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第010話 黒銀

「起きろ」


その声が、白い部屋の底へ沈んだ。


魔王イシュカラの指先の下で、対象Aの胸の黒い印が深く脈を打つ。


どくん。


生きている者の鼓動ではなかった。


石を叩く音に近い。水の底で、黒い鐘が鳴ったような音だった。


封印線が震えた。


白い線が対象Aの胸から逃げようとし、石台の縁で細く裂ける。札が揺れる。対象Aと書かれた黒い文字が、灯火の影で一瞬だけ歪んだ。


イシュカラは手を離さない。


少女の白い指が、死んだ勇者の胸に沈み込むほど強く押し当てられる。


「沈むな」


声は低い。


「戻れ」


石台の下を流れていた水音が、止まった。


部屋の奥で、閉じられた台帳の紙がひとりでにめくれる。赤い封蝋に入った亀裂が、枝のように広がった。


イシュカラの瞳に、黒い光が宿る。


少女の喉から、古い言葉が落ちた。


深底招魂(デ・プロフンディス)


黒が、対象Aの胸から伸びた。


糸ではない。


炎でもない。


けれど、それは燃えるように石台を這い、白い封印線を飲み込んでいく。灯火が細く悲鳴を上げた。壁に刻まれた祈りの文句が、一文字ずつ黒く濡れていく。


対象Aの指が動いた。


冷たい指先が、石台をかすかに掻く。


どくん。


もう一度、黒い印が鳴る。


胸は動いていない。


心臓も戻っていない。


それでも、その黒だけが命の中心のように鳴っていた。


深いところに、声が届いた。


起きろ。


それは妹の声ではない。


泣き声でもない。


戦場の底で聞いた声に似ていた。黒い炎の向こうから、最後まで折れずに笑っていた魔王の声。


だが、その声の奥に、別の痛みが混ざっている。


白い布。


石の壇。


伸ばせなかった手。


喉を潰された叫び。


目の前で消えた、小さな背中。


死んだはずの意識が、その一つ一つに引っかかりながら浮かび上がる。


息の形だけが、戻った。


胸が大きく跳ねる。


吸い込んだ空気は、冷たすぎた。肺に入った瞬間、身体の中を刃物のように擦る。生き返った温かさではない。墓の中の冷気を、無理やり呼吸に変えたような感触だった。


その胸を動かしているのは、心臓ではなかった。


黒い炎が、対象Aの胸から肩へ走る。


腕へ。


喉へ。


髪の先へ。


白い衣が焦げるように揺れ、黒い火の粉が石台の上へ散った。


その炎の底に、一筋だけ銀が走る。


細く、鋭く、まっすぐに。


かつて魔王の胸へ届いた剣筋が、黒の中でまだ折れずに残っていた。


イシュカラの瞳が、わずかに細くなる。


「残っていたか」


対象Aのまぶたが震えた。


黒い印が三度目の拍を打つ。


次の瞬間、死んだ勇者の瞳が開いた。


白い天井。


冷たい石台。


灯火。


封印線。


胸の奥で鳴る黒。


それらが、一度に視界へ流れ込んでくる。


身体が重い。


重いのに、どこか空っぽだった。


手を握ろうとすると、指が遅れて動いた。自分の身体なのに、死体を内側から動かしているような違和感がある。


喉が焼けていた。


声を出そうとしただけで、古い鎖が喉の奥で鳴る。


「……誰だ」


出た声は、かつての勇者のものではなかった。


低く、掠れて、黒い灰を噛んだような声だった。


石台のそばに、少女が立っている。


白い服。


細い手。


知っているはずの輪郭。


胸の奥が、反射で痛む。


その名を呼ぼうとして、喉が止まった。


違う。


その瞳は、妹のものではない。


そこにいるのは、少女の身体をした魔王だった。


「貴様を殺した魔王だ」


イシュカラは、そう言った。


少女の口で。


冷えた王のような声で。


死んだ勇者は、しばらくその顔を見ていた。


魔王。


妹。


死。


処刑。


白い部屋。


対象A。


対象B。


言葉が、ばらばらに沈んでいく。


石台の脇に下げられた札が視界に入った。


対象A。


名前ではない。


称号でもない。


あの日、声を奪われたまま殺された男に残されたのは、その文字だけだった。


男はゆっくりと上体を起こした。


背中で封印線が砕ける。


白い線の破片が、黒い火の粉になって床へ落ちた。


胸の黒い印が鳴るたびに、部屋全体の灯火が暗くなる。


イシュカラはその様子を見上げた。


少女の背丈では、石台の上に起き上がった男を見上げる形になる。それでも、その目に怯えはなかった。


「黒炎に沈んでも、銀が残った」


イシュカラが言う。


男の右手の指先で、黒い火が揺れた。


その中に、細い銀の光が一瞬だけ走る。


「なら、黒銀だ」


名を与える声だった。


祝福ではない。


救済でもない。


墓の底で、刃に銘を刻むような声だった。


黒銀はその名を聞いた。


胸の黒が、静かに脈を打つ。


勇者の名は、遠い。


古い名も、遠い。


だが、いま鳴っているものには、その名の方が近かった。


黒銀。


黒い炎の底に、銀だけが残ったもの。


否定する理由はなかった。


「ここは」


黒銀が言った。


短い声だった。


イシュカラは壁際の台帳へ視線をやる。


「貴様らが葬られなかった場所だ」


黒銀の目が、扉へ向いた。


厚い白い扉。


祈りの文句を刻んだ鉄の帯。


外から閉じるための錠。


内側にいるものを、人として扱わないための扉だった。


黒銀は石台から下りた。


足が床に触れる。


冷たい。


それでも倒れない。


裸足のまま、一歩進む。


黒い火が床を舐める。


二歩目で、対象Aの札が焼け落ちた。


三歩目で、対象Bの札が揺れた。


黒銀はそれを見た。


声は出さなかった。


ただ、胸の黒い印が一度だけ深く鳴る。


イシュカラが小さく笑った。


「行くぞ、黒銀」


黒銀は扉の前で足を止める。


剣はない。


鎧もない。


英雄の旗も、聖剣の光もない。


それでも、右腕が動いた。


黒炎が指先に集まる。


その中心を、銀の線がまっすぐ走る。


白い封印扉に、細い傷が入った。


一拍遅れて、鉄の帯が割れる。


祈りの文字が、黒く燃えながら剥がれ落ちる。


神殿地下の扉が、内側から破られた。

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