第013話 魔王を抱えて歩く
王都の朝は、鐘の音で目を覚ます。
一つ目の鐘で市場が開き、二つ目の鐘で門が上がる。三つ目の鐘が鳴る頃には、新勇者の旗を見ようとする人の流れが広場へ向かう。
黒銀とイシュカラは、その流れとは逆へ進んでいた。
表通りではない。
古い水路の脇を通る細い道だ。石壁には苔がつき、水の匂いが薄く漂っている。頭上の格子から、通りを歩く人々の影だけが落ちてきた。
「人間は、よくもまあ朝から騒ぐ」
イシュカラが言った。
声はいつものように冷えていた。
だが、足音が遅い。
黒銀は歩幅を落としていた。言わなければ気づかれない程度に。だが、イシュカラは気づいたらしく、横から鋭い視線を投げてくる。
「合わせるな」
「遅れている」
「遅れてなどいない」
そう言って、イシュカラは一歩前へ出た。
次の石の継ぎ目で、足がわずかに沈む。
黒銀の手が伸びる方が早かった。
細い肩を支える。
少女の身体は、驚くほど軽かった。
イシュカラはすぐにその手を払いのけようとした。
「触るな。これは、術式の反動だ」
「立てていない」
「立っている」
「壁が支えている」
イシュカラは眉を寄せた。
確かに、片手が水路の壁についている。白い指先に、地下で見た黒い震えがまだ残っていた。魔王の器としては小さすぎる身体が、命令術式と蘇生の反動を受け止めきれていない。
黒銀は少しだけ屈んだ。
「乗れ」
「命令か」
「歩けないだろ」
「我を子ども扱いするな」
その言い方は、あまりにも魔王だった。
だが、息は浅い。
黒銀は答えず、イシュカラを抱え上げた。
細い身体が腕の中に収まる。煤けた外套の裾が揺れ、裸足の先が宙に浮いた。
一拍遅れて、イシュカラが固まった。
「……降ろせ」
「落ちる」
「落ちぬ」
「今、落ちかけた」
「あれは地形を確認しただけだ」
黒銀は歩き出した。
水路の中を、冷たい水が流れている。低い音が足元で続いた。上からは、王都の騒ぎが石を通して鈍く聞こえる。
イシュカラは、しばらく黙っていた。
抱えられたまま黙るのが気に入らないのか、眉間にはしわが寄っている。
だが、暴れはしなかった。
暴れれば落ちる。
落ちれば、黒銀が正しかったことになる。
それだけは認めたくない、という顔だった。
「これは戦略的休息だ」
やがて、イシュカラが言った。
黒銀は前を見たまま答える。
「そうか」
「肯定するな。馬鹿にしているように聞こえる」
「していない」
「では、もう少し悔しそうに運べ」
黒銀は沈黙した。
イシュカラはその沈黙を不満そうに睨む。
「貴様、口数が死んでからさらに減ったな」
「増える理由がない」
「復讐者とは不便なものだ」
黒銀は返事をしなかった。
やがて、黒銀の肩口を掴む指に力が入る。
「貴様」
「何だ」
「慣れているな」
黒銀の足が、ほんの少しだけ止まりかけた。
すぐに進む。
「昔、妹をこうして運んだ」
言ってから、喉の奥が冷たくなる。
妹。
その言葉は、石壁に触れた水音よりも遠く響いた。
イシュカラの瞳が、細くなる。
「聞いていない」
「言った」
「我は聞いていない」
黒銀はそれ以上言わない。
腕の中の重さが、記憶とずれる。
似ているだけだった。
息の間が違う。
リネアは、もっと温かかった。
熱を出した夜、背負って村の薬師のところへ走った。小さな手が首に回り、耳元で「兄さん、速すぎ」と怒った。怒っているのに、手は離さなかった。
雨の夜だった。
道は泥で、靴の裏が何度も滑った。
それでも、背中の軽さだけは怖かった。こんなに軽いものを守れなければ、勇者になどなっても意味がないと、まだ剣もろくに握れなかった頃のロアンは思っていた。
薬師の家へ着いたあと、リネアは薬の苦さに泣いた。
泣きながらも、帰り道では眠っていた。
首に回された手の力が抜けるたび、ロアンは歩き方を変えた。落とさないように。起こさないように。
勇者になってからは、何度も人を背負った。
倒れた兵。
逃げ遅れた子ども。
傷ついた村人。
誰を運んでも、最後に思い出すのは妹の重さだった。
今、腕の中にいるのは魔王だ。
かつて自分が斬ったもの。
自分の胸に黒い印を残したもの。
妹の身体を使っているもの。
だが、妹を壇に立たせたのは魔王ではない。
声を奪ったのも、死体に札を吊ったのも、魔王ではない。
恨む先を間違えれば、王国と同じになる。
妹そのものではない。
分かっている。
分かっているのに、外套の袖口から覗く指が、あまりにも幼い。
イシュカラが低く言った。
「妙な顔をするな」
「していない」
「している」
「見えているのか」
「見えずとも分かる。貴様の胸の黒が、うるさい」
黒銀は黙った。
胸の印は確かに鳴っていた。
どくん。
どくん。
生きた心臓ではないはずのものが、妹の記憶に触れるたび不規則に深く沈む。
それとは別に、腕の中の少女の背が小さく跳ねた。
布越しに、もう一つの鼓動が伝わる。
弱く、悔しそうに。
イシュカラは視線をそらした。
「この身の反応だ」
その声は、少しだけ硬かった。
「この身体に残ったものが、勝手に揺れているだけだ。我のものではない」
「そうか」
黒銀はそれだけ答えた。
否定しなかった。
肯定もしなかった。
そのどちらかを選べるほど、腕の中の重さは単純ではない。
魔王の言葉がある。
妹の身体がある。
どちらも嘘ではない。
魔王だけを本物と呼べば、リネアの指先がまた消える。
リネアだけを本物と呼べば、目の前の宿敵を都合よく殺したことになる。
どちらもできなかった。
水路の先に、鉄格子が見えてくる。
その向こうは広場へ続く裏口だ。金の旗の影が、格子の隙間から揺れていた。人の声も近い。セルドの名を呼ぶ練習のような声が、遠くで何度も繰り返されている。
イシュカラが黒銀の腕から降りようとした。
「もう歩ける」
「無理をするな」
「無理ではない。魔王が抱えられたまま人間の祭りに入るなど、屈辱にもほどがある」
黒銀は腕を緩めた。
イシュカラの足が石に触れる。
少し揺れたが、今度は倒れなかった。
ただ、黒銀の袖を掴んだ。
ほんの一瞬だけ。
すぐに離す。
「今のも、この身の反応だ」
「何も言っていない」
「言うな」
黒銀は頷いた。
鉄格子の向こうで、三つ目の鐘が鳴り始める。
王都の朝が、偽の勇者を祝うために開いていく。
イシュカラはその音を聞きながら、小さく息を吐いた。
「昔も」
そこで、言葉が止まった。
黒銀は横を見る。
少女の唇が、別の誰かの記憶に引かれるように震えていた。
「昔も、こうして……」
続きは、鐘の音に沈んだ。




