第008話 葬られなかった兄妹
閉じた石の下に、祈りは降りてこなかった。
上では、まだ鐘が鳴っていた。
白い壇の上で、神官たちが浄化の終わりを告げている。民衆のざわめきが、厚い石を隔てて低く響いていた。
その下は、冷えていた。
壁も床も白い石でできている。けれど、広場の白さとは違った。陽を受ける白ではない。灯火に照らされ、湿り、息を殺した白だった。
天井の継ぎ目が、細く光った。
石が横へ滑る。
音は小さい。
上の鐘に紛れるほど、小さい。
白布に包まれた影が、まず一つ落ちてきた。
小さな身体だった。
受け台の上で、布の端がふわりと揺れる。すぐに、両脇に立っていた神官が手を伸ばした。
布の端には、地上でついた赤い点が残っていた。
神官はそれを見ても、眉を動かさない。白い手袋の親指で布を折り返し、赤を内側へ隠した。
誰も、祈らなかった。
「対象B、収容」
記録係が言った。
声は乾いていた。
泣く者も、目を伏せる者もいない。白い手袋が布の位置を直し、細い腕を布の内側へ収める。まるで荷の形を整えるようだった。
続いて、大きな影が落ちてきた。
重い音が石に響く。
白布の下で、片手だけがはみ出していた。爪の先に、石を掻いた跡が残っている。
神官はその手を見た。
ほんの一瞬だけ。
爪の割れ目に、乾ききらない赤が残っていた。
そして、指を布の中へ押し戻した。
「対象A、収容」
羽根ペンが紙を擦る。
上では救済が終わったことになっている。
下では、収容数が二つ増えただけだった。
「移せ」
奥から声がした。
二つの受け台が、音もなく滑り出す。
床には細い溝が刻まれていた。溝に沿って、白い台が地下の奥へ進む。壁に並んだ灯火が、一つずつ布の上を撫でていった。
通路の先に、広い部屋があった。
扉の上には、聖句が刻まれている。
迷える魂を、光へ。
その下に、棺はなかった。
花もない。
弔いの香もない。
壁際には、薄い金属の器具と、封蝋の積まれた棚と、番号だけが並んだ細長い札箱があった。
死者を迎える部屋ではない。
残すものを選び、いらないものを削ぎ、記録へ落とす部屋だった。
中央に石台が二つ並んでいる。
同じ高さ。
同じ長さ。
同じ白い布。
そこに、兄妹は置かれた。
リネアだった身体は、左の台へ。
ロアンだった身体は、右の台へ。
生きていた時の距離は、そこにはなかった。
家族として並んでいるのではない。
二つの台が、二つの対象を置くために、最初から同じ間隔で用意されていただけだった。
記録係が近づく。
小さな金属札を二枚、盆の上に載せていた。
一枚目には、対象A。
二枚目には、対象B。
神官は札を受け取り、白布の端へ結んだ。
ロアンの名はない。
リネアの名もない。
兄でも、妹でもなかった。
「対象A。胸部黒印、残存」
記録係の声に合わせ、神官がロアンの胸元の布だけを開いた。
黒い印があった。
光を失った皮膚の上で、その印だけが沈んだ色を残している。傷ではない。焼け跡でもない。白い灯の下で、穴のように黒かった。
セヴラン・オドは、少し離れた場所からそれを見ていた。
壇上で民衆へ両手を広げていた時と、同じ顔だった。
違うのは、もう祈りの声を作っていないことだけだ。
「封印台へ固定」
「対象A、固定」
石台の縁に刻まれた線が、白く灯った。
細い光が、身体の輪郭を囲む。やわらかい光ではなかった。逃がさないための線だった。
「対象B」
記録係が次の紙をめくる。
「近縁関連体、再分類。封印区画へ移送。保存優先」
羽根ペンが止まらない。
神官がリネアの顔にかかった布を整えた。
眠っているようには見えなかった。
眠る者には、帰る朝がある。
白い台の上の少女には、それがなかった。
それでも神官は、まつげに残った細い影を見ようともしなかった。顎の位置を直し、髪を布の内側へ入れ、札の紐を結び直す。
「名は不要ですか」
若い記録係が、小さく聞いた。
セヴランの視線が動いた。
それだけで、部屋の空気が硬くなる。
「救済された者に、俗名は残さぬ」
静かな声だった。
怒りも迷いもない。
「対象A、対象B。以後、その表記で足りる」
若い記録係は唇を結び、紙に線を引いた。
ロアン・ノール。
その名が、記録の上で消えた。
リネア・ノール。
その名も、同じ行で消えた。
代わりに残ったのは、対象Aと対象Bだった。
「救済済みとして記録せよ」
セヴランが言った。
「保存区画、第三封印室。検分は夜明け前に始める」
「救済済み。第三封印室。夜明け前、検分」
記録係が復唱する。
救済。
その言葉だけが、白い部屋にひどくよく響いた。
リネアが最後に兄へ残した声は、ここには届いていない。
ロアンが声にならないまま叫んだ妹の名も、ここには残っていない。
残ったのは、乾く前に閉じられた台帳の黒い線だけだった。
石台の足元に、細い水路があった。
そこを冷たい水が流れている。香油の匂いも、花の匂いもない。あるのは石と金属と、乾いた紙の匂いだけだった。
水路の縁には、洗い流しきれなかった赤黒い跡が薄く残っている。
初めて血が流れた場所ではない。
神官たちは手順を終えると、ひとりずつ部屋を出ていった。
灯火が残る。
石台が二つ残る。
対象Aと書かれた札。
対象Bと書かれた札。
閉じられた台帳。
赤い封蝋が押されている。
そこに刻まれた紋章は、地上で民衆が見上げたものと同じだった。
上では清めの証。
下では保管完了の印。
同じ王国の、別の顔だった。
部屋の扉が、重く閉まった。
上の鐘は、もう聞こえない。
地下には、水の音だけが戻った。
ぽたり。
ぽたり。
白い石台の上で、黒い印が一度だけ脈を打った。
音はなかった。
光も、ほとんどなかった。
ただ、対象Aの胸に沈んだ黒が、ほんの一瞬だけ深くなる。
それに応えるように、隣の石台の封印線が揺れた。
対象Bの白い指先が、わずかに動いた。
誰も見ていない。
記録係もいない。
祈る者もいない。
対象Bのまつげが、震えた。
白い灯が、閉じた瞼の上を滑る。
次の水音が落ちる前に、
対象Bの瞳が、静かに開いた。




