第015話 黒い怪物、王都に立つ
白い旗の影が、黒く伸びた。
民衆の足元へではない。
壇の上へ。
新勇者の紋章へ。
セルド・ガルヴァンを描いた大旗の胸元へ、墨を垂らしたような黒が落ちる。
次の瞬間、旗の布が裂けた。
悲鳴が上がる。
「何だ」
「火か」
「違う、影が――」
人の波が崩れた。
母親が子どもの手を引く。老人が杖を落とす。兵が剣を抜こうとして、隣の兵と肩をぶつける。
黒い火が、石畳を走った。
燃え広がる火ではない。
黒銀の足元から伸びた影に、火の縁だけがついている。石畳の溝を細く走り、必要な場所で腕のように立ち上がる。
だが、それは民の足に触れない。
泣き出した子どもの手前で火は二つに割れ、左右の石を焦がして抜けていく。逃げる老婆の裾には触れず、壇の柱に巻きついた金の布だけを噛んだ。
金の布が落ちる。
灰になった。
その灰の向こうに、黒銀が立っていた。
広場の出口へ人が押し寄せる。
兵たちは民を守るためではなく、式典の列を崩さないために槍を横へ構えた。
「下がれ! 壇へ近づくな!」
逃げる民衆の前に、槍の柄が並ぶ。
子どもが転び、母親の手が離れた。
黒い火が、母子の間を裂くように走る。
母親が悲鳴を上げた。
だが、火は子どもを焼かなかった。
槍の柄だけを黒く噛み砕き、出口を塞いでいた兵の列を崩す。転んだ子どもは母親に抱き上げられ、人の流れの中へ消えた。
民衆の恐怖は消えない。
それでも、黒い火が何を避けたのかを、何人かは見た。
黒い炎をまとい、顔も声もかつての勇者とは違う。
裸足のまま、白い壇へ向かって歩いている。
その横に、煤けたフードの少女がいた。
小さな身体。
灰色の布の奥で、冷えた瞳だけが細く光る。
逃げる民衆の流れを見ても、怯えはない。
誰も、その顔をはっきり見ない。
民の誰かが叫んだ。
「黒い怪物だ!」
その言葉は、広場を一気に走った。
黒い怪物。
黒い男。
少女。
誰も、そこに別の名を見ない。
黒銀は歩く。
王国兵が前に出た。
「止まれ! 新勇者様の御前で――」
黒銀の右手が動いた。
剣はない。
それでも、空気に銀の線が走る。
兵の剣が根元から折れた。
次の兵の槍も、三人目の盾も、黒い火に飲まれる前に金具だけが砕ける。腕は残る。喉も残る。だが、武器を向けた手から力が抜け、兵たちは石畳に膝をついた。
一人の兵が、震える手で腰の短剣へ伸ばす。
黒銀の視線が動く。
短剣の鞘だけが黒く割れ、中の刃が柄から外れて石畳へ落ちた。
兵の指には傷一つない。
それでも、その兵は短剣を拾えなかった。
自分が生かされたことを、遅れて理解した顔だった。
「道を塞ぐな」
黒銀の声は低かった。
短い。
その一言だけで、兵たちの肩が震える。
イシュカラが横で小さく笑った。
「親切だな。殺していない」
「標的ではない」
黒銀はそう言った。
民衆には、その声の意味など分からない。ただ、黒い火が自分たちを避けていることだけが、恐怖の中で遅れて見えてくる。
新勇者の旗が、また一枚落ちた。
広場の端で、誰かが膝をついた。
祈っているのではない。
足が震えて立てなくなっただけだ。
黒い火はその男のすぐ横を通り過ぎ、男が握っていた新勇者の小旗だけを灰にした。男は自分の手が残っていることに気づき、喉を鳴らして泣いた。
それでも、黒銀へ感謝の声は上がらない。
民はまだ恐れている。
助けられたことより、黒いものが目の前にいることの方が大きかった。
セルドは壇の上で立っていた。
白い外套の裾に、黒い灰がついている。
民衆の視線が、自分へ戻ってくるのを感じた。
恐怖。
期待。
助けてくれという目。
それらを失えば、自分は何も残らない。
セルドは剣を抜いた。
式典用の剣だった。磨かれた刃に白い光が乗っている。実戦の傷など一つもない。
「民よ、下がれ!」
声を張る。
自分でも驚くほど、よく通った。
「この魔王の残骸は、俺が討つ!」
その声に、逃げかけていた何人かが足を止めた。
頼れるものを探す目が、壇上へ戻る。
セルドはそれを見逃さない。
剣を高く掲げる。
白い光が刃の表面を滑った。
光は薄い。
それでも、遠目には聖なる剣に見える。
民衆がそう見てくれれば、それでよかった。
歓声は戻らない。
だが、何人かが縋るようにセルドを見た。
それだけでよかった。
セルドは剣先を黒銀へ向ける。
「どこの地下から這い出たか知らぬが、ここは王都だ。オルガレムの民の前だ。新勇者セルド・ガルヴァンの前だ」
黒銀は止まらない。
一歩。
また一歩。
セルドの言葉を、まるで風の音のように聞き流している。
セルドの胸に、苛立ちが走った。
「聞こえないのか、怪物。お前のようなものは、民に恐怖を与えるだけの残り滓だ。魔王の穢れは、この場で俺が――」
黒銀の足が、壇の最初の段にかかった。
石が黒く鳴る。
セルドは喋り続けた。
止まると、恐怖が喉を塞ぎそうだった。
「俺は魔王を討った勇者だ。王より剣を授かり、神殿より祝福を受け、民の前に――」
黒銀が顔を上げた。
その瞳に、怒鳴り声はない。
憎しみの説明もない。
ただ、終わらせるものを見る目だった。
セルドの声が、ほんの一瞬だけ揺れた。
イシュカラは壇の下で足を止める。
フードの奥から、冷たい目でセルドを見上げていた。
「飾りが多い」
イシュカラが小さく言う。
セルドには聞こえない。
黒銀には聞こえた。
「中身がないほど、布を増やす」
黒銀は返事をしない。
ただ、セルドの胸の勲章へ一瞬だけ視線を落とした。
その視線に気づいたのか、セルドは胸を庇うように肩を引いた。
勲章を守る動きだった。
人を守る動きではない。
黒銀の足が、また一段進む。
その差を、誰よりもセルド自身が分かっていなかった。
もう後戻りはできない。
黒銀はさらに一段上がった。
民衆のざわめきが遠のく。
セルドの剣先が、わずかに震えた。
それでも、彼は口を開く。
「この俺が、王国の名において――」
黒銀の声が、それを切った。
「よく喋るな」




