第005話 新勇者の旗
王都の鐘は、朝から鳴り続けていた。
魔王討伐。
王国の勝利。
その二つの言葉だけで、大通りは人で埋まった。
王城へ続く白い石畳の上に、商人も、職人も、兵の家族も、子どもを肩車した父親も立っている。昨日まで店の扉にかけられていた祈り札が、今日は祝いの布に替わっていた。
広場の中央には、告示台が組まれている。
白く塗られた台。
その背後には、まだ布をかけられた旗竿が三本。
王国兵が台の左右に並び、槍の石突きをそろえている。彼らの鎧は磨かれていた。戦場帰りの泥も、血も、傷もない。王都の朝に合わせて用意された、きれいな銀だった。
「勇者様は、どこだ」
誰かが言った。
その声に、近くの者たちが首を伸ばす。
「ロアン様は出ないのか」
「お怪我をされたんじゃ」
「でも、魔王を倒したんだろう」
ざわめきは、不安というほどではなかった。
まだ、誰も疑っていない。
誰もが、いまに告示台の横から銀の剣を帯びた男が現れると思っていた。傷だらけで、少し困ったように笑い、王の前に跪くより先に、無事に戻った兵へ声をかけるような男を。
広場の掲示壁には、ロアン・ノールの肖像がかけられていた。
勇者の外套。
まっすぐな目。
剣を握る右手。
子どもたちは、それを見上げて名前を覚えた。商人たちは、店先に同じ絵を小さく写した札を置いた。王都の者たちは、遠い戦場へ向かった勇者を、そうやって待っていた。
鐘が、ひときわ大きく鳴った。
告示台の上に、王国の告示役が立つ。
白い巻物を広げる音が、広場のざわめきを薄く裂いた。
だが、その横にロアン・ノールの姿はなかった。
「オルガレム王国の民に告げる」
告示役の声は、よく通った。
「魔王は討たれた。長き戦は終わり、王国に勝利がもたらされた」
歓声が上がる。
最初は大きく。
けれど、すぐに少しだけ揺れた。
人々の視線が、告示台の横を探していた。兵の列の後ろ、王城の門、布をかけられた旗竿。そのどこにも、ロアンの銀の剣はない。
告示役は巻物から目を上げなかった。
「この勝利は、王の御名のもと、王国の剣、神殿の祈り、すべての民の支えによって成ったものである」
拍手が続く。
けれど、遅れた。
言葉が整いすぎていた。
戦場から戻った者の声ではない。血を見た者の震えでもない。あらかじめ白い紙の上で磨かれた、角のない言葉だった。
「勇者ロアン・ノールは」
その名が出た瞬間、広場が明るく揺れた。
子どもが顔を上げる。
母親が胸の前で手を組む。
兵の家族が、息を吸う。
告示役は、そこで一拍置いた。
「魔王との決戦において、深く穢れを身に受けられた」
歓声が、途中で止まった。
「現在は神殿にて、清めを受けておられる。民の前に姿を現すことは、しばらく叶わぬ」
「穢れ……?」
誰かが呟いた。
「ロアン様が?」
「でも、勝ったんだろう」
「清めなら、すぐ戻られるのか」
問いは、ばらばらに生まれた。
どれも小さかった。
広場の端まで届く前に、王国兵の槍が石畳を打った。
一度。
二度。
三度。
金属の音が、疑問の上にかぶさる。
告示役は、巻物を持つ手を動かした。
「王国は、魔王の残した影に備えねばならぬ。民を守り、王都を守り、勝利を穢れから遠ざけるために」
背後の旗竿から、ひとつめの布が落とされた。
王国の紋章が朝日に開く。
「ここに、王は新たなる勇者を立てられる」
ざわめきが広がった。
喜びではなかった。
理解が追いつかない時の、足元を探すような音だった。
告示台の奥から、一人の男が進み出た。
白い外套をまとっていた。
外套は新しく、肩の線にまだ馴染んでいない。胸元の留め具は磨かれ、腰には剣がある。戦場をくぐった鉄の重さより、式典のために選ばれた光が先に目についた。
男は台の中央で止まる。
顎を上げる。
歓声を待つ者の目だった。
「セルド・ガルヴァン」
告示役が名を読み上げた。
「王国の剣を継ぎ、民の前に立つ者。魔王の影に揺らぐことなく、これより新勇者として王国を導く者である」
セルド・ガルヴァンは、胸に手を当てて頭を下げた。
形は美しかった。
深さも、角度も、王都の者が見慣れた礼に合っている。
だが、顔を上げるのが少し早かった。
拍手より先に、彼の口元が緩んだ。
広場はまだ戸惑っている。ロアンの名が、さっきまで空気の中に残っていた。その残り香を、セルドの目が拾う。
掲示壁の肖像。
子どもの手にある小さな札。
老人が胸の前で握りしめている、古い勇者の護符。
セルドは一瞬だけ、その肖像を見た。
笑みの奥で、奥歯が噛み合った。
セルドの手袋が、かすかに鳴った。
指が内側へ食い込む。
けれど、その音は誰にも聞こえない。
「王国のため」
セルドは言った。
声は高すぎず、低すぎず、よく練られていた。
「この剣を捧げます」
短い言葉だった。
広場の後ろで、誰かが拍手をした。
次に、王国兵が声をそろえる。
「新勇者セルド・ガルヴァンに栄光を」
槍が石畳を打つ。
「新勇者セルド・ガルヴァンに栄光を」
鐘が鳴る。
旗が上がる。
戸惑いは、音に押されて形を失っていった。
拍手が増える。
名前が増える。
セルド。
セルド・ガルヴァン。
新勇者。
最初は舌に馴染まなかった名が、兵の声と鐘の間で少しずつ広場に置かれていく。
セルドはそれを聞いていた。
全身で聞いていた。
口元だけで笑い、目だけは笑わない。歓声が自分の名に変わるたび、彼の背筋はまっすぐになった。借り物の外套が、少しずつ自分のものになっていくように。
それでも。
掲示壁の肖像だけが、まだ残っていた。
告示役が巻物を閉じる。
横にいた士官へ、短く命じた。
「外せ」
二人の兵が掲示壁へ向かった。
広場の前列にいた子どもが、父親の肩の上で首を傾げる。
「あれ、取っちゃうの」
父親は答えなかった。
兵の一人が、壁にかけられた額へ手を伸ばす。
釘が、きしんだ。
ロアン・ノールの肖像が、壁から少し浮く。
その顔は、まだまっすぐ前を見ていた。
歓声の方ではなく。
新しい旗の方でもなく。
どこか、広場の向こうを。
兵が力を込めた。
額が外れる。
壁に、日焼けしていない薄い四角が残った。
そこだけが、周りの石より白かった。長い間、何かを守っていた跡のように。
三本目の旗竿から、最後の布が落ちる。
新しい旗が、朝の風を受けてふくらんだ。
セルド・ガルヴァンの名が、また呼ばれる。
その声の下で、兵は外した肖像を裏向きに抱えた。
ロアンの顔は、広場から見えなくなった。
壁に残った薄い四角だけが、本物の勇者の形をしていた。




