第007話 兄妹浄化
白い壇の二段目に、リネアが立たされた。
リネアの足は、石の縁で止まっていた。
白い布が肩からずれている。細い手首には縄が食い込み、指先だけが小さく震えていた。
それでも、リネアはロアンを見ていた。
兄を見ていた。
「兄さん」
小さな声だった。
広場のざわめきに飲まれそうなほど、小さい。
けれど、ロアンには届いた。
ロアンは首を振った。
来るな。
降りろ。
逃げろ。
口は何度も動く。喉も震える。首輪の内側で、声にならない息だけが潰れていく。
首輪の術式が、白く焼けた。
喉の奥が裂れるように熱い。
それでも、声は出ない。
リネアの眉が、少しだけ歪んだ。
聞こえないことに気づいた顔だった。
「兄さん、声……」
兵がリネアの肩を押した。
「近縁体、正面へ」
「待って。兄さんが」
「近縁体、正面へ」
同じ言葉が、石の上に落ちる。
人の声ではない。
札を読み上げる声だった。
ロアンは前へ出ようとした。
鎖が張る。
兵の腕が、両側から肩を押さえ込む。
膝が曲がりかける。それでもロアンは身体をねじり、リネアへ手を伸ばした。
届かない。
あと少しだった。
指一本ぶん。
それすら、遠かった。
壇の下では、神官たちが祈りを重ねていた。
白い法衣。
白い紋章。
白い花。
広場に集められた民衆は、それを見上げている。魔王の穢れを清める儀式だと聞かされ、誰かが胸の前で手を組んだ。
子どもを抱いた女が、目を伏せる。
老人が、震える声で祈りの文句をなぞる。
彼らには、壇の上の二人の名は知らされていない。
本物の勇者が、そこにいることも。
その妹が、兄の隣で震えていることも。
神官長が巻物を開いた。
セヴラン・オドは、その少し後ろで静かに見ていた。
あの乾いた目で。
人の死を見る目ではなかった。
手順の進み具合を見る目だった。
「公開浄化を始めます」
神官長の声が、広場へ通る。
「近縁体、第一浄化」
ロアンの身体が跳ねた。
近縁体。
リネアの名ではない。
妹の名ではない。
ロアンは叫んだ。
リネア、と。
喉の奥で、音にならない叫びが裂けた。
首輪が白く光る。
胸の内側まで冷える。
ロアンの目が血走った。
口の端から、赤が一筋こぼれた。
リネアはその光を見た。
兄の声が、出ない理由を見た。
泣きそうな顔になった。
けれど、泣かなかった。
白い線が、リネアの足元に走った。
石の隙間から、細い光が立つ。
白い光は、優しくなかった。
祈りの形をしているだけだった。
民衆のざわめきが大きくなる。神官たちの祈りも重なった。清めの鐘が、遠くで一度鳴った。
リネアの身体が、びくりと震えた。
膝が折れかける。
縛られた手首が石にぶつかり、縄の下から細い赤がにじんだ。
「や……」
その声は途中で切れた。
ロアンは鎖を引きちぎろうとした。
魔力はない。
剣もない。
勇者の名も、もう壇の上にはない。
それでも腕に力を込める。手首の縄が食い込み、皮膚に赤い線がにじんだ。
兵が怒鳴った。
誰かがロアンの背を押さえつけた。
白い布が乱れる。
ロアンの視界には、リネアしかいなかった。
リネアは、光の中で兄を見上げた。
怖いはずだった。
痛いはずだった。
それでも、最後に向けた顔は、兄を責める顔ではなかった。
リネアの唇が震える。
光が、膝まで上がった。
「兄さんは……悪く、ないよ」
声は小さかった。
けれど、今度もロアンには届いた。
届いてしまった。
返す声はない。
違う。
俺が守るべきだった。
お前をここへ立たせるべきじゃなかった。
その全部が喉の内側で押し潰される。
ロアンは口を開けたまま、何も言えなかった。
リネアの指先が、兄へ伸びる。
ほんの少し。
届かない距離を、また少しだけ詰めようとして。
爪が石を掻いた。
白い壇に、小さな赤い線が残った。
白い光が、その手を包んだ。
リネアの目から、兄の姿が消えていく。
「兄、さん」
最後の音は、祈りに混ざらなかった。
ロアンの耳だけに残った。
次の瞬間、白い光が膨らんだ。
広場の者たちは、まぶしさに顔を背ける。
誰かが「浄化だ」と言った。
誰かが安堵の息を吐いた。
壇の上で、ロアンだけが見ていた。
光が薄れた場所に、リネアはいなかった。
白い布だけが、石の上に落ちていた。
その端に、赤い点が一つ残っていた。
「近縁体、浄化完了」
神官長が言った。
記録係が復唱する。
「近縁体、浄化完了」
壇の下で、誰かが、よかった、と小さく息を吐いた。
魔王の穢れが消えたのだと、そう信じて。
その声で、ロアンの中の何かが折れた。
いや。
折れたのではない。
空いた。
胸の奥に、底のない穴が開いた。
ロアンはリネアのいた場所へ飛び出そうとした。
鎖が鳴る。
兵が押さえる。
彼は止まらない。
声が出ないまま、何度も妹の名を叫ぶ。喉の内側が焼ける。息が血の味を帯びる。
それでも音は出ない。
リネア。
リネア。
リネア。
口の形だけが、白い壇の上で壊れていく。
目尻から、赤い涙が落ちた。
白い壇に、一滴だけ落ちた。
セヴランが片手を上げた。
「魔王の器を中央へ」
兵がロアンを引き戻す。
リネアの白布へ伸ばした手が、石の上を掻いた。爪が欠ける。指先に血がにじむ。
白い石に、短い赤が増えていく。
あと少し。
布に触れられそうだった。
けれど、届かない。
届かないまま、ロアンは壇の中央へ引きずられた。
「魔王の器、最終浄化」
神官長の声が、広場へ響く。
民衆は息を潜めた。
魔王の穢れを宿した者が清められる。
そう聞かされている者たちが、白い壇を見つめている。
ロアンは民衆を見ていなかった。
セヴランも。
神官も。
王国の紋章も。
何も見ていなかった。
視界の端に残った、白い布だけを見ていた。
リネアがいた場所。
妹が最後に立っていた場所。
そこへ行こうとして、また兵に押さえつけられる。
白い線が、今度はロアンの足元に走った。
冷たい光が石の隙間から立ち上がる。
首輪が強く光った。
ロアンの口が開く。
もう一度だけ。
リネア。
音は出ない。
ロアンは、自分の足元に立つ光を見ていなかった。
最後まで、妹の白布だけを見ていた。
白い光が膝を越えた。
腰を越えた。
胸へ届く。
ロアンは最後まで、壇の上の白布へ手を伸ばしていた。
「魔王の器、浄化完了」
光が弾けた。
広場が真っ白になる。
鐘が鳴った。
神官たちの祈りが高くなる。
民衆の前から、もう一人も消えた。
清めは終わった。
そう見えた。
セヴランは広場へ向けて、静かに両手を広げた。
「王国は、魔王の穢れを退けました」
人々の間に、低いざわめきが広がる。
祈る者がいた。
膝をつく者がいた。
ほっと息を吐く者がいた。
白い壇の上には、何もない。
遠くからは、そう見えた。
神官長が巻物を閉じる。
兵が民衆の視線を遮るように列を詰めた。
その陰で、壇の中央に掛けられた白布が、わずかに沈んだ。
石の下で、何かが動く。
音はほとんどなかった。
祈りの声に紛れるほどの、小さな軋み。
壇の床が、細く割れた。
白い光の奥から、二つの影が滑り落ちる。
小さな影。
そのすぐ後に、大きな影。
どちらにも白い布が掛けられていた。
上では、鐘が鳴り続けている。
下では、冷たい穴が口を開けている。
兄妹の影は、祈りの届かない暗がりへ沈んでいった。
白い壇の下で、石の床だけが静かに閉じた。
閉じた石の下で、祈りだけが届かなかった。




