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第006話 対象A、対象B

王都の鐘は、神殿の奥では遠かった。


厚い壁をいくつも越えた音は、祝福ではなく、ただの震えになって白い机をかすかに揺らしている。


机の上に、二枚の記録紙が置かれていた。


一枚目には、ロアン・ノール。


二枚目には、リネア・ノール。


どちらの紙にも血はついていない。


泥もない。


ただ、名前だけがあった。


白い法衣の神官が、細い筆を持ち上げる。筆先には、乾ききらない朱が残っていた。


「このままではありません」


神官の向かいに、セヴラン・オドが立っている。


大神官は、二枚の紙を順に見た。


人を見る目ではなかった。


在庫を数える目でもない。もっと乾いている。壊れた器の欠け方を確かめるような目だった。


「名は不要です」


セヴランが言った。


筆が、ロアン・ノールの名の上を横切る。


朱の線が引かれた。


一息で。


迷いなく。


その上に、小さな白い札が置かれる。


対象A。


札は軽かった。


けれど、紙の上の名前を見えなくするには十分だった。


「魔王の穢れを宿した主対象。公開浄化の第一処置へ回します」


記録係が復唱する。


声に揺れはない。


「対象A、第一処置」


「違います」


セヴランは薄く目を細めた。


「第一ではなく、先行処置。民に見せる順がある」


「失礼しました。対象A、先行処置」


訂正された言葉が、紙の端に書き込まれる。


次に、筆がリネア・ノールの名へ移った。


その名は、ロアンの名より小さく書かれている。


それでも人の名だった。


兄を呼んだ声のある名だった。


朱が、そこを消した。


同じ白い札が置かれる。


対象B。


「近縁関連体。対象Aとの接触を制限。壇上配置は、神官長の指示に従う」


記録係が読み上げる。


箱のふたが開いた。


中には、白い輪がいくつも並んでいた。首輪というには細く、飾りというには冷たすぎる。内側に刻まれた細かな文様が、灯りを受けて薄く光った。


セヴランは、そのひとつを指で示した。


「対象Aには、封声を」


部屋の端に立っていたイヴェナ・レイスが、わずかに顔を上げた。


白い聖女の衣。


祈りの形に組まれた指。


けれど、その指先は少しだけ強く握られていた。


「声を、封じるのですか」


小さな声だった。


セヴランは振り返らない。


「民に不要な混乱を与えます」


「ですが、彼は」


「対象Aです」


イヴェナの指が、祈りの形からほどけかけた。


けれど、すぐに元の形へ戻った。


その一言で、イヴェナの言葉は止まった。


鐘がまた遠く鳴る。


記録係は、リネアの名が消えた紙を重ねた。


紙と紙が擦れる音だけが、部屋に残った。


白い回廊を、鎖の音が進んでいく。


ロアンは両手を縛られていた。


足元はふらついている。聖杯に封じられた魔力は戻らず、胸の奥にあるはずの熱が冷えた石で塞がれているようだった。


それでも、歩かされているだけではなかった。


兵が腕を引くたび、ロアンは肩で逆らった。膝が落ちかけても、前を見る。白い壁。白い床。白い法衣。どれも同じ色で、どこにも妹の姿はない。


「リネアはどこだ」


声は掠れていた。


だが、届いた。


前を歩く神官が振り返る。


「対象A、口を慎みなさい」


ロアンの目が見開かれた。


「誰のことを言ってる」


「あなたです」


「俺は対象じゃない」


鎖が鳴る。


ロアンは兵の手を振りほどこうとした。魔力はない。力も戻っていない。それでも、腕だけは前へ出る。壁に手をつき、神官を睨む。


「俺はロアン・ノールだ。勇者だ。リネアはどこだ。妹に何をした」


兵が背後から肩を押さえる。


膝が石に落ちた。


痛みが走る。


ロアンはそれでも顔を上げた。


「答えろ! リネアをどこに」


白い輪が、視界の端で光った。


兵がロアンの顎を押さえる。別の手が、喉元へ冷たいものを当てた。


「やめろ」


ロアンは首を振った。


「何をする。リネアを呼ばせろ。俺に会わせろ」


輪が閉じた。


小さな音がした。


鍵が噛み合う音だった。


「対象A、発声を禁じます」


神官の指が、首輪の文様をなぞる。


ロアンは叫んだ。


叫んだはずだった。


口は開いた。


喉は震えた。


けれど、音はどこにも出なかった。


息だけが、喉の内側で潰れる。


ロアンの目が揺れた。


もう一度、叫ぶ。


リネア。


その形に口が動く。


唇だけが、妹の名を覚えていた。


声はない。


兵の一人が、目を逸らした。


神官は見ていない。首輪の位置を確かめ、記録係へ頷いただけだった。


「対象A、封声完了」


その言葉だけが、回廊に響いた。


外の空気は、冷たかった。


神殿の前に、白い壇が組まれている。


石段は三つ。


上には白布が掛けられ、王国の紋章と神殿の印が並べられていた。清めの花が置かれている。水の入った銀の器がある。遠くから見れば、祈りの場に見えた。


近くで見ると、逃げ場のない台だった。


兵が左右に並ぶ。


神官たちが低く祈りを唱える。


広場の向こうには、人の気配があった。王都の者たちはまだ何も知らない。ただ、神殿が勇者を清めるのだと聞かされ、白い壇を見上げている。


ロアンは石段の前で足を止めた。


止めたのは、一瞬だけだった。


兵が背を押す。


一段目。


二段目。


白布の上に立たされる。


首輪が喉を冷やしていた。


声が出ない。


腕は縛られたまま。


それでもロアンは周囲を見た。兵の列。神官。白い布。人垣の影。リネアを探す。細い肩。薄い髪。兄を呼ぶ声。


どこだ。


口だけが動く。


どこにいる。


神官長が巻物を開いた。


「対象A、配置完了」


記録係が返す。


「対象A、配置完了」


壇の下で、別の兵が動いた。


神官長は、次の行を読んだ。


「対象Bを上げろ」


ロアンの身体が跳ねた。


声は出ない。


それでも、鎖が鳴るほど強く前へ出ようとした。兵が二人がかりで押さえる。白布が足元で乱れた。


壇の脇から、小さな影が連れて来られる。


リネアだった。


手首を縛られ、白い布を肩に掛けられている。顔色は悪い。けれど、その目は死んでいなかった。怯えながらも、必死に誰かを探していた。


そして、壇の上でロアンを見つけた。


「ロアン兄さん……?」


その声は、ロアンに届いた。


ロアンの声は、届かなかった。


リネアが一歩、前へ出ようとする。


兵が止めた。


「対象B、壇へ」


「待って、兄さんが」


「対象B、壇へ」


同じ言葉が、もう一度落ちる。


リネアの唇が震えた。


ロアンは首を振った。


来るな。


そう言おうとした。


喉の奥で、声にならない息が裂けた。


リネアはそれでも、ロアンを見ていた。


兄の口が動いていることに気づいていた。


何かを言おうとしていることも。


けれど、何も聞こえない。


兵に促され、リネアは石段へ足をかけた。


一段目。


白い布が揺れる。


二段目。


ロアンの手が、縛られたまま前へ伸びる。


届かない。


神官長が巻物に目を落とした。


「対象B、配置」


白い壇の二段目に、対象Bが立たされた。

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