第003話 おかえり、兄さん
聖剣は、沈黙していた。
ロアンは柄を握りしめた。
いつもなら、指が触れただけで光は返ってくる。呼吸に合わせて、刃の奥から銀の熱が満ちる。
だが今は、ただ冷たい。
鉄の重さだけが手のひらに残っている。
「光れ」
声はかすれた。
聖剣は応じない。
胸の奥で、黒い印だけが小さく脈を打った。氷の粒を心臓の裏へ押しつけられたような冷たさだった。
ロアンは顔を上げる。
イヴェナは、まだ白い杯を抱えていた。
「何を飲ませた」
「ロアン様」
イヴェナの指が、白い杯の縁を強く握った。
けれど、彼女は何も言わなかった。
「答えろ、イヴェナ」
幕の入口にいた兵が一歩出た。
「勇者様、剣をお置きください」
「下がれ」
ロアンは立ち上がろうとした。
膝が笑った。
身体が前へ傾き、左手が寝台の端を掴む。焼けるような痛みが肩から腕へ走った。
それでも、外へ行かなければならない。
勝鬨がまだ聞こえている。
けれど自分は、その声の外にいる。
王国旗の影が、白い布の向こうで揺れていた。兵たちはその影を見ている。従者たちはロアンの顔を見ない。胸のあたりへ一度だけ視線を落とし、すぐに伏せる。
「俺を、ここに閉じ込めるつもりか」
「閉じ込めるなど」
兵の声は丁寧だった。
丁寧で、扉のようだった。
「凱旋前の確認でございます。王都へお戻りになる前に、勇者様には清めを終えていただかなければ」
「清めは終わったんだろう」
ロアンは聖剣を持ち上げた。
刃は、白い幕の光を鈍く返すだけだった。
「なら、なぜこいつは光らない」
兵は答えなかった。
イヴェナも答えなかった。
その沈黙が、返事だった。
ロアンは歯を食いしばり、足を前へ出す。
外へ。
まず外へ出る。
何が起きているのか、自分の目で見ればいい。王へ問いただせばいい。倒れた兵を見に行けばいい。王都へ戻れば、全部が正しい場所へ戻るはずだった。
一歩。
白い布が近づく。
二歩目で、膝が崩れた。
「っ……」
聖剣の切っ先が床布を擦る。
兵が動いた。
「お支えを」
「触るな」
ロアンは腕で払おうとした。
力が入らない。
自分の身体が、自分のものではないようだった。
その時だった。
幕の外で、小さな足音が止まった。
「ロアン兄さん」
白い布の向こうから聞こえた声に、ロアンの息が止まった。
勝鬨より近い。
剣の音より柔らかい。
戦場の血の匂いの中で、その声だけが家の戸口みたいに聞こえた。
「リネア」
幕が開く。
薄い外套を握りしめた少女が、そこに立っていた。
リネア・ノール。
ロアンの妹だった。
「兄さん」
リネアは駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。
ロアンの肩の包帯を見た。
焼けた左手を見た。
血の乾いた服を見た。
それから、顔を見た。
「どこが痛いの」
それが、最初の言葉だった。
魔王を倒したことでも、勇者と呼ぶことでもなかった。
リネアはただ、兄の怪我を見ていた。
ロアンは息を吸った。
胸の奥に詰まっていたものが、一瞬だけほどける。
「大丈夫だ」
嘘だった。
声だけで分かったのだろう。
リネアの眉が震えた。
「大丈夫な顔じゃない」
「いつものことだ」
「いつもよりひどい」
そう言って、リネアはロアンの右手へ手を伸ばした。
ロアンは反射的に左手を引いた。
黒い印のある胸元へ、兵たちの視線がまた集まった気がした。
リネアが、それに気づく。
「兄さん?」
「来るな、リネア」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
リネアの肩が跳ねる。
ロアンはすぐに顔を歪めた。
「違う。お前に怒ったんじゃない」
「じゃあ、どうして」
リネアは幕の内を見回した。
白い布。
白い杯。
目を伏せる聖女。
入口を塞ぐ兵。
彼女の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「兄さん、帰ってきたんだよね」
「ああ」
「魔王を、倒したんだよね」
「倒した」
「なら、どうして」
その先を、リネアは言えなかった。
ロアンにも、答えられなかった。
外ではまだ、勇者万歳の声が上がっている。
その声のすぐそばで、妹は怯えていた。
ロアンは聖剣を杖代わりにして、身体を起こした。
「リネア、外へ出ろ」
「兄さんは」
「俺は後で行く」
「嘘」
「リネア」
「置いていかない」
リネアは首を振った。
小さい頃から、怖い時ほどそうだった。泣きそうな顔をしているのに、足だけは動かない。
「兄さんが帰ってきたなら、私もここにいる」
「帰ったら、また薬湯を作るから」
リネアは泣きそうな顔で、少しだけ笑おうとした。
「兄さん、いつも苦いって言うけど。今日は、ちゃんと飲んで」
ロアンは言葉に詰まった。
帰ってきた。
その一言だけで、膝の痛みより深いところが熱くなる。
王都でも、凱旋でも、王の前でもない。
この声の前でだけ、ロアンは勇者でなく兄だった。
「おかえり、ロアン兄さん」
その声に、ロアンは手を伸ばしかけた。
だが、白い手袋が先に動いた。
幕の入口にいた従者が、リネアの前へ出る。
「リネア様にも、ご同行を」
ロアンの指が止まった。
「何だと」
「王都へお戻りになる前に、確認が必要です」
従者は柔らかく頭を下げた。
「勇者様に近しい方も、清めを受けていただきます」
「リネアは戦っていない」
「手順でございます」
従者はリネアではなく、手元の札を見ていた。
手順。
その言葉が、白い布より冷たかった。
リネアは一歩、ロアンの方へ下がる。
「兄さん」
兵が動いた。
左右から、静かに。
剣は抜いていない。
だから余計に悪かった。
まるで最初から、暴れる必要などないと決まっているようだった。
ロアンは聖剣を握り直した。
「妹に触るな」
胸の黒い印が脈を打つ。
聖剣は光らない。
痛みより先に、身体が動いた。
それでもロアンは踏み出した。
足がもつれた。
床布が近づく。
肩から落ちる寸前、寝台の端に肘をぶつけて止まった。痛みで視界が白く弾ける。
「兄さん!」
リネアが駆け寄ろうとした。
白い手袋が、その手首を掴んだ。
「離して」
リネアの声が震えた。
「兄さんのところへ行かせて」
「ご安心ください。すぐに済みます」
兵の声は、まだ丁寧だった。
ロアンはイヴェナを見た。
「イヴェナ」
イヴェナは目を伏せていた。
「やめさせろ」
イヴェナの唇が震えた。
けれど、彼女は何も言わなかった。
リネアの手首に、もう一つ白い手袋が重なる。
細い腕が引かれる。
「兄さん」
ロアンは手を伸ばした。
届くはずだった。
剣よりも、王都よりも、勝利よりも近い場所にいたはずだった。
指先が空を掴む。
白い幕が揺れた。
リネアの姿が、その向こうへ消えていく。
外の勝鬨が、遠くなる。
ロアンの手は、妹に届かなかった。




