第001話 魔王は勇者に銀を見た
魔王城の最奥に、朝はなかった。
夜だけが燃えていた。
天井は砕け、空は黒い炎に覆われている。玉座の間だった場所には、折れた柱と割れた紋章が転がり、熱で曲がった槍が石床に突き刺さっていた。
その中央で、勇者ロアン・ノールは片膝をついた。
血が喉を上がってくる。吐き捨てると、赤いしぶきが焦げた床に散った。
背後から、かすれた息遣いが聞こえる。
崩れた壁際に、王国兵が数人倒れていた。癒し手の少女は杖を抱えたまま震え、まだ少年の面影が残る兵は、折れた槍を握ったまま立ち上がれずにいる。
ロアンは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
前だけを見た。
玉座の残骸の上に、魔王が立っていた。
片角は折れ、外套の片側は燃え落ちている。胸には浅くない傷がある。それでも、その影は城より大きく見えた。
「まだ退かぬか、勇者」
魔王の声が、焼けた石の間を滑った。
ロアンは剣を支えにして立ち上がる。
聖剣は刃こぼれし、光も弱い。柄を握る指は血で濡れていた。
「守るべきものが、俺の後ろにいる」
それだけ言った。
魔王が笑う。
「だから遅い」
黒い魔法陣が空に開いた。
円が重なり、古い文字が逆向きに回る。次の瞬間、黒炎の槍が雨のように降った。
ロアンは走った。
一つ目を斬る。
二つ目を弾く。
三つ目は、間に合わなかった。
ロアンは肩を差し出した。
鎧が砕け、熱が骨まで沈む。けれど槍の穂先は、背後の兵には届かない。
「勇者様!」
少年兵の声が裏返った。
「伏せてろ!」
ロアンは叫んだ。
四つ目の槍が癒し手へ向かう。
間に合わない。
ロアンは剣ではなく身体を入れた。
黒炎が脇腹を裂く。息が止まる。膝が落ちかける。
それでも倒れなかった。
魔王の笑みが、ほんの少し薄くなる。
「勝つ気があるのか」
「ある」
「ならば、その虫どもを捨てればよい」
玉座の奥で、黒い炎が集まった。
炎は一本の大剣になった。城の壁を削り、柱を溶かし、最奥の間をまとめて断ち割るほどの刃。
あれが落ちれば、背後の者たちは消える。
横へ跳べば助かる。
跳んだ先から踏み込めば、魔王の胸に届く。
ロアンにも分かっていた。
分かっていて、剣を両手で握った。
「悪い」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
背後の者たちか。
ここへ来るまでに倒れた仲間たちか。
こんな戦い方しかできない、自分自身か。
黒炎の大剣が振り下ろされた。
音が消えた。
視界が黒に塗り潰される。
ロアンは前へ出た。
逃げるためではない。受け止めるためでもない。
斬るために。
「おおおおおおおおおッ!」
吠えた声が、黒い炎に呑まれた。
聖剣が悲鳴を上げる。腕の骨がきしむ。足元の石床が割れ、膝が沈む。
黒炎が肩へ食い込んだ。
鎧が溶ける。
皮膚が焼ける。
血が泡立つ。
それでも、ロアンは踏み込んだ。
一歩。
もう一歩。
聖剣の奥で、光が変わった。
白ではない。
金でもない。
炎の底に沈んでいた、細い銀。
その銀が、黒を裂いた。
魔王は、その銀を見た。
黒炎の奥に沈んでいた、白でも金でもない光を。
魔王の大剣が真ん中から割れる。
割れた闇の向こうで、魔王の目が細くなった。
ロアンは止まらない。
砕けた石を踏み散らし、玉座の残骸へ駆けた。限界など、とっくに過ぎている。けれど足は前へ出る。
魔王の爪が伸びた。
空間ごと切り裂く黒い爪。
ロアンは身を沈めた。爪が髪を裂き、頬を浅く切る。低い姿勢のまま、剣を返す。
銀の線が走った。
魔王の胸に、今度は深く刻まれる。
黒い血が噴き、床へ落ちた場所から石が腐った。
魔王が初めて一歩下がる。
ロアンは追った。
爪が来る。
受ける。
流す。
かわしきれないものは、肩で受けた。
血が飛ぶ。息が荒れる。視界の端が暗くなる。
それでも下がらない。
下がれば、誰かが死ぬ。
考えるまでもなかった。
ロアンの身体は、もう前へ出ていた。
聖剣と爪がぶつかった。
衝撃で玉座が砕け、黒炎と聖光が最奥の間を渦巻いた。
鍔迫り合いの距離で、魔王が囁く。
「愚かな男だ」
ロアンは、血の混じった息で笑った。
「よく言われる」
「その愚かさで、我を斬るか」
答える代わりに、ロアンは聖剣から片手を離した。
魔王の目が動く。
ロアンの左手が、魔王の腕を掴んだ。
黒炎が手のひらを焼いた。肉の焦げる匂いがする。指先の感覚が消える。
それでも離さない。
「逃がさない」
ロアンは、魔王の懐へ踏み込んだ。
距離が消える。
右手に残った聖剣を、胸の高さでまっすぐ支える。
左手で魔王の腕を掴んだまま、ロアンは全身を前へ倒した。
魔王の爪がロアンの脇腹を貫いた。
同時に、聖剣の切っ先が魔王の胸を貫いた。
城が静まり返った。
黒炎がほどけていく。
魔王は自分の胸を見た。
聖剣の刃に、銀の残光が淡く残っている。
憎しみではない。
怒りでもない。
魔王は、敵を見る目でロアンを見た。
「……見事だ、人間。守りながら、我を斬ったか」
ロアンは返事をしようとした。
喉から血があふれて、言葉にならなかった。
魔王の身体が灰になり始める。足元から崩れ、黒い粒となって舞う。
その消えかけた指が、ロアンの胸に触れた。
冷たかった。
炎よりも、刃よりも、ずっと冷たいものが胸の奥へ沈んでいく。
「何を……」
「勝利の代償だ」
魔王が笑った。
ロアンの胸の内側で、黒い何かが脈を打つ。
皮膚に傷はない。
それなのに、心臓の裏へ杭を打たれたような痛みがあった。
魔王は崩れながら、低く告げた。
「我は終わらぬ」
灰が舞う。
「魔王は、いつの時代にも在る」
ロアンは剣を引こうとした。けれど腕に力が入らない。
「覚えておけ、勇者」
魔王の声が遠ざかる。
「人は、勝った後にこそ本性を見せる」
その言葉を最後に、魔王は消えた。
黒い空が裂けた。
城の奥へ、薄い朝の光が差し込む。
背後で誰かが泣きながら叫んだ。
「魔王が倒れた!」
歓声が広がった。
兵が泣く。癒し手が膝をつく。少年兵は折れた槍を落とし、両手で顔を覆った。
ロアンは振り返ろうとした。
大丈夫だ、と言うつもりだった。
けれど膝が落ちる。
聖剣が床を転がり、欠けた刃が朝の光を受けた。
胸の奥で、黒い印がもう一度だけ脈を打つ。
ロアンはそれを、魔王の最後の呪いだと思った。
遠く、崩れた城門の向こうから、王国軍の勝鬨が遅れて届いた。
世界は救われた。
そう信じたまま、勇者は意識を手放した。




