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第012話 名を殺した旗

階段の先で、夜の匂いがした。


地下の白い石とは違う。湿った土と、古い雨と、遠くの煤の匂いだった。


黒銀は足を止めない。


背後では、まだ神殿地下の鈴が鳴っている。高く、細く、耳の奥を削るような警報だった。階段の壁に刻まれた祈りの文字は、黒銀が通るたびに端から焦げ、白い粉になって落ちていく。


イシュカラは半歩横を歩いていた。


少女の足音は軽い。だが、一定ではない。


三段に一度、ほんのわずかに遅れる。


黒銀は視線だけを向けた。


「止まるか」


「誰に言っている」


返ってきた声は、魔王のものだった。


けれど、白い壁に触れた指先は冷えている。爪の色が薄い。先ほど封印線を裏返したときの黒い光が、まだ指の節に残って震えていた。


黒銀はそれ以上言わなかった。


階段の上で、鉄の扉が揺れた。


外側から鍵がかかっている。


黒銀が右手を上げる。


黒い火が指に集まり、その芯に銀が走った。


錠が、音もなく割れた。


押し開けた先は、神殿の裏庭だった。


夜はもう薄い。東の空だけが灰色に明るく、屋根の縁に鳩ではなく、黒い煤が積もっている。


裏庭の物置には、下働き用の煤けた外套が掛かっていた。


イシュカラはそれを剥ぎ取り、フードを深く被る。


「この顔を晒すには、まだ早い」


白い髪と頬の線が、灰色の布の奥へ消えた。


石畳の端に、洗い流しきれなかった赤があった。神殿地下から伸びる溝が、地上の雨樋へつながっている。白い建物の外まで、血の匂いは来ていた。


イシュカラが短く鼻で笑う。


「上も下も、同じ白だな」


黒銀は庭の向こうを見た。


兵の声が近づいてくる。


「裏門を塞げ! 黒い男だ!」


「少女を連れている。見つけたら鐘を鳴らせ!」


黒銀の足が止まった。


対象でも、番号でもなかった。


黒い男。


少女。


それだけだった。


地上の兵たちは、彼らの名を知らない。


殺した者たちが奪った名は、まだ地上で別のものに貼りつけられている。


黒銀は裏庭の石壁を越えた。


黒炎が走る。兵の足元ではなく、門を閉じる鎖だけを噛んだ。鎖が焼け落ち、兵たちはたたらを踏む。


「待て、貴様――」


槍が突き出された。


黒い火は穂先に絡み、鉄だけを噛み砕く。柄は兵の手の中に残ったまま、重さを失った。


別の兵が短弓を構える。


弦が鳴る前に、黒炎が細い糸になって走った。弦だけが切れ、矢は足元へ落ちる。兵の指には触れない。


「門を閉じろ!」


二人がかりで押された鉄扉へ、黒炎が低く這った。


燃え広がる火ではない。黒銀の足元から伸びた影に、火の縁だけがついたようなものだった。扉の蝶番を舐め、留め金を噛み、用が済むと石畳へ沈む。


鉄扉は閉じる前に傾いた。


兵たちは、傷一つないまま道を空けた。


黒銀はフードの少女を半歩後ろに置き、路地へ出た。


王都の裏路地は狭い。


洗濯紐が頭上に揺れ、石壁の隙間から朝の煮炊きの煙が流れてくる。誰かの生活の匂いがした。血の匂いとは違う。生きている者の朝だった。


黒銀は、そのどれにも触れない。


逃げ遅れた老婆が扉の隙間からこちらを見て、息を呑んだ。抱かれた子どもが泣きかけた瞬間、黒い火は石畳の端へ引いた。


路地の角から、パンを抱えた少年が飛び出しかける。


黒銀の足が、先に止まった。


少年は黒い炎を見て固まり、腕の中のパンを落とした。丸いパンが石畳を転がり、黒銀の足元で止まる。


黒炎は、そこにも触れなかった。


黒銀は一歩横へ退く。


少年は震えながらパンを拾い、泣きそうな顔で奥の扉へ逃げ込んだ。扉が閉まる寸前、隙間から母親らしい女の手が伸び、子どもの肩を抱き寄せる。


イシュカラが横目で見上げる。


「まだ、そういう線を残すか」


黒銀は、路地の先へ視線を戻した。


そこを抜けると、広い通りに出た。


そこには旗があった。


白地に金の縁取り。


王国の紋章。


そして、剣を掲げる男の絵。


黒銀の知らない男ではない。


セルド・ガルヴァン。


かつて、戦場で倒れかけていたところをロアンが救った男。


旗の下で、職人たちが木枠を組んでいる。金の布を張り、台を磨き、告示板に新しい羊皮紙を貼っていた。


「明日の凱旋式、夜明け鐘の三つ目からだ」


「新勇者様が民の前に立つ。前の告示は全部外しておけ」


「先代の肖像は?」


「焼却だ。あれは浄化済みだと聞いている」


先代。


その言葉だけが、黒銀の耳に残った。


通りの壁には、四角い白い跡がある。


そこだけ石が新しかった。何かを長く掛けていた場所から、急に額縁を外した跡だった。雨に濡れなかった石の色だけが、周囲よりも白い。


勇者の肖像があった場所。


顔を消した跡。


名を外した跡。


白い跡の下には、古い釘穴が四つ残っていた。


下の二つだけが、少し深い。


長く重い額を支えていた跡だ。


ロアンが王都で見たことのある肖像ではない。だが、人々がそこへ花を挿していたことは分かった。石の継ぎ目に、乾いた花弁が一枚だけ挟まっていたからだ。


その花弁も、いまは踏まれて黒く汚れている。


職人の一人が、白布を広げながら笑った。


「前の勇者の面影が残ると縁起が悪いってさ。新勇者様の門出だ、きれいに隠せって」


「民はすぐ慣れる。旗が変われば、呼ぶ名も変わる」


軽い声だった。


石を削る音よりも、軽かった。


黒銀は告示板の前で止まった。


新しい羊皮紙には、美しい文字が並んでいる。


魔王討伐の最終局面を成し遂げた新勇者セルド・ガルヴァン。


魔王の穢れに堕ちた先代勇者は、神殿の浄化により国の災いから取り除かれた。


その勇敢なる浄化を支えた新勇者の功績を、王都にて称える。


黒銀は読み終えても、動かなかった。


風が旗を揺らす。


金の縁が朝の光を拾い、剣を掲げるセルドの絵だけが明るく浮かんだ。


イシュカラが、白い壁の跡を見る。


「貴様の顔も、名も、あそこから剥がされたか」


黒銀の胸で、黒い印が鳴った。


どくん。


音は小さい。


だが、告示板の釘が一本、ひとりでに抜けた。


紙の端がめくれる。


新勇者。


浄化。


功績。


どの文字も、白く飾られていた。


あの日、妹の手を取れなかった。


声を奪われた。


名を奪われた。


死体の上に番号札を吊るされた。


それでも足りず、今度はその名の場所に別の男の旗を立てている。


黒銀の指が、告示板の縁に触れた。


黒い火は紙を焼かなかった。


まだ。


民は読めばいい。


信じればいい。


嘘がどんな形をしていたのか、見ておけばいい。


告示板の前に、二人の男が立ち止まった。


片方が羊皮紙を読み上げる。


「セルド様が、先代を浄化したのか」


「そう書いてある」


「なら、本当に危なかったんだな。勇者でも魔王に触れれば堕ちるのか」


「神殿が言うなら、そうなんだろう」


男たちは納得した顔で去っていく。


その背中に、黒銀は何も言わなかった。


彼らは地下を見ていない。


声を奪われた首輪を見ていない。


公開浄化を見た者も、何を見せられたのかを知らない。


妹が先に白い光へ沈むところを、祈りの終わりだと信じた。


首輪の下で喉が裂けたことも、白い壇の下へ遺体が落ちたことも知らない。


ただ、貼られた紙を読んだだけだ。


だからこそ、紙は人を殺す。


イシュカラが言った。


「式に行くか」


黒銀は旗を見上げた。


風が吹く。


セルドの描かれた布が、大きく膨らんだ。


その影が、黒銀の顔に落ちる。


「名ごと殺す」

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