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第009話 魔王は妹の瞳で目覚めた

対象Bの瞳に、白い灯が落ちた。


最初に戻ったのは、呼吸ではなかった。


石台の下を流れる水音。


天井に刻まれた封印線。


壁際に並ぶ白い記録棚。


それらを一つずつ、開いた瞳が拾っていく。


少女の目だった。


けれど、その奥にある光は少女のものではない。


胸がわずかに上下した。


吸い込まれた空気は冷たく、肺の奥で薄く裂けるように広がった。鼓動は遅い。生きている者の熱ではなく、止まっていた器に無理やり火を入れたような、ぎこちない動きだった。


白い指が、石台の縁を掴んだ。


細い。


軽い。


骨も、筋も、血のめぐりも、自分のものではない。


起き上がろうとした身体は、思ったよりもずっと小さかった。肩にかかる髪が頬へ滑り、濡れた糸のように張りつく。その感触に、少女の眉がかすかに寄った。


石台に刻まれた封印線が、指先に触れる。


白い線は一瞬だけ光を強め、それから怯えたように細くなった。指の下で、線の端が黒く焦げる。焦げた匂いはしない。ただ、光だけが押し潰されて消えていった。


少女は自分の手を見下ろした。


掌を開き、閉じる。


指は震えていない。


恐怖もない。


あるのは、深い底から浮かび上がるような不快だけだった。


「我を、これに入れたか」


声は小さかった。


けれど、その一言だけで、白い部屋の温度が変わった。


少女の喉から出た声ではある。


だが、そこに子どもの頼りなさはない。泣き声の残りもない。石の棺の内側から響くような、冷たく乾いた声だった。


対象B。


石台の脇に下げられた札が、灯火の下で揺れている。


名前ではない。


年でもない。


祈りでもない。


ただの記号だった。


隣の机には、閉じられた台帳が置かれている。赤い封蝋。王国の紋章。乾いた筆跡。めくれかけた紙の端に、近縁関連体という文字が見えた。


少女の瞳が細くなる。


魔王イシュカラは、その文字を読んだ。


魔王を殺し、勇者を讃え、民に清めを説いた者たちは、地下で死体に札を下げていた。


敵を焼くためではない。


祈るためでもない。


使うために。


少女の唇が、薄く笑った。


笑みの形だけだった。温度はなかった。


「悪趣味だ」


灯火が、ちり、と鳴った。


「我より、よほど」


イシュカラは石台から足を下ろそうとした。


足先が床に届くまで、わずかな間があった。その短ささえ腹立たしい。白い服の裾が膝に絡む。身体の重心が違う。歩幅が違う。腕の長さも、視線の高さも、すべてが違う。


それでも倒れはしなかった。


この身は弱い。


だが、空ではない。


内側のどこかに、焦げついた感情が残っている。泣き叫んだ声の形。誰かの名を呼ぼうとした喉の痛み。最後まで伸ばそうとした指先の記憶。


イシュカラはそれを、指で払うように意識の端へ押しやった。


今は要らない。


白い部屋には、もう一つ石台がある。


対象A。


札にそう書かれた身体が、隣で眠っていた。


眠っているように見えるだけだ。


胸は動かない。


血の音もない。


肌には死の色が差している。だが、胸の中央に沈んだ黒い印だけが、この部屋の白さを拒むように残っていた。


イシュカラは、その印を見た。


瞳の奥で、古い戦場の色が揺れる。


燃える城壁。


砕ける角。


自分へ迫ってきた剣の軌道。


最後に見た、まっすぐすぎる眼。


「……勇者」


低く、少女の口が言った。


あの男だ。


我を終わらせた男。


人間のくせに、恐れず踏み込んできた男。


王国が誇った光の剣。


その男が、白い石台の上で対象Aと呼ばれている。


イシュカラの口元から、笑みが消えた。


王国は、勝者さえこう扱うのか。


魔王を倒した勇者を、名で呼ばない。


妹を奪い、兄を殺し、並べて保存する。


救済という言葉で火を焚き、清めという言葉で札を下げる。


少女の右手が、すっと上がった。


イシュカラの意思ではなかった。


手は対象Aへ伸びていた。


細い指が、空中で止まる。届く寸前で、手首に力が入った。


胸の奥が、きつく縮む。


痛みではない。


悲しみと呼ぶには、あまりにも濁っている。


喉の奥が、小さな音の形を作りかけた。柔らかく、縋るような形だった。出れば、この口には似合わない声になる。


イシュカラは舌先でそれを潰した。


「残響か」


吐き捨てるように言っても、手は下がらなかった。


対象Aの頬に触れようとしていた。


白い指先が、死んだ男の顔のそばで震える。震えは恐怖からではない。怒りからでもない。もっと古く、もっと弱いものが、この小さな身体の内側でまだ消えずに残っている。


イシュカラはその震えを見下ろした。


面白くない。


だが、無意味ではない。


この身がこの男へ向かうなら。


この男の胸に、魔王の死よりなお黒い印があるなら。


そして王国が、地下で二つの死体を並べたのなら。


利用してやる。


イシュカラは石台の間へ一歩踏み出した。


足音は軽い。


少女の裸足が、冷たい床を踏む。


白い封印線が床を走り、対象Aの石台へ近づくほど細かく絡み合っていた。祈りの文句に似せた文字が、縫い目のように刻まれている。


イシュカラが近づくと、線のいくつかが黒く沈んだ。


拒むのではない。


耐えられないのだ。


魔王の残り香に。


少女は対象Aの胸元に立った。


死んだ勇者の顔を見る。


敵だった。


宿敵だった。


この男の剣は、確かに自分へ届いた。玉座の上でも、黒い炎の中でも、あの眼だけは折れなかった。


その眼が、今は閉じている。


王国に殺されて。


神殿に保管されて。


妹の隣で、番号にされて。


「寝ている場合ではないぞ」


少女の声が落ちる。


石台の上の黒い印が、一度だけ深く沈んだ。


水音が止まったように聞こえた。


封印線が、対象Aの胸から逃げるように白くきしむ。札が揺れる。台帳の封蝋に、細い亀裂が入る。


イシュカラは手を伸ばした。


今度は、自分の意思で。


白い指が、対象Aの胸に触れる。


冷たい。


死んでいる。


それでも黒い印の奥だけが、底なしの井戸のように熱を持っていた。


少女の瞳に、黒が映る。


魔王イシュカラは、死んだ勇者へ告げた。


「起きろ」

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