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第011話 地下の返り血

神殿地下の扉が、内側から破られた。


割れた鉄帯が、白い廊下を転がる。


祈りの文字を刻まれた破片は、床に触れた端から黒く焦げた。封印灯が一つ、また一つと震え、細い鈴の音を鳴らし始める。


黒銀は、裸足のまま廊下へ出た。


足の裏に触れる石は冷たい。だが、胸の黒い印が鳴るたび、床に走る白い線が逃げるように細く歪んだ。


背後で、イシュカラが破れた扉をまたぐ。


白い服。


少女の身体。


その瞳だけが、神殿の白さを冷たく見ていた。


廊下の左右には、記録棚が並んでいる。封蝋を押された黒い台帳。札を吊るした箱。細い管の通った壁。どれも清潔で、血の気がない。


床の溝だけが、少し違った。


何度洗っても落ちなかったような赤黒い線が、白い石の継ぎ目に細く残っている。


「よくもまあ、ここまで白く塗ったものよ」


イシュカラが低く言った。


「我より悪趣味だ」


黒銀は、横目で少女の身体を見た。


「走れるか」


イシュカラの眉が、わずかに上がる。


「我を子ども扱いするな」


その声は魔王のものだった。


だが、片手は壁に触れている。白い封印文字を読んでいるのか、壊れた扉から広がる警報の流れを探っているのか。少女の指がなぞるたび、壁の文字が虫のように逃げた。


奥から、足音が来た。


一つではない。


金属の靴底。杖の先。鎖を引きずる音。


「第三封印室、破損!」


白衣の神官が角を曲がって現れた。続いて、顔を覆った兵が三人。手には槍ではなく、輪のついた鎖を持っている。


神官の目が、黒銀の胸で止まった。


「第三封印室、異常起動。主標本が動いた。少女体も離床。拘束しろ。壊すな」


黒銀は答えなかった。


鎖が飛ぶ。


右手が動いた。


剣はない。


それでも、空気に銀の線が走った。


鎖の輪が二つに割れる。


遅れて、白衣の胸元に赤が開いた。


斜めに走った血だけが、白い布の上で妙にはっきりしていた。


神官は、自分の胸を見下ろした。


初めて、そこに人間の色があることに気づいたような顔だった。


神官は自分が斬られたことに気づかない顔で、半歩下がった。


次の瞬間、黒い火が床を舐めた。


白い廊下に、返り血が落ちる。


黒炎はそれを飲み込まず、赤だけを残した。白の上に落ちたその色だけが、黒銀の返事だった。


返り血が、黒銀の頬にも散った。


拭わない。


「主標本を――」


二人目の兵が叫ぶ。


黒銀は、もうそこにいなかった。


低く踏み込む。


肩を抜ける。


銀の残光が、兵の喉元の鎖飾りを断った。首から下げられていた小さな聖印が床へ落ち、割れる。


兵が膝をつくより早く、黒銀は三人目の横を通り過ぎていた。


「遅い」


声は短かった。


それだけで、兵の背後の壁に斜めの傷が入る。


一拍遅れて、兵が倒れた。


白い鈴が、天井で狂ったように鳴った。


奥の扉が次々と開く。処理用の仮面をつけた神官たちが、封印札の束を抱えて走ってくる。誰も倒れた者を見ない。彼らの目は、黒銀の胸の黒い印と、イシュカラの細い喉元だけを測っていた。


「保存状態を確認しろ。損傷が大きければ記録を優先――」


その言葉は、最後まで続かなかった。


神官の袖口から、番号札がこぼれた。


小さな札が三枚。


どれにも名前はなかった。


黒銀はそれを見た。


黒銀の黒炎が足元を走る。


火は床を焦がさない。


白衣の裾だけを選んで噛み、逃げる足を絡め取った。


イシュカラはその横を歩く。


走らない。


黒銀の後ろでも、前でもない。半歩横に並ぶように進む。


「まだ剣も持たぬのに、それか」


黒銀は返事をしない。


胸の黒い印だけが、深く鳴った。


廊下の先で、厚い扉が開いた。


冷たい薬草の匂いが流れてくる。


その奥は、さらに白かった。


壁には、空の硝子筒が並んでいる。


中身の抜けた札だけが残っていた。小さな手形のついた布。爪で引っかいたような線。祈りの文句で覆われた器具。


黒銀は、それらの名を知らない。


知る必要もなかった。


檻が並んでいた。


鉄格子の内側に、小さな影がうずくまっている。布を巻かれた腕。番号の札。床に置かれた水椀。獣の耳を伏せた子どもが、黒銀を見て息を止めた。


奥にも、少女の形をした影がいた。


人間の耳ではない子。


片目に白い布を巻かれた子。


首から番号札だけを下げた子。


誰にも、名前はなかった。


拘束台の上にも、誰かがいる。


目だけが動く。


声は出ない。


黒銀の足が、止まった。


白い札が揺れている。


名前ではない。


番号だけが、人の代わりに吊るされていた。


奥の通路から、また兵が来る。


「実験区画を閉鎖しろ! 残体は焼却でいい!」


壁の封印線が一斉に光った。


白い火が檻へ伸びる。


子どもが、鉄格子の奥で身を縮めた。


黒銀の黒炎が走った。


檻の前で、火は二つに割れた。


黒い火の粉は子どもの頬に触れない。


拘束台の布も、番号の札も、焼かない。


ただ、封印線を起動した神官の腕へ巻きついた。


白い叫びが、黒く潰れた。


イシュカラが、前へ出る。


少女の細い指が、空中の封印線をつまむように動いた。


指先の黒が、うすい輪を作る。


少女の身体に押し込められた魔王の命令は、そこで一度軋んだ。それでも、壁に刻まれた封印札が耐えきれず、端から焦げていく。


『裏を向け』


命令だけだった。


本来の声なら、実験区画の祈りごと沈んでいた。


今は封印線一本へ絞られている。その一本に、神官たちの祈りは逆らえなかった。


白い封印線が、ひっくり返る。


檻へ向かっていた光が、逆向きに走った。神官たちの足元へ戻り、床から白い杭のように立ち上がる。


祈りの文字が、祈っていた者の喉を縛った。


兵が槍を落とす。


黒銀はその間を進んだ。


檻の錠に、銀の線が一つずつ入る。


かしゃん。


かしゃん。


鍵が落ちる音だけが続いた。


檻の中の子どもが、震える手で格子を押した。扉は、音もなく少しだけ開く。


黒銀は見ない。


礼も、怯えも、どちらも受け取らない。


助けた、と言うには遅すぎる。


許した、と言うには冷たすぎる。


それでも、黒い火は檻の内側へ入らなかった。


ただ、次に来た白衣の男を斬った。


「何者だ」


外縁通路へ続く階段の前で、聖騎士が剣を抜いた。


これまでの兵とは違う。


白い鎧の胸に王国の紋章がある。剣には、薄い聖光がまとわりついていた。


「止まれ。その少女を連れて上へ出ることは許されない」


黒銀は歩みを止めない。


聖騎士の目が、イシュカラへ向く。


「少女体を確保しろ。黒い方は、脚を落としてでも――」


言葉は、そこで切れた。


黒銀が踏み込んでいた。


白い聖光が振り下ろされる。


黒炎が上がる。


二つがぶつかる寸前、黒い火の中を銀が抜けた。


細い。


速い。


まっすぐな線だった。


聖騎士の剣が根元から割れる。


鎧の胸に、一本の傷が走った。


黒銀は、もう横を通り過ぎている。


イシュカラも続いた。


階段の上から、冷たい空気が流れてくる。地下の白さとは違う、石と夜の匂いだった。


黒銀とイシュカラは、その匂いの方へ進んだ。背後で、研究施設の白い灯が一つずつ黒く落ちていく。


聖騎士は膝をついた。


返り血に濡れた床の上で、目だけが黒銀の背を追う。


黒炎の裂け目に、銀の残光がまだ残っていた。


「この剣筋は――」


その先の言葉は、血の中へ落ちた。

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