第004話 勇者ではなく、器
王城の奥に、朝の光は届かなかった。
厚い石壁の向こうで、鐘が鳴っている。
魔王討伐。
勇者万歳。
オルガレム王国に勝利を。
いくつもの声が、城下から波のように押し寄せていた。だが、奥評議室の扉は重く、歓声は石に吸われ、ただ低い震えだけになって床を揺らしていた。
王城奥評議室の、白い石卓の上に、数枚の報告書が置かれている。
血の跡はない。
泥もない。
ただ、黒い印を写し取った図だけがあった。
円にも、傷にも見えない。胸の内側から浮き上がったような、黒い染み。報告書の紙の上でさえ、それは乾いていない影のようだった。
卓の上座に、ダルバ・オルガレム三世が座っていた。
老いた王だった。
濃い赤の外套。重い王冠。太い指には王家の指輪がはまっている。指輪の宝石は朝の光を受けていないのに、燭台の火を拾って鈍く光った。
その指が、卓を叩く。
一度。
二度。
「聖杯は効いたか」
王の声は、鐘の音より低かった。
卓の下手で、報告役の騎士が膝をついている。兜を脱いだ額には汗が浮いていたが、顔を上げることはなかった。
「はい。勇者ロアン・ノールの魔力反応は沈黙しました」
勇者。
その言葉に、王の指が止まった。
部屋の端に立つ大神官セヴラン・オドが、何も言わずに報告書をめくった。
乾いた指だった。
薄い紙の端を、肉ではなく骨でつまんでいるように見える。
「妹は」
王が尋ねた。
「リネア・ノール様も、確保しております」
報告役の声が、少しだけ細くなった。
「抵抗は」
「勇者様が動こうとされましたが、聖杯の効き目により、立つことも難しいご様子でした。妹君は……兄君のもとへ戻ろうと」
報告役の喉が動いた。
だが、言葉にはしなかった。
「聞いておらぬ」
王が短く遮った。
報告役の背が固まる。
「確保できたかどうかだけを言え」
「確保しております」
「ならばよい」
よい。
その一言で、部屋の空気が一段冷えた。
外ではまた歓声が上がった。
今度は、はっきり聞こえた。
ロアン。
ロアン・ノール。
勇者の名を呼ぶ声だった。
王の口元が歪む。
「城下は、ずいぶん楽しそうだな」
誰も答えなかった。
セヴランだけが、静かに紙を重ねる。
「魔王が倒れましたので」
「魔王を倒したのは王国だ」
王の指輪が、卓を打った。
「王国の勝利は、王の名で語られるべきものだ」
「兵を出したのは王国だ。道を開いたのも、糧を運んだのも、傷を癒やしたのも王国だ。あの男ひとりで成った勝利ではない」
「民は、剣を見ます」
セヴランが言った。
「剣を振った手を見ます。糧を運んだ者の数までは、覚えません」
王の目が細くなる。
「皮肉か、セヴラン」
「事実です、陛下」
大神官は頭を下げた。
けれど声は下がらない。乾いたまま、王城奥の白石の部屋に落ちた。
「ロアン・ノールを勇者として凱旋させれば、民はさらに彼を愛します。魔王を倒した男として。王都へ帰った英雄として」
「王の前に跪かせればよい」
「跪いた姿さえ、民は美談にします」
外の歓声が、また扉を震わせる。
勇者万歳。
王の名ではなかった。
ロアンの名だった。
ダルバは椅子の背にもたれた。古い木が、小さく軋む。
「あの男は、いつもそうだ」
低い声だった。
「村を救えば民が泣く。兵を庇えば兵がついてくる。魔物を斬れば子どもが名を覚える。王都の者まで、あやつの剣を歌にする」
セヴランは、黒い印の写しに視線を落とした。
「だからこそ、戻してはなりません」
「印か」
「はい」
「魔王の呪いなら、神殿が祓えばよい」
「祓えるものならば」
セヴランは、黒い印の写しに指を置いた。
「ですが、陛下。祓ってしまえば、残るものもありません」
セヴランは、卓の中央へ一枚の紙を滑らせた。
そこにはロアンの胸に浮かんだ黒い印が、より細かく描かれていた。外側は滲み、内側は沈んでいる。傷ではない。焼き跡でもない。まるで、身体の奥から誰かが扉を押しているような形だった。
報告役が、それを見て息を呑んだ。
セヴランは見なかった。
「魔王は倒れました。けれど、何かを残しています」
「何か、では困る」
王の声が荒くなる。
「勝利の日だぞ。城下では鐘が鳴っておる。民は王国の安寧を信じておる。そこで勇者の胸に黒い印が残りました、などと知らせてみろ。勝利は穢れる」
「知らせる必要はありません」
セヴランは即座に答えた。
王が黙る。
大神官は、もう一枚の紙を置いた。
そこには、リネア・ノールの名が書かれていた。
細い字だった。
人の名というより、欄を埋めるための記号のように見えた。
ロアンの名より小さく。
けれど同じ卓の上に。
「勇者の血縁です」
「妹だと聞いている」
「神殿では、最も近い者と見ます」
「娘ひとりが、何だというのだ」
セヴランの指が、リネアの名の横で止まった。
「魔王が勇者に何かを残した。そう見るべきです。ならば、その近くにいる者を離してはなりません」
「守るためか」
王が問うた。
セヴランは、ようやく王を見た。
「管理するためです」
王の目が、黒い印の写しへ落ちた。
次に、リネア・ノールの名が置かれた紙を見る。
「使えるのか」
その問いは、祓いの話ではなかった。
セヴランはすぐには答えない。
「同じ輪の内に置けば、反応は残せます」
短い沈黙が落ちた。
外の鐘が遠くなる。
部屋の中では、燭台の火が小さく揺れていた。
「ロアン・ノールを、魔王を倒した勇者として扱うべきではありません」
セヴランは言った。
「少なくとも、民の前へ戻す名ではありません」
「では何だ」
王の問いに、大神官はためらわなかった。
「器です」
白い石卓に、その言葉が落ちた。
「魔王の器。勇者の名で民の前へ戻すには、危険すぎるものです」
報告役が顔を上げかけた。
だが、すぐに伏せた。
リネアの名が書かれた紙の端が、燭台の熱でわずかに反る。
セヴランは続けた。
「妹君も同じ輪の内に置くべきです。兄だけを閉じ、妹だけを帰せば、民は泣きます。兵も騒ぎます。何より、勇者自身が動こうとする」
「もう動けぬのだろう」
「今は」
その言葉に、王の指がまた止まった。
今は。
短い二文字が、長い影を落とす。
ダルバは黒い印の紙を見た。
次に、ロアンの名を見た。
最後に、リネアの名を見た。
「あの男を戻せば、民は王ではなく勇者を見る」
王は呟いた。
「あの男が黒い印を持って戻れば、民は王国の勝利ではなく魔王の影を見る」
セヴランは答えない。
答える必要がなかった。
王はゆっくりと立ち上がった。
外套の裾が床を擦る。赤い布が、評議室の白い床を血のように引きずられた。
「凱旋の列に、ロアン・ノールを加えるな」
報告役が息を止めた。
「妹も同じく、神殿の管理下に置け。兵には清めの続きだと伝えろ。余計な口を開かせるな」
「御意」
セヴランが頭を下げた。
王は卓の端に置かれた封蝋を手に取る。
赤い蝋が火で柔らかくなり、紙の上へ落ちた。
ロアン・ノール。
その名のすぐ下に、赤が広がる。
王の指輪が押しつけられた。
紋章が刻まれる。
蝋が冷えていく。
「民には、別の旗を見せる」
王は言った。
「剣を掲げる者など、いくらでも作れる」
「魔王は倒れた。王国は勝った。民に必要なのは、それだけだ」
「勇者の名は」
セヴランが静かに問う。
王は、封蝋から指輪を離した。
赤い紋章の下で、紙が少し波打っている。
「勇者ロアン・ノールの名は、いま終わる」




