第014話 新勇者の凱旋式
王都広場は、朝から白く飾られていた。
石畳には水が撒かれ、古い汚れを見えなくしている。壇の周りには白布が張られ、金の紐が風に揺れた。神殿の香が焚かれ、昨夜までの地下の血の匂いなど、この場所には一滴もなかったことにされている。
壁には新しい旗が並んでいた。
剣を掲げる男。
セルド・ガルヴァン。
新勇者。
その旗の横に、何も掛かっていない白い四角が一つだけ残っていた。
長く別の肖像が掛けられていた跡だ。雨も煤も避けていた石の色だけが、周囲より白い。
式典係の男が、それを見て舌打ちした。
「そこにも布を垂らせ。空きが目立つ」
若い係が慌てて白布を持って走る。
やがて、空白は隠された。
民衆には、最初から何もなかったように見える。
広場の端で、鐘が一つ鳴った。
歓声が低く広がる。
「セルド様はまだか」
「新勇者様だ。魔王を討った方だろう」
「先代は、穢れに落ちたんだと」
「神殿が浄化したなら、もう安心だ」
声は明るい。
誰も地下を知らない。
誰も、白い石台の上に吊られた札を知らない。
広場脇の控えの間で、セルド・ガルヴァンは白い外套を羽織らされていた。
肩に金の刺繍。
胸には勲章。
腰には式典用に磨かれた剣。
鏡の中の男は、確かに勇者らしく見えた。
セルドは顎を上げる。
「勲章の位置がずれている」
侍従が慌てて手を伸ばす。
「失礼いたしました、新勇者様」
新勇者。
その響きが、胸の中で甘く鳴った。
ずっと欲しかった言葉だった。
戦場で人々が見ていたのは、いつも別の男だった。
まっすぐに剣を振る男。
笑って民の肩を叩く男。
兵が怯えたとき、最初に前へ出る男。
勇者ロアン・ノール。
セルドは、その名を思い出すたびに奥歯を噛んだ。
助けられたことがある。
魔王軍の残党に囲まれ、剣も盾も落とした時、銀の線が目の前を走った。
次の瞬間、敵は倒れ、ロアンは振り返りもしなかった。
大丈夫か、と笑った。
その笑顔を、セルドは忘れられない。
忘れたいのに、忘れられない。
「何が大丈夫だ」
小さく吐き捨てる。
侍従が顔を上げた。
「何か」
「何でもない」
セルドは鏡の中の自分を見た。
今は、自分が壇に立つ。
自分の名を民が呼ぶ。
ロアンの肖像は外され、セルドの旗が広場を埋めている。
これでいい。
歴史は、民が覚えた形で残る。
机の上には、式典の口上を書いた羊皮紙が置かれていた。
読み上げる順番は決まっている。
魔王討伐。
先代勇者の穢れ。
神殿の浄化。
新勇者の誓い。
どの行にも、セルドに都合の悪いことは書かれていない。
ロアンが最後まで戦ったこと。
セルドが倒れていたこと。
最後に前へ立っていたのが誰だったか。
魔王の血に触れた先代が、それでも王国を守るために剣を振ったこと。
誰も、それを壇上で読み上げたりはしない。
セルドは羊皮紙を指でなぞった。
自分の名だけが、何度も出てくる。
それでいい。
人は、聞いた名を覚える。
叫んだ名を信じる。
扉の外で足音が止まった。
兵が入ってくる。
顔色が悪い。
「神殿の閉鎖区画から緊急伝令です。大神官猊下の封蝋つきで」
兵が差し出した筒には、赤い封蝋が二重に押されていた。
ふだんの儀礼報告ではない。
セヴラン・オドが急がせた伝令だった。
「封印扉が破られました。黒い男が、フードの少女を連れて逃走。裏門より王都側へ」
セルドは眉を寄せた。
「黒い男?」
「詳細不明です。神官数名が死亡。地上側には、黒い男とフードの少女の捜索命令が出ています」
侍従たちがざわめく。
セルドは白い手袋をはめ直した。
「式を止めるほどの報告か」
兵が言葉に詰まる。
「いえ、しかし」
「王都の民が待っている」
セルドは外套の前を払った。
「魔王を討った新勇者が、地下の小鼠一匹で壇を降りるわけにはいかない」
兵はなお何か言いたげだった。
「大神官猊下から、黒い炎の報告も」
「炎?」
「廊下と封印灯に、黒い焦げが残っていると」
セルドの眉が、ほんの少し動いた。
黒い炎。
魔王城で見たものとは違う、と自分に言い聞かせる。
あれは終わった。
魔王は討たれた。
先代は浄化された。
地下で何が起きていようと、今日の主役は自分だ。
「神殿の不始末を、俺の式に持ち込むな」
セルドは冷たく言った。
「広場には民がいる。民が見るのは、新勇者の勝利だけでいい」
その言葉に、侍従たちは慌てて頭を下げた。
セルドは扉へ向かう。
胸の勲章が揺れ、硬い音を立てた。
広場へ出ると、歓声が弾けた。
白い布の向こうで、人の波が揺れる。
セルドは片手を上げた。
歓声がさらに大きくなる。
その音に、胸の奥が満たされていく。
これだ。
このために、あの男は消えた。
このために、先代は穢れになった。
このために、自分は新勇者になった。
壇の中央に立ち、セルドは民衆を見渡した。
「オルガレムの民よ」
声はよく通った。
何度も練習した口上だ。
「魔王の脅威は去った。魔王に触れ、穢れに堕ちた先代の悲劇も、神殿の浄化により終わった。これよりは、このセルド・ガルヴァンが、王国の剣として――」
民衆の前列で、少年が父親の袖を引いた。
「あの人が、前の勇者様を清めたの?」
父親は頷く。
「そうだ。王国を救った新しい勇者様だ」
「前の勇者様は?」
父親は少し困ったように笑い、告示板の方を見た。
「悪いものに触れてしまったんだ。だから神殿が清めた」
少年は分かったような、分からないような顔で壇上を見た。
セルドには、その会話までは聞こえない。
ただ、子どもの目が自分へ向いたことだけは分かった。
見ろ。
覚えろ。
今日から勇者は、この顔だ。
セルドは胸を張った。
勲章が陽を受けて光る。
その光が民衆の目に届くたび、自分の中の小さな穴が少しずつ埋まっていく気がした。
たとえ埋めているものが、借り物の金属と偽りの言葉だけだとしても。
その時だった。
壇の前に並ぶ白い燭台の火が、細く曲がった。
風はない。
火だけが、黒い方へ引かれるように揺れる。
セルドの言葉が止まった。
旗が一枚、音を立てずに垂れた。
白い布の影が、ゆっくり黒く伸びる。
民衆の歓声に、ざわめきが混ざった。
セルドは上げていた手を下ろせない。
黒い揺れが、広場の光を裂いていく。
白い旗が、黒く揺れた。




