第002話 勝利のあとに聖杯は差し出された
勝鬨は、白い布の向こうで遠かった。
ロアン・ノールは、薄く目を開けた。
最初に見えたのは、天井ではない。布だ。白い布が何枚も重なり、夜明けの光をぼんやり透かしている。
鼻の奥に、薬草の匂いがした。
その下に、血の匂いが残っていた。
身体を起こそうとして、脇腹に熱が走る。肩も、左手も、焼けるように痛い。
それでも、ロアンは肘をついた。
「っ……」
白い幕が揺れた。
外から兵たちの声が聞こえる。
魔王討伐。
勇者万歳。
オルガレム王国に勝利を。
それらが布に吸われて、濁った水の中の音のように届いていた。
記憶が、少しずつ戻ってくる。
魔王の灰。
割れた黒い空。
遅れて届いた王国軍の勝鬨。
誰かに肩を貸され、血のにじむ視界の端で、王国旗が朝の光に広がっていた。あの時、兵たちは泣いていた。癒し手は祈っていた。少年兵は折れた槍を抱えたまま、何度もロアンの名を呼んでいた。
その声だけは、まだ耳に残っている。
ロアンは息を整え、胸元に手を当てた。
そこに傷はない。
だが、冷たい。
魔王の指が触れた場所だけ、身体の奥に小さな黒い石を埋め込まれたようだった。
一度、脈を打つ。
ロアンは眉を寄せた。
「……ここは」
「お目覚めですか、勇者様」
幕の入口に、王国兵が立っていた。
鎧は戦場の煤で汚れている。顔には笑みがある。けれど、その目はロアンの顔ではなく、胸元を見ていた。
「城の中にいた者たちは」
ロアンが尋ねると、兵は一拍遅れて答えた。
「救護班が運んでおります」
「少年兵がいた。槍を折られていた」
「確認します」
「癒し手の子もだ」
「……手配は、済んでおります」
同じ返事だった。
ロアンは立ち上がろうとした。
兵が慌てて近づく。
「勇者様、まだお休みください。凱旋の準備が整うまで、この幕の内で」
「凱旋?」
ロアンは幕の向こうを見た。
外では、まだ勝鬨が続いている。
自分はその中にいない。
幕の隙間から、王国旗の端だけが見えた。
兵たちの影が右へ流れていく。おそらく凱旋の列が組まれているのだろう。剣を掲げる者、肩を組む者、泣きながら笑う者。
けれど、その列はこの幕の前を通り過ぎていく。
誰も、ロアンを呼びに来ない。
「俺も行く。魔王は倒した。王都に戻って報告を」
「その前に、清めが必要です」
兵の声が、少し固くなった。
ロアンは兵を見た。
兵は目を逸らした。
目を逸らした先で、神殿付きの白衣の従者が布を押さえている。
その従者も、ロアンと目を合わせない。
傷を見ているのではない。
全員が、胸を見ていた。
白い布を抱え直し、従者が言った。
「魔王と、あれほど近くで戦われました。傷の確認と、穢れの祓いを。聖女様がこちらへ」
白い幕が、音もなく開いた。
朝の光を背に、ひとりの女が入ってくる。
白い法衣。
銀糸の縁取り。
胸元には、オルガレム王国の聖印。
イヴェナ・レイスだった。
戦場に似合わないほど、白かった。
けれどその白さの中で、彼女の指先だけが小さく震えていた。
「ロアン様」
イヴェナは、泣きそうな顔で微笑んだ。
「ご無事で……」
「無事、という顔じゃないだろ」
ロアンは短く笑おうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。
イヴェナが近づく。
その視線が、肩の裂傷を通り、焼けた左手を通り、最後に胸の一点で止まった。
ほんの一瞬。
まばたきが止まった。
ロアンはそれを見逃さなかった。
「何かあるのか」
「いいえ」
返事は早かった。
早すぎた。
イヴェナはすぐに視線を下げ、両手で抱えていた杯を差し出した。
白い杯だった。
内側には、薄い光を含んだ水が揺れている。
杯の縁には小さな聖印が刻まれていた。
戦場で見るには、あまりに綺麗だった。
泥も、煤も、血もついていない。
ロアンの指先の血が、その白さを汚しそうで、受け取る前から少し躊躇した。
「凱旋の前に、清めを」
「清めなら後でいい。先に負傷者を」
「もう手配しています」
イヴェナの声は柔らかかった。
柔らかくて、冷たい幕の中によく響いた。
「あなたが立ってくださらなければ、兵たちも民も安心できません。どうか、これを」
ロアンは杯を見た。
白い水面に、自分の顔が歪んで映る。
目の下に影が落ちていた。
腕は重い。立っているだけで、足元が揺れる。聖剣はすぐそばに置かれているのに、手を伸ばすだけの動きがひどく遠い。
本当なら、今すぐ外へ出たい。
倒れた兵を見に行きたい。
魔王が倒れたと、自分の口で王へ報告しなければならない。
けれど、膝は笑っていた。
肩の傷は熱を持ち、左手は握り込むだけで焼けるように痛んだ。
胸の黒い印が、また冷たく脈を打った。
ロアンは息を吐いた。
「魔王の置き土産か」
「……穢れは、残してはいけません」
イヴェナの睫毛が震えた。
「王都の民が、あなたを待っています」
その言葉に、ロアンは目を閉じた。
外の歓声が遠い。
守った者たちが生きているのなら、それでいい。
清めが必要だというなら、受ければいい。
今倒れて、また誰かに運ばれる方が迷惑になる。
王都へ戻れば、全部終わる。
そう思いたかった。
それでも、イヴェナは何度も戦場で彼の傷を塞いできた聖女だった。
疑うより先に、信じる方を選んでしまう相手だった。
ロアンは杯を受け取った。
イヴェナの指が、ほんの少し触れる。
氷のように冷たかった。
「ありがとう、イヴェナ」
その名を呼んだ時、イヴェナの唇がわずかに動いた。
何かを言いかけた。
けれど言葉にはならない。
ロアンは杯を口へ運んだ。
水は甘くなかった。
苦くもなかった。
ただ、白い。
味がないのに、舌の上から温度だけが消えていく。
喉を通った瞬間、身体の奥で何かが閉じた。
音はない。
痛みもない。
だが、聖剣へ伸びていた感覚が、ぷつりと切れた。
ロアンは目を見開く。
指先に力を込める。
いつもなら、呼吸ひとつで応じるはずの魔力が動かない。
胸の奥の黒い印だけが、冷たく脈を打つ。
「イヴェナ」
声がかすれた。
「これは、何だ」
イヴェナは答えなかった。
白い杯を抱えた指だけが、かすかに震えていた。
外の勝鬨が、白い布の向こうで消えていく。
ロアンは聖剣へ手を伸ばした。
指は柄に届いた。
だが、光は返ってこない。
聖剣の光が、ロアンの手の中で消えた。




