「低層商業フロアと一般客の導線は触らず、オフィス側のサービス導線へ回る」

一拍。

「社員が残っている可能性を前提にする。中で見かけても、即座に敵認定するな」


その判断に、全員が黙って頷く。

ここは秘密基地ではない。

普通の顔があり、普通の仕事があり、普通の人間が巻き込まれている場所だ。


日下部が、もう一つの画面を開いた。

中継管理棟半停止。

局所杭破壊。

回線安定。

そこから次の線が、オルタリンクタワー地下最深部へ伸びている。


「……行けます」

日下部が低く言う。

「今なら、少なくとも最深部までの線は読める」


木崎が回線越しに答える。

『異世界側も、今動いてる』

『タイミングは合わせられる』


城ヶ峰は端末を閉じた。

「なら、準備を進める」

その一言で、車内の空気が決まった。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/学園出口前・夜更け前】


ノノの通信が、学園の出口前まで来たハレルたちへ入った。


『現実側、突入準備に入った』

『オルタリンクタワー南東のサービス導線から入る』

『残ってる一般人や社員を巻き込まない前提で動くって』


ハレルはその情報を聞いて、主鍵を握った。

向こうももう、ただ調べる段階ではない。

実際に中へ入る段階へ進んでいる。


サキがスマホを見ながら小さく言う。

「じゃあ、こっちももう出発しなきゃ」


リオが頷く。

「……まずはイルダで合流だな」


学園の建物の向こうでは、まだ雨音が続いている。

体育館には先生たちと生徒たち、そしてダミエが残っている。

結界も、灯りも、まだ保たれている。

だからこそ、ここで出ると決められる。


少し離れたところまで見送りに来ていた教頭が、静かに言う。

「くれぐれも、気をつけてな」


ハレルは頷く。

「はい」


振り返れば、学園の窓に残る灯りが見える。

あそこには、残る者たちがいる。

守ると決めた顔がある。


だから行ける。

行けるが、それでも心は軽くならない。


その時、学園の奥――体育館の方から、ノノの通信がもう一度短く入った。


『……レアが目を開けた』

『一言だけ』


ハレルたちは足を止める。


ノノが、そのまま伝える。


『“遅いと、下が先に閉じるよ”って』


その声には、さっきまでの嘲りよりも、妙に実感が混ざっていた。

ハレルはそれに答えない。

ただ、主鍵の熱だけが少し強くなる。




雨はまだ続いていた。


だが、学園に残る者。

駅を支える者。

街を守る者。

塔へ向かう者。

タワーへ潜る者。


それぞれの役割は、ようやく動き始めていた。


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